02年11月01日(金)

 今月号の日経サイエンスの特集は「時間とは何か」です。

 言うまでもなく、人類は太初より現在に至るまで、継続して「時間」という概念に取り組んできました。多くの哲学者が「時間」について考え、多くの文学者が「時間」について書き、あらゆる分野の学問が、あらゆる分野の研究者が「時間」について答えを見いだそうと取り組んできました。それでもなお「時間」について明確な答えはいまだ得ることができていません。

 「時間」に関するエッセイというものも相当数存在します。この雑記で何度も取り上げている吉田健一氏の『時間』などもそのうちのひとつです。相当に美しい文章に出会ったときの衝撃というものは大層なものでして、初めて『時間』を読んだときは、すごい勢いでぶっ倒れました。最初の一行がまた素晴らしくて。

冬の朝が晴れてゐれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日といふ水のやうに流れるものに洗はれてゐるのをみてゐるうちに時間がたつて行く。どの位の時間がたつかといふのではなくてただ確実にたつて行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間といふものなのである。

 エッセイは吉田健一特有の澱みのない文体で、「時間」についてただ滔々と書かれています。一行一行を、さらに一文字一文字を味わうようにこのエッセイを読んでいる時間、それこそがまさしくぼくにとっての理想の「時間」なのです。

時間が凡てのものを運ぶのでなくて凡てのものを通して流れて行くものであることをこのことは示している。それは一冊の本も静止の状態に置かなくてそれはその本にも時間があるからであり、これをその本の形を取つた時間、或は時間をその本が取り得る一つの形と見るならば動くと考へられるものにも静止してゐる印象を與へるものにも時間は偏在してそのことを感じることが出来なければ眼も動かない。

じかん

この地上における二人の暴君、それは勉蔵と時間だ。
ヨハネス・ヘルダー(ドイツ文学者・哲学者)
02年11月02日(土)

 多摩美術大学で公演などを行いまして。

 土、日、月と三回公演をする予定なのですが、ぼくは土曜日がお仕事なので、出れねーよと文句を言ったところ、きりんちゃんやめがね君がぼくの代役をやってくれるとおっしゃってくれました。幸いなことに、セリフはほとんどありませんから、代役をお願いするのも楽なものです。そんなわけで公演終了後にお酒を飲むためだけに神奈川県まで行きました。

 お酒を飲み終えた後、「いつもお世話になっているから車で家まで送るよ」という内倉君の申し出を丁重にお断りして、近くの拝島まで送ってもらいました。ここから、各駅停車のひとり旅の始まりです。がたん、ごとんと各駅停車がゆっくり闇夜を走ります。時間も時間ですから、車両にはほとんど人がいません。窓から見覚えのない町を眺めていると、まるで地方にきたような錯覚にとらわれます。

 我家に一番近い電車はすでに終電を過ぎていてのれなかったので、別の路線の少し離れた駅で下車しました。ここから我家まで、歩いて40分ほどです。夜分に見知らぬ町を歩くのは、不思議と興奮します。わざと迷ったり、遠回りになるような道を選びながら歩いていると、旅行の最中に萩原朔太郎の『猫町』を思い出したつげ義春のことを思い出しました。

 つげ義春は、友人と山梨県の犬目宿場という宿場町に車で行く最中、道に迷ってある村落に出ます。

 ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街灯がぽーっと白くともっていた。いくらか湿り気をおびた路は清潔に掃除され、日中の陽射しのぬくもりが残っているように感じられた。夕餉前のひとときといった風ののどかさで、子供や老人が路に出て遊んでいた。浴衣姿で縄とびをする女の子、大人用の自転車で自慢そうに円をかいてみせる腕白小僧、石けりをする子のズボンには大きなつぎが当たっている。私は近ごろ、あの母の温かさが縫いこまれたつぎの当たった衣服を着けている子どもを見たことがない。縁台でくつろぐ老人。それは下町の路地裏のような賑やかさであった。

 辺鄙な山の中に突然現れた美しい村に、つげは魅かれます。ここが犬目宿場なのかとも思いましたが、同行の友人が先を急ぐように運転をしていたために、言い出すことができませんでした。結局二人はそのまま帰路につくことになるのですが、帰道中、つげは萩原作太郎の『猫町』のことを思い出します。

 『猫町』は、現実の世界の旅行に魅力を感じなくなり、麻薬による幻覚の旅行を繰り返していた詩人が、温泉に滞留中に山道を散歩して道に迷い、幻想的魅惑に満ちた「猫町」に迷い込むという幻想小説です。

 瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。

 ほんの少し道をそれただけで、異界へと足を踏み入れてしまう。ううむ。まさしく旅情。

 けど、今の僕の気分的には、『猫町』の主人公である「私」が猫町を発見する以前にした体験、いつも見ている近所の詰まらない、ありふれた郊外の町が、方位を錯覚した主人公によって非常に魅力的に見えたという体験の方が近いような気がします。

それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、舗石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりしていて、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある風情を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。

 結局この魅惑に満ちた町は、主人公が或る商店の看板を見ることにより、「私(主人公)が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない」ということが判明します。この美しく不思議の町が、いつものつまらないありふれた町の「磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に」実在していたことを知った主人公は、その後「故意に方位を錯覚させて、しばしばこのミステリイの空間を旅行し廻」ることになります。

ねこまち

 夜道を歩きながら、わたくしのミステリイの空間を探し求めております。嗚呼、楽し。

02年11月03日(日)

 多摩美術大学公演本番でございます。

 みんなは昨日も公演を行っているにもかかわらず、わたくしは今日が初めての公演でございます。

べんぞう

 公演終了後、急いで横浜へ。某イベントに参加するとか。

べんぞう

 その後横浜でお酒を飲みました。よい気分で酔っぱらってね。これから我家まで帰るのがしんどいです。

べんぞう

 さらに、渋谷で勉蔵君とふたりで飲みました。勉蔵君が性同一性障害であるという相談を受けて、困りました。

べんぞう

 結局ふたりとも終電を逃して、分をわきまえずタクシーなんかに乗ってしまい。

べんぞう

 なんだかよく分からない一日でした。金をたくさん使いました。

べんぞう

02年11月04日(月)

 黒沢明の遺作『まあだだよ』を観ました。

 数年前にも一度観ているのですが、内容を100%忘れていたので、改めて観てみました。内田百間(『けん』の字違います。後述。)という人に興味があったということもありますが、すげーおもしろかった!

 実際のところ、多少内田さんを理想化しているような感じを受けないでもなかったですが、尊敬される先生とそれを慕う生徒達の交流は観ていて気持ちが良かったし、中島君も言っていましたが、「魔阿陀会」のシーンなんかは会の盛り上がりなんかは、相当によろしいのではないかと。観ているとなんだかわくわくしてしまいます。

 それで、ものはついでということで、以前から興味を持っていたけど読んでいなかった百間さんの本を購入してきました。こういうことって勢いが大切ですから。今年に入ってから出たばかりの『百鬼園随筆』と、岩波文庫の『東京日記』の二冊。『阿房列車』シリーズが面白いらしいのですが、まあ始めはここら辺が妥当でしょう。

 『東京日記』には『サラサーテの盤』という短編が収められています。内田さんの作品の中でも有名なものだと思うのですが、演奏の途中にサラサーテの声が入ってしまっている「チゴイネルヴァイゼン」という曲を収めたレコードをめぐるお話なのですが、これが静かな感じにちょっぴりホラーが入っていて、とてもおもしろかった。ホラーっていっても、全然ホラーじゃないのですけど。始まりと終わりがとても良いのです。始まり。がたがたと雨戸を揺らした風がやみ、静かになった夜。屋根の棟の天辺でコロコロとなにかが転がるような音がする。

宵の口は閉め切った雨戸を外から叩く様にがたがた云わしていた風がいつの間にか止んで、気がついて見ると家のまわりに何の物音もしない。しんしんと静まり返ったまま、もっと静かな所へ次第に沈み込んでいくような気配である。机に肘を突いて何を考えていると云う事もない。纏まりのない事に頭の中が段々鋭くなって気持ちが澄んで来る様で、しかし目瞼は重たい。坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっと身ぶるいがした。廂を辷って庭に土が落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。気を落ちつけていたが、座のまわりが引き締まる様でじっとしていられないから立って茶の間へ行こうとした。物音を聞いて向こうから襖を開けた家内が、あっと云った。
「まっさおな顔をして、どうしたのです」

 文体が淡々としていて、恐い話を書くぞ!という気負いがないので、とても読みやすいし、それが逆に幻想的な雰囲気を出していて、とてもおもしろかった。この『サラサーテの盤』は、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」の原作にもなってます。西岸良平の『鎌倉物語』第13巻の『沙羅砂阿手の盤』というお話も、この『サラサーテの盤』がヒントになっています。『鎌倉物語』、非常にゆるやかなペースで連載が続いていて、この間19巻が出てました。大好き。西岸。

 鉄割の中では内田さんを読んでいる方が結構いるようなので、今度面白いものを教えてもらおうっと。

うっちー

 ところで、ほらがい内田百間の紹介のページを見ると、「けん」の字がちゃんと出ています。「?フ」の字。これ、MacOSXだと見れたけど、OS9では見えませんでした。みなさんは見えますか。内田百?フ

02年11月05日(火)

 ふと気付けば、ポール・オースターの新作長編が出ています。

■The Book of Illusions: A Novel

おーっす

(Amazonより引用)
 サイレント時代の映画スターに魅せられた男の、不可思議な旅路を描いた物語。そこで彼を待っていたのは、嘘、幻影、そして意外にも愛が渦巻く「影の世界」だった…。
 航空機事故で妻と2人の愛息を失ってから半年、バーモントの大学で教えているデイヴィッド・ジンマーは、悲しみと自己憐憫(れんびん)を酒で紛らわす日々を送っていた。そんなある夜、彼はサイレント映画のコメディアン、ヘクター・マンの出演シーンを偶然テレビで目にする。その姿にがぜん興味をおぼえたジンマーは、ヘクター・マンに関する本の執筆を決意、すぐさまこの謎めいた男の調査の旅へと向かう。1929年に突然スクリーンから姿を消した彼は、それ以降、60年間死んだものと思われていた。
 翌年、本が出版されると、ジンマーあてに1通の手紙が届く。差出人住所は、ニューメキシコ州の小さな町。書いたのは、どうやらヘクターの妻のようだ。「ヘクターがあなたの本を読み、ぜひともお会いしたいと言っています。こちらにいらしていただけますか?」これはただのいたずらなのだろうか、それとも本当にまだヘクター・マンは生きているのだろうか?まさかという思いと信じたい気持ちがせめぎあうなか、ある晩、彼の自宅に不思議な女性が現われ、旅立ちを促すのだった。それは、ジンマーの人生を一変させる決断だった…。

 なんだよこれー、すげー面白そうじゃん。さすがといいますか、すでにAmazonのレビューが三つもあがっています。しかも全員五つ星!

 ついでにもう一発。『I Thought My Father Was God: And Other True Tales from Npr's National Story Project』のペーパーバック版が最近出たのですが、これはNPRというラジオ局の「National Story Project」で公募した読者の体験談に、オースターが少しだけ味付けをした作品を収めた短編集です。ひとつひとつの作品がとても短くて面白いので、これだったら頑張れば読めるかな。ちなみに、NPRのサイトで一部が公開されています。人は皆、話すことを欲しているのです。

おーすたー

 はやく京極堂の呪いから逃れて、別の小説を読みたい。誰か助けて。

02年11月06日(水)

 先々月に京都に行った折、鉄割の友人と訪れたある見識のある方の家で、「夜這い」についての面白いお話をお聞きし、それ以来、日本の農村に伝わる「夜這い」や性の風習について興味が湧き、近いうちにそのような風習について詳しく調べてみようと思っていたのですが、先日読了した京極夏彦の『絡新婦の理』に、以下のようなセリフがありました。

例えば有名な宣教師フランシスコ・ザビエルは、最初に日本を訪れた時、驚き嘆いて本国に手紙を出している。支配階級である武士や聖職者たる僧侶達が公然と男色行為を行い、庶民は半裸で過ごし、風呂は男女混浴、婚前の性的交渉ー夜這いが平然と行われている。こんな淫奔で不埒で風紀紊乱な国はない。ここまで性が乱れた国に基督教などひろまるものか

 『絡新婦の理』では、ムラにおける「夜這い」の風習がひとつのキーワードになっています。現在の日本ではほぼ完全に忘れ去られた、あるいは意図的に歴史の奥へと追いやられた「夜這い」という風習。その風習が物語中でどのような役割を果たしているのかをここで書いてしまうと、ネタバレになるので詳しくは書けませんが、「夜這い」に関する蘊蓄がたくさん出てきて、それが非常に興味深かったです。

 赤松啓介氏の『夜這いの民俗学』は、日本の民俗学で無視され続けてきた『夜這い』という風習を、無視し続けてきた民族学者への非難もこめて書かれた、大変おもしろい研究書です。赤松氏自身の経験を交えて書かれているため、まるで物語のような語り口で、読み物としても面白く詠むことが出来ます。

おい、お前、俺んとこのお袋の味、どないぞ。
お前、今晩、うちのネエチャに来たれ。
あんた、なあ。なんや。うちのカアちゃんどない。嫌いやないでえ。今晩来たってくれるかあ。

『夜這いの民俗学』によると、日本のムラ社会では、このような明け透けな会話が、農村によっては戦後まで日常的に交わされていたそうです。ムラの中では夜這いに関する一定のルールがあり、それに従って男性が女性を夜這います。夜這われた女性は、その男性が好みでなければ拒否することもできるし、逆に女性のほうから男性を誘う場合もあります。大抵の場合、男性は若衆入りした十五歳ぐらいで初めての夜這いを経験するのですが、最初はムラの後家さんや四十以上の嬶(かかあ)、或は自分の叔母を相手に性行為を教わり、女性の場合は、これもムラによって異なるものの、大方は月経を迎えたぐらいから夜這いの対象となったそうです。不細工だったり村八分だったりした場合は、叔母や叔父、あるいは兄弟、両親と行為を行います。近親相姦もさほど珍しいことではなかったようでで、ムラ中やりまくりです。

 ムラ中入り乱れてやりまくりだからと言って、そこに恋愛的な感情とか、あるいは結婚とかいう儀式が機能していなかったのかといえばそんなことはなく、結婚は結婚できちんと行われていたそうです。だたし、そんな状況ですから、子供が出来た場合も誰の子供か分からない場合もあります。しかし、そんなことは誰も気にしません。かかあに子供が出来て、その子供が自分に全然似ていなくても、ひざの上に載せて「こいつ、俺に全然似てねえだろ」などと云って笑っているおやじが、ムラのあちらこちらにいたそうです。

 ムラという閉鎖された空間で、このような夜這いの風習が成立した背景などについても『夜這いの民俗学』では推測ではあることを断った上で説明をしています。戦国時代、その土地を治めていた領主が戦に負けると、戦相手の敵兵が農村へ攻めてきます。男達は防衛し、女子供を守ろうとしますが、結果、男達は負傷したり、殺害されたりして数が減っていきます。そのために男の数と女の数がアンバランスになり、その釣合いを戻そうと男の夜這いが始まったのではないか、と赤松氏は書いています。興味の有る方は、是非一読を。

 そういえば、先日連載を終了した柏木ハルコさんの『花園メリーゴーランド』は、現代(正確に云えば十数年前)にまで夜這いの風習が残っているムラに迷い込んでしたまった青年のお話でした。この柏木ハルコというかた、『いぬ』という作品もそうですが、性を書かせたら相当おもしろい作品を描く漫画家さんです。

 「夜這い」という行為を淫らとか紊乱だとか思うのは、現代に生きる僕たちの身勝手な価値判断にすぎまへん。自分たちと異なる文明に対して、それが自分たちと異なるという理由だけで「野蛮」であると断言するする輩などもおりますが、どのような文明であっても文明は文明であり、「異なる」文明や風習は存在しても、「悪しき」文明や風習などというものは存在しないのではないか。などと思ってしまいます。

勿論ーそうでない歴史もある。儒教や朱子学に気触れた武家社会では雁字搦めの家と云う制度が形成され、性も婚姻も手段としてその制度に組み込まれることになる。(中略)同じ時代だからと云って同じモラルが社会全体に通底していたと理解するのは間違っている。いいですか、世の中を支えている理はひとつではないのです。
(『絡新婦の理』より)

はなぞの

 しかし、よくよく考えてみますと、性自体は明け透けに語られはしていないものの、夜這いに近い行為は、今も昔も対して変わっていないような気がしたり。

02年11月07日(木)

 全く本当に勉蔵という男は、自分と惚れた女には甘いくせに、他人と映画には厳しいなあ、その厳しさを自分自身に向けられれば、出来る子なのになあ、と思いながら、石神井公園を散歩しました。

 平日の昼間の石神井公園というのは、まことにもっておじいちゃんおばあちゃんばかりでして、ひとりでにやにやしながら逍遥している若者なんてぼくぐらいしかおりません。
 池の風景を写生しているおじいさまなどを見た時に、後ろから蹴り倒したくなる気持ちは、原宿の路上に生息する変な習字を売りつけているみつお派の方々をぶっ飛ばしたいと思う気持ちに通ずるものがございます。

あっきー

 どうしてこんなにも石神井が好きなのか、自分でも良く分かっていないのですが、他の公園を歩いても、無意識に石神井と比較して、ああ、石神井を歩きたい、などと思ってしまいます。風に吹かれ、枯れ葉を踏み、大きく深呼吸して石神井の風情を味わいます。

あっきー

 菜根譚に曰く、林間の松韻、石上の泉声、静裡に聴き来たりて、天地自然の鳴佩を識る。草際の煙光、水心の雲影、間中に観去りて、乾坤最上の文章を見る。
 散歩の楽しみは、まさしくそこにありまする。

あっきー

 石神井公園には、大勢の猫ちゃんが住みついております。この方の佇まい、まさしく泰然と云うにふさわしく、常日ごろより忙しないわたくしなどは、見習わなくてはいけないと思います。写真で見ると分からないと思いますが、すげーでかいのです、この猫ちゃん。かっこいい。

あっきー

 趣を得るは多きに在らず、盆地拳石の間にも、煙霞は具足す。景を会するは遠きに在らず、蓬窓竹屋の下にも、風月は自からはるかなり。
 勉蔵君に、菜根譚のこの言葉を贈ります。

ねこちゃん

 勉蔵君も、是非一度石神井公園を散歩してみませんか。楽しいよ。

02年11月08日(金)

■月着陸“疑惑”にNASA反論、ますます怪しまれる?

 このような「国民は騙されている!」的なお話って、本当にどうでも良くて、ムーとかって基本的にユーモアの雑誌なのだと思うのですが、あれを真面目に読んでいる方とか、そういう人しかこんな話題に興味を持たないだろうと思っていたのですが、結構びっくりするぐらい普通の人とか友人とかがこのような話題に反応しております。中には本当に真剣に「あれは月に行っていない!」とか力説する人とかもいて。アポロが月に行っていようと行っていまいと、ぼくちんどちらでもじぇんじぇんノープロブレムでーす、とか言ってリアクションを誤魔化しております。

 基本的にジョークとしてのこの種の話題は嫌いではないのですが、肯定派はさした論証もせずに肯定するし、否定派は何の根拠もなく否定するし、そんなことを考えている暇があったらうんこでもしていたほうがましなのですが、最近気付いたことには、幽霊の存在とかを肯定している人は、月着陸に疑念を抱きがちである、ということで、それがどうしてなのかそこらへんの因果関係はよく分かりませんが、政府とか権力とかの陰謀説などは支持しがちなのですね、そういう人。あくまでもぼくの友人に関していえば、ですけど。

 などといいながら、こんなサイトをチェックしたり。

■人類は月に行っていない!?

 こんな風にひとつひとつを論証していっても、疑惑を持っている人はまた別の疑惑を言い出すのでしょうから、あまり意味がないのです。先の記事にも書いてある通り、月着陸が真実であるのなら、無視するのが一番でしょう。

あっぽろ

 こんな話よりも、もっと楽しいお話をしたいものです。書いておいて何ですが。

02年11月09日(土)

 最近、16時から16時半ぐらいの間に、こっそりとお仕事場を抜け出して、しばし路上でゆうがたのとろりとした時の夢を見ております。

ゆうやけ

 写真だと良く分からないと思いますが、夕焼けの具合がとてもよろしくて、地面も、木々も、人も、僕自身も、辺り一面がオレンジ色に染まっております。ああ、気持ちいい。

 尾崎放哉は「たつた一人になり切つて夕空」などと詠んでおりますが、この句の素晴らしさを、しみじみと感じます。

ゆうひ

 それにしても、夕日に身をゆだねながら思うのは、あの西日を拝みながら一心に極楽浄土を思い描いていた妙好人のことで、極楽浄土を想念すれば往生できると信じていた彼ら彼女らが、一体どれだけの想像力を働かせて夕日の彼方西方十万億土の阿弥陀如来に想いをはせたのか。より美しい極楽浄土を夢想すれば、死に際して阿弥陀如来が来迎してくれる信じていた彼らが、何年何十年と極楽浄土と彼岸を想い続け、生涯を通して南無阿弥陀仏を唱えていただろうと想像すると、こうしてのほほんと夕日に身をまかせている自分の幸福に、罪悪感を感じると同時に、一生をかけて彼らが思い描いた極楽浄土の、その想像力に心を魅かれてしまいます。

ゆうひ

今日も夕陽となり部屋に座つてゐる - 尾崎放哉
02年11月10日(日)

 所属するヒップホップグループの本格活動のために、お友達が東京に引っ越してきました

 この一週間というもの、果たして引っ越しはうまく行くのだろうか、ちゃんと生活できるのだろうかと、ぼくのほうがどきどきしておりました。
 しかし思った以上に彼と彼女はしっかりしていて、引っ越しも無事に終了、おいしい鍋を頂いておなかがぷにゅぷにゅになり、例のごとく酔っぱらっておならばかりをしておりました。お恥ずかしい。
 それにしても、引っ越しの手伝いに来たメンバーのほとんどが鉄割であることを考えると、彼の友人関係の狭さが伺い知れまする。もっと世間に目を向けなくてはいけません。ファイト!内倉!

なべ

 ところで、引っ越しの手伝いに来ていたはずの勉蔵君は、皆といてもうつむき加減で、ちょっと目を離すと横になっていたり、ぶつぶつとなにかを呟いていたり、帰ったのかと思ったらポン酢を買って戻ってきたり、なんだか情緒がとても不安定な様子ですが、大丈夫でしょうか、彼。もともと気は違っておりましたが、最近、よりいっそうおかしな感じでございます。
 それでも、勉蔵君は握力が強いとか、仕事ができるとか、結構もてるとか、部屋がきれいとか、無印良品に詳しいとか、映画を観る眼が確かだとか、パソコンがすごいとか、メガネをとると男前だとか、話題の内容が彼の方に向くと笑顔で話に入ってきていたので、まあ、まだ大丈夫ですかね。いざとなったら彼のノートパソコンを二つ折りにでもすれば目も覚めることでしょう。

ben

 次いでわたくしも引っ越したい。

02年11月11日(月)

『夢の旅路』を観ました。

 オープニングといいますか、映画の始まりがとてもかわいらしくて、車が通らないような砂漠のど真ん中で、有料道路の料金所を作って50年間客を待っている老人のところに、ドキュメンタリーを撮っている三人組が噂を聞きつけてやってきます。五十年目にして初めての通行客が通る瞬間を撮影しようとするドキュメンタリー三人組。初めての客を、正装して待つ老人。しかし車は、料金所をすり抜けて走り去ります。

 それから数十年、老人になったドキュメンタリー三人組を乗せたタクシーの運転手は、そのうちに一人に「運命の人を探せ」といわれ、その直後にある女性に一目ぼれをし、ほとんどストーカーのようにアタックを開始します。そのようなお話。

ゆめのたびじ

 この映画に関して何も書くことがないのが辛いのですが、なかなか素敵な映画でございました。見知らぬおやじに「もうすぐ運命の人に会う」と言われ、直後に好きになった人を迷惑も考えずに追い掛け回すティム・ロスが健気で。愛だね、愛。

02年11月12日(火)

 黒沢明の『夢』を観ました。

 これって面白いのでしょうか。ところどころ印象に残っておりますが、なにが面白いのかさーっぱりわかりません。ある友人は、色盲おやじの失敗作、なんて言っていましたけど、ちょっと好みではありませんでした。残念です。まあ、人の夢話ほどつまらないものはないと申しますし。

 それで、『夢』といえば夏目漱石の『夢十夜』で、この作品は大好きで何度も読んでいるのですが、この作品に習って、ぼくもときどき夢日記をつけております。

夢日記
 こんな夢をみた
 百間はあろうかと思われる畳の一室に自分は座っている。部屋の半分には音響の機材が敷き詰められており、もう半分は無印良品の家具で埋め尽くされている。ははあ、これは三年前に恋に苦しみ自ら命を絶った友人の部屋だな、と思い立ち、友人を弔うつもりで勝手に適当なレコードをかけた。蓄音機から、奇妙な摩擦音のような音が聞こえる。撃たれた雉子が喘ぐような、釣られた魚が漏らすような、幽かな喘鳴のような音が聞こえる。これはこの世の音ではない、黄泉の国の音ではないかと気づき、急いでレコードを止めた。瞬間、誰もいないと思っていた風呂場から、がたっと音が聞こえ、眼鏡をかけた男が鷹揚と現れた。眼鏡の奥の眼光がまぶしすぎて、自分は顔を伏せた。
「最近、一日の内の九割は考えております」眼鏡の男が云う。何を、と尋ねる。眼鏡はふふふと笑い、「判っている癖に、憎たらしい」と云う。判っている癖にと云われても、自分は一向に判っていない。「夢に見ぬ日はございません」と眼鏡の男が云う。何を、と尋ねる。眼鏡の男は、眼鏡の位置を神経質そうに直しながら、「二十三区でございます」と云う。
 窓の外で「如何に」と声を出すものがある。窓を開けると、年の頃は三十前半と覚しき男が立っている。眼鏡の男が「猫型自動人形」と云うと、窓外では「如何に」と応える。やけに暗いと思って空を見上げると、天象は怪しく、今にも降り出しそうな具合である。「如何に」と窓外の男が云う。刹那、雷光が走る。一瞬の後に、堪えていた赤子が泣き出したかの様に、土砂を崩さんばかりの風雨が窓外の男を打つ。風に打吹かれて初めて、窓外の男の額がエム字型に禿上っていることに気付いた。「如何にすれば」と男が云う。自分は「無理をせぬよう」と応えた。

 気が付くと自分は山道に座っている。道の端は切り立った断崖になっており、一歩でも足先を誤れば、滑落することは間違いない。遠方に槍の様な稜線が見えるということは、ここは北アルプスの穂高山脈であろうか。さては今年登山に行けなかった無念が、自分をここまで運んだのかと思う。昼間だと思っていたら空に星が瞬いている。今は夜かと思っていると東の空には太陽が覗いている。西を向けば夕日が落ちようとしている。槍ケ岳の山頂を遠望すると、大勢の人が登っては落ちている。それでは自分も落ちようと、山頂に向けて歩き出すと、一歩踏み出すごとに世間の人が一万人死んでいく。二歩踏み出すと二万人。三歩踏み出すと三万人。これでは、山頂に到着する前に世間の人が絶えてしまう。山頂では。途切れることなく人が登っては落ちている。自分が歩けば人が死ぬ。歩かなければ自分は生きる。如何にしたものだろうかと焦慮に駆られ「色不異空、空不異色」と呟いてみる。途端、辺りは静寂に包まれ、東西の日は落ち、周りはいつの間にか雪に覆われていた。一歩踏み出すごとに死んでいたのは、世間ではなく自分であったか。それならば、このままここで寝てしまおう。歩けば死ぬ、歩かなくても死ぬ。どうせ死ぬなら、歩かぬほうが良い。雪の上にごろりと転がり、空を見上げる。星がやけに近くに見える。雪がとても温かい。ああ、時間が過ぎていく、と思い、目を閉じた。

ゆめ

 ところで、夢日記というは、長年にわたって書き続けると精神に異常を来すそうです。ほどほどに。

02年11月13日(水)
■“差別用語”と呼ばないで

 個人的には、一人でも傷つく人がいるのであれば、そのような言葉は使わないほうが良いとは思うのですが、「味噌煮込みうどん」まで差別用語だとか言う人もいたりして、世の中はいろいろと大変な様子です。

 鉄割の方々は、僕のことをチビシャクレなどと呼んでおりますが、この呼び名も差別用語に認定していただきたい。しかしそうなると、コンピュータメガネも、甲斐性無しも、ちんこでか男も、泡銭引越しも、ボンボン車野郎も、すべて差別用語になってしまいそうなので、やっぱりいいです。

 言葉に限らず、人を差別しようとする人間に対しては、精一杯の軽蔑を以て接するべきなのでしょうが、差別を廃しようとするあまり、極端な、あるいは短絡的な行動、発言をする方というのも、相当うざいものでございます。
 何事に関しても、過ぎたるは尚及ばざるが如し。
 と、自戒を込めて。

みそにこみ

徳は、『過超』と『不足』によって失われ、『中庸』によって保たれる - アリストテレス
02年11月14日(木)

 最近なにかと話題の大塚英志氏が、「怪談前後」というエッセイのような評論文のような、とても興味深い柳田国男論を文芸誌「群像」で連載しております。

 その第一回目で大塚氏は、昨今盛んになっている柳田国男の『遠野物語』の「神話剥がし」に言及した上で、それらの研究には敬意を表するが、「柳田のテキストを前にして感じたはずの違和とその結果としてなされる『神話剥がし』の間には微妙なズレがあるようにも感じられるのだ」と述べ、この連載の目的を以下のように述べています。

具体的には柳田国男がいかなる動機で、いかなる方法で、いかなる質の仮想を構築していったかということを柳田の周囲にあった人々との関わりを介して、明治三十年代半ばから四十年代前半(で明治は終わってしまうが)という時代の中で考えていくことである。

 この連載を、大塚氏の意図するとおりに読むことは十分に意味のあることだと思いますが、柳田国男さんにも民俗学にもいまいち明るくないぼくは、そこにたどり着こうとする過程で展開される柳田の周辺のお話の方に興味が向いてしまいます。例えば連載の第一回目の、私家版『遠野物語』と周辺の人間の誤読について。あるいは明治の村上春樹こと水野葉舟という人物について。ここら辺のお話に関しては、長くなるので割愛しますが、とても面白かったです。

 その中でも一番に気を魅かれたのが柳田の朋友田山花袋と、柳田国男の自然主義文学を巡る論争に関するエピソードで、『遠野物語』という作品それ自体が、自然主義文学を目指す田山花袋に対する批判になっていたこと、さらに『遠野物語』に対する田山の批評文も、極めて冷ややかだったことが書かれています。

柳田君の『遠野物語』これもさうした一種の印象的の匂ひがする。柳田君曰く『君には僕の心持は解るまい。』又曰く『君には批評する資格がない。』
粗野を気取つた贅沢。さう言つた風が至る所にある。私は其の物語に就いては、更に心を動かさないが、其物語の背景を塗るのに、飽くまで実際の観察を以てした所を面白いとも意味深いとも思つた。読んで印象的、芸術的にほひのするのは、其内容よりも寧の其材料の取扱方にある。(『インキ壺』)

 田山花袋や島崎藤村らによって小説を書く際のモデルとして幾度と使われた柳田は、花袋が『蒲団』を発表すると、自然主義文学と私小説は文学と呼ぶに値しないと断言し、自然主義文学批判を展開します。

 自然主義もいいだろうけれども、素人写真の習ひ立てに友人や兄弟ばかりを写してゐては仕方がない。も少し想像の力を養つて、大に新しい領域へ入つて行かなければ不可と思ふ。(『無名通信』第十二号)

 文学を表現芸術として考えるならば、この種の論争が作家達の間に起こるのは必然のことで、他にも有名なところでは、芥川竜之介と谷崎潤一郎の「小説の筋」論争があります。筋の面白さと、作品の芸術性は別のものであり、「話」らしい話のない小説は、その芸術性において、筋に頼っている通俗小説よりも上のレベルにある、と主張する芥川。いかにも芸術至上主義の芥川が言いそうなことです。それに対して谷崎は、「筋の面白さは、云ひ換へれば物の組み立て方、構造の面白さ、建築的の美しさで」あり、日本の小説に欠けているのは、そのような筋を構成する力である、と主張します。
 この論争に関しては、以下のサイトで詳しく読むことができます。

■芥川龍之介——その方法芥川竜之介記念館

 この普遍的な問題に関する同様の論争はアメリカ文学界においても行われています。ウィリアム・ギャスロバート・ストーンの間で行われた「Art and Morality」論争がそれです。
 きっかけはウィリアム・ギャスの『Goodness Knows Nothing of Beauty』というエッセイでした。小説という芸術ジャンルが求めるべきなのは「美」なのか「倫理」なのか。ギャスは、芸術と倫理はかけ離れた存在であり、芸術が美しくエキサイティングであるのに対し、倫理は感傷的で想像力にかけている、と主張し、対するストーンは、ウィリアム・バロウズの「裸のランチ」(!)などを例に出して小説における倫理の必要性を説きます。
 こちらも論争の大まかなあらましは以下のサイトで読むことが出来ます。

■Art and Morality(英語)

 それにしても、どれもこれも同じような論争ばかりです。小説に必要なのは、芸術性か、物語性か。自分というものを持っていないぼくは、彼らのどちらの立場にも賛同する自信があります。

 よく言われるように、「〜はこうあるべきだ」という思い込み、あるいは固定概念は、人の表現の可能性の幅を狭めてしまうものかもしれません。しかし、そのような「主義」を持つことによって、人は自分の存在や立場を明確にし、自己を確率していくという側面があることもまた事実です。表現芸術に対する個人の主義や立場などというものは、突き詰めれば単なる好みに過ぎないわけですから、決着なんてそうそう付くものではありません。ですから、論争をする目的というものは、どちらが正しいという結論を出すためではなく、相手の立場と自分の立場を比較しつつ、時には相手の意見を取り入れて、自分の主義・立場をより明確で確固たるものにすることであると、かのように思うわけです。

 そんなわけで、老若男女とことん論争していただきたい。そして願わくば、できる限り決着をつけないで、殴り合いにまで発展していただきたい。殴り合った後には唾とか吐きかけ合っていただきたい。論争の後も、イタ電をばんばんかけていただきたい。車のタイヤをパンクさせたり、アンテナを折ったり、フロントガラスを石で割ったりしていただきたい。そうすることによって、あなたという個人はより強固な個性へと成長することでしょう。

げいじゅつだいすきりゅうのすけ

ポリシー下さい。

02年11月15日(金)

 お散歩と同じぐらい好きなのが、古本屋巡りでして、巡り巡って買うだけ買って、あとは読まずに自宅に放置でございます。

 高田馬場にある五十嵐書店は、最近リニューアルをしたのですが、とても素敵な古本屋さんで、一階には岩波などの文庫ものや芸術関係、階下には小難しい研究書などが置いてあります。敷地がそれほど広くないのがまた素敵で、店内の雰囲気もとても居心地が良いので、天井まである本棚に収まっている書籍類を手にとってぱらぱらと捲っていると、時の経つのを忘れてしまいます。今のお仕事をやめてこんなお店で働きたいわ。嘘です。給料が安そうだからそれは無理ですが、でもいつの日か、本当にこんなお店で働きたい。

いがらし

 そんで本日の獲物は、モンテーニュの『エセー』全六巻、根岸鎮衛の『耳嚢』全三巻、などなど。どちらも読みごたえたっぷり。モンテーニュ、マジ最高です。

もんてーにゅ

02年11月16日(土)

ちくま書房が、内田百間さんの集成の刊行を始めました。

 この、ちくま文庫の集成・全集というのは、本当に嬉しいものです。ハードカバーで作家の作品をある程度まとめて読もうと思ったら、風呂に入って、洋服をきれいなものに着替えて、耳栓をして、携帯電話の電源を切り、三時間ぐらい瞑想して、コーヒーと紅茶を用意して、座り心地の良いイスに座ってからじゃないと読めないでしょう。
 文庫だったらうんこした後にはなくそとかほじりながら読めるし。どんどん全集の文庫版を刊行して欲しいものです。

 それでさっそく第一巻、噂の『阿房列車』を購入し、読み始めました。誰だったか忘れたのですが、百間さんといえば阿房列車でしょう、と言っておりました。戌の字だか、藤の字だか、そこらへんの方だと思うのですが。それで読み始めたらこれがすげーおもしれーじゃーん!!

 先日、太宰治の『津軽』などを読んで、それはそれで面白かったのですが、もっとバタ臭くない、愉快な紀行文学はないかしら、などと思っていたところでして、これこそまさしくぼくの求めていた紀行文学でございます。日本全国を列車に乗って行ってみよう、ただし到着したらそのまま電車で帰ってこよう、というのが『阿房列車』の概要でして、それだけでも十分にたまらないのですが、内田さんの書く文章がとにかく面白い。随筆の面白さで言えば、町田康も相当面白いとおもうのですが、内田さんの方が面白いのではないでしょうか。天然、っていうのですか、こういうの。旅行に同行するヒラヤマ山系君(平山三郎)というぼけ役とのやりとりが、とても素敵なのです。こんな旅行をしてみたい。

 で、具体的にどんな旅行かと申しますと、ぼくが説明するよりも、百鬼園先生が新潟で土地の新聞記者に無理やりにインタビューをされた、その時のやり取り読んだほうが解るのではないかと。

「もう少し話して下さい」
「何を話すのです」
「何でもいいです」
「頭の中が散らかっていて、なんにも話す事はない」
「新潟へなぜいらしたのです」
「なぜだか解らないが、来た」
「目的は何です」
「目的はない」
「何と言う事なく、ただふらりと、そう言う事もありますね」
「あるね」
「まあそう言う風にやって来られたとして、しかしこうして新潟に着かれた上は、これからどうなさるのです」
「どうするって、どう云う事」
「つまり、御計画を聞かせて下さい」
「そんな君、無理な事を云って、計画なぞと云う気の利いたものは、持ち合わせていないから駄目だ」
「何かあるでしょう。例えば明日はどうするかと云う様な事」
「それは今晩寝てから考える」
「新潟をどう思いますか」
「どうも思わない」
「何か感想があるでしょう」
「汽車が着いて、自動車に乗せられて、ここへきたばかりだから、ないね」
「萬代橋を渡られたでしょう」
「それは今渡ったばかりだからな。萬代橋は長いね、と云えば感想の一端になりそうだが、もうよそうじゃないか。下らないから」
「新潟は初めてですか」
「初めてではない」
「この前来られたのは、いつですか」
「それがはっきりしないのだが、何十年も昔の話で、大正十二年の大地震よりまだ何年か前の事だ」
「その時の御感想はどうでした」
「余り古い事なので、忘れてしまった」
「何か思いだして下さい」
「やっぱり萬代橋を渡ったが、木の橋だった所為か、今より長かった様な気がする」
「雪中新潟阿房列車」より

あほーれっしゃ

 わたくしの中で、内田さんブームが微妙な感じに燃え上がりつつあります。とりあえず、内田っちに見習って、あちらこちらに借金をして、そんで日本全国を旅してみませう。

02年11月17日(日)

 東京都写真美術館へ『空海と遍路文化展』を観に行ってきました。

かわいー  展覧会の最終日というものは地獄のごとく込み合うものだということは身にしみて分かっていたはずなのですが、今回もやっぱり最終日に来てしまいました。あー、やっぱりすげー混んでるし。しかも、ぼくはこの後に予定なんかを入れてしまっている為体で、ほとんどダッシュで観なくてはいけません。何という愚かなぼく。

 写真美術展ということで勝手に四国遍路の写真展を想像していたぼくは、展覧会場に入って度肝抜かれました。あちらこちらに仏像やマンダラがいっぱい。おばさんたちみんな拝んでるし。なんだよー、仏像あるなら最初から言えよー、などとひとりごちつつ、それでも、観るべき所はちゃんと観逃さず、個人的には十楽寺の観音・勢至菩薩立像や、甲山寺の不動明王像、十三仏来迎図などがとても良かったです。この右の像が勢至菩薩立像なのですが、かわいすぎる。立江寺の地獄・極楽図なども、色彩が微妙すぎてはまりました。この極楽図、ぜってー夢にでますよ。

 やっぱり、死ぬまでに一度はお遍路さんをやっってみたいな。逆遍路でもいいから巡りたい。

ごくらっく!

 会場には、藤原新也の『四国遍土』なんかも展覧してあって、おばさんたちがへーとかほーとか言いながら眺めておりました。ぼくはやっぱり好きになれないのです。嫌いではないのですが。

おへんろさん

 以前より、聖徳太子がお札になって、弘法大師がお札になっていないのはいかがなものかと思っております。絶対に弘法大師の方が日本にとって重要な人物でしょう。やっぱ即神仏は駄目なのかしら。すごい人なんですけどねえ、空海さん。

02年11月18日(月)

 ある裕福な友人が、「これで何か面白いことをして笑わせてくれ」と言って四万円くれました。

 しかしぼくはコメディアンでもなければ芸人でもありません。一体どうやって面白いことをすればよいのか、彼を笑わせれば良いのか、さっぱり何も思い浮かびません。思いあぐねた挙げ句、その金をもって本州の最北端へ旅行へ行ってしまいました。

海岸

 それはとても素敵な旅行で、自分自身を見直すとても良いきっかけになったのですが、彼を笑わせるにはあまりにもイベントに乏しく、「一人、海に佇みまして」とか、「夜分に辺鄙な村を徘徊しまして」とか、「旅籠に泊まってつげの気分になりまして」などと言っても彼は笑ってくれないと思います。それで、帰ってきた後もどのように報告したものか、迷っている次第であります。

 それでも、旅行に行く前と行った後では、僕自身の気持ちの持ち方、人生への向き合い方なども多分に変化をした次第でありまして、それをもって彼へのお土産とさせていただきたいと思います。御了承下さい。近いうちに酒でも持って挨拶に伺います。

かもめ

 とりあえず、リスペクト石川さゆりで。

02年11月19日(火)

 デジカメを購入して以来、なにかにつけてばしゃばしゃと写真を撮っているのですが、写真管理ソフトを持っていないぼくは、撮った写真をろくに見返しもせずに、ハードディスクに保存して容量を食いつぶしているだけという状態になっております。

 しかし、それでは折角撮った写真がもったいないと、Yahooフォトなんかを利用しようと思い、今まで撮った写真を整理してみたのですが、軽く300M以上あり、30MしかアップできないYahooフォトではアップしきれませんでした。鉄割のサーバにアップすれば良いのでしょうが、いちいちサムネイル作ったり、htmlにしたりするのも面倒です。

 と思っていたところ、こんなアプリケーションが。

■JAlbum

 このアプリケーションは、写真が収められているディレクトリを指定さえすれば、画像のサムネイルからHTMLのアルバムまで自動的に作ってくれるという便利君です。とはいっても、その程度の機能であればそこらへんのフリーウェアでも実装されているでしょう。このアプリケーションの素晴らしいところは、アプリケーション自体がJavaで作られていて、APIが公開されているところで、これを利用すれば、例えば鉄割のサイトでもYahooフォト並みのアルバムを作ることができます。FTPを使えば、写真を一気にアップできるし。

 で、ためしにちょっとやってみたのですが

■鉄割宮永公演(いつのか忘れた)

 アルバムはhtmlで吐き出されるため、スタイルシートとしてのスキンさえ自分で用意すれば、好きなアルバムをデザインすることもできるし、いくつかのテンプレートも用意されています。うーん、すばらしい。

 先に書いた通り、アプリケーション自体がJavaで書かれているので、Javaさえインストールしてあれば、WindowsでもMacでもふつーにGUIを持つアプリケーションとして使用することができるのよ。すごいでしょう。フリーウェアだし。

じぇいあるばむ

 写真には、鉄割のメンバー以外のお友達なんかも写ってしまっているのですが、まあ、もう他人じゃないし、ほとんどマブダチなのでアップしちゃいます。事後承諾ということで。

02年11月20日(水)

 月に一度、「映画を観て誉めよう会」というものを行っております。友人と一緒に映画を観に行き、それがどのような駄作であっても必ず誉めなくてはいけないというのがこの会の趣旨でして、今回観に行ったのは、ロバート・アルトマン監督の『ゴスフォードパーク』でございます。

ごっす レイモンド・カーヴァーの短編をオムニバス風にしてひとつの作品へと作り上げた『ショート・カッツ』以降、ぼくの中でアルトマンという監督は外れなしの監督でして、悪名高き『カンザス・シティ』でさえも楽しんでしまったぼくにとっては、この『ゴスフォード・パーク』は観る前から貶しようのない作品だったので、感想はと言えばもちろんすげーおもしろかった!当初、主な登場人物だけでも20人以上ということで、話がややこしくなるかしら、と危惧していたのですが、そんなことは全然なくて、非常に良くできた、というのはサスペンスとして良くできたという意味ではなくて、物語としてとても楽しめる作品でした。

 アルトマンの作品の中で順位をつけるとしたら、一位が間違いなく『ショート・カッツ』、二位が『クッキー・フォーチューン』、三位が『Dr.Tと女たち』、そんで四位が『ゴスフォード・パーク』になるかしら。

 ところで、『ゴスフォード・パーク』のサイトを眺めていたら、こんな事が書いてありました。

本作品のように様々な登場人物がひとつの場所に集い、それぞれの人生が交錯していくストーリーは、その原点である名作の名を借りて「グランド・ホテル方式」と呼ばれている。そして本作品の舞台となっている1932年、アカデミー賞最優秀作品賞を受賞したのが、その『グランド・ホテル』だった。

 ですって。

 映画を見た後は、表参道に場所を変えて「宇明家」というお店で日本酒を飲みながらおいしい餃子をいただきました。

なかじまぎょうざ

 一緒に『ゴスフォード・パーク』を観たその友人は、「おれは演じるなら、階上の人の役ではなく、階下の人を演じたい」と力説していました。何言ってんだこいつと思いました。

ごすふぉーど

 御年77才のアルトマン翁、果たしてあと何作撮れるのか。死ぬ前にもっともっと楽しませてください。お願いですから。

02年11月21日(木)

 ユーロスペースで上映されている「チョムスキー9.11」がもうすぐ終わってしまうので、急いで観に行かなくっちゃ!と思っていたら、こちらのサイトで同映画のDVDが既に発売されているという情報を発見。

 なんだよー、じゃあ観に行かなくていいじゃん。というわけで、早速Amazonでご注文しましょう。

ちょむっち

 ところでぼく、DVDプレーヤー持っていないのですけど。ま、いいや。

02年11月22日(金)

 HotWiredから気になる記事をふたつ。

■『究極の延命』会議報告:不死への科学的アプローチ
■永遠の命を求める人々の心理を探る

 自分は自分であり他人ではない以上、個性が別の個性を尊重することは当然のことであり、社会というものは(飽くまでも)その前提の上で成り立っていると思うのですが、それでもやはり他人というものは不思議な存在でして、ある程度までの理解は可能であっても、どうしても理解できない人というものは存在します。例えば卑近な友達の例で言えば

  • 好きな人に好きと言わずにファンという
  • 家以外でうんこをするぐらいであれば、野ぐそをする
  • いまだに演技に松田優作の影響を受けている
  • 部屋のインテリアを無印良品で統一している
  • CMで家を建てた
  • スーツを無印良品で揃える
  • 中島
  • 帰ると行って出ていって、ポン酢を買って戻ってくる

などなど。

 そんな中でも理解できないトップワンは、この「不老不死を願う人」でして、どうしてそこまで死ぬのが嫌なのか。いくら考えても理解できません。僕なんか毎日毎日、早く往生してーなー、あと50年はかかるなー、つーかよ、人生長くない?などと指折り数えているというのに。だって、死後の世界が本当にあるかとか興味あるじゃーん。くれぐれも言っておきますが、生を軽んじているわけでも、自殺したいとか言っているわけではないですよ。あくまでも、人生を生きられる限りきちんと生きて、その上でさっさと往生したい、と。こう申している次第でございます。

 それで思うのは、不老不死を願う方というのは人生が楽しくて楽しくて仕方がないのではないか、と。もう、毎日がパラダイスで、一秒でも長く生きてー!という人たちなのではないか、と。あれ?でも僕も毎日が楽しくてパラダイスだな。でも死にたくないとは思わないし。うーん、わかんねー。

 だってさー、例えば小学生の頃にうんこもらしたら、普通の人は80年ぐらいで死んで終わるけど、不老不死、あるいは驚異的な長寿の世界では、五億年とか経っても、あの人五億年前にうんこもらしたのよ、とか言われるわけでしょう。五億年もえんがちょだなんて、そんなの耐えられないわ。

 その昔、中国を始めて統一した秦の始皇帝は、死の恐怖に駆られ、国を挙げて不老不死の研究に取り掛かりました。徐福伝説なんかもその一端です。始皇帝の場合、中国を統一してしまったり、妾が5000人いたりとかして、現世に欲が出たとしてもおかしくはないとは思いますが、ヒットラー並に被害妄想が強かったらしく、生きていて楽しー!と思っていたとはとても思えません。むしろ晩年にかけては、自分以外の人間のすべてが信じられずに、半分気が狂っていたとも言います。そんな彼でも死ぬのは嫌だった。不老不死を願っていたのです。

 人が不老不死を願う気持ち、あるいは死を願う気持ちというものは、現世の状況が影響するような問題ではないのかもしれません。現世の状態がどうであれ、不老不死を願う人は不老不死を願うし、死を願う人は死を願う。そこに理由を求めれば、おそらく何らかの言葉による説明は得られると思いますが、それはあくまで言葉の理由に過ぎず、その奥にはもっと根源的な原因があるのではないか、などと。簡単に言えば、わたくしの持論である「原因は必ずしも結果を生むわけではない」ということです。

 いずれにしても、もし自殺が罪なのであれば、不老不死も罪なのではないかと。そう思うわけであります。

しこーてー

私は永遠に生きたいとは思わない。永遠に生きるべきではないからだ。われわれが永遠に生きるべき存在だとしたら、永遠に生きることができるはずだ。だが、われわれは永遠には生きられない。だから、私は永遠に生きたいとは思わない。
(1994年のミス・アラバマの言葉)
02年11月23日(土)

 なんだかここんとこ風邪を引きやすいし、虫歯も痛いし、おちんちんの皮は日ごと伸びて被ってきているしで、体調ガタガタで精神イライライライラしておりまして、朝の混雑した駅のプラットフォームに並んでいるおやじとかを見ると、ひとりずつ順番に後ろから傘でぶっ叩いてやろうかと思うのですが、気の弱い僕にはそれもママならず、イライラしながら満員電車の中で汗をかいているでぶの肉を掴んでひねり上げていたら余計にストレスがたまり、仕方がないのでジョギングなどをして思いっきりゲロを吐いたり、勉蔵のメガネを二つ折りにしたり、中島の車のアンテナを折ったり、スターバックスのトイレでうんこをして流さなかったり、幸せそうなカップルの隣で般若心経を唱えたり、股間にタオルをつめてもっこりさせて町を歩いたり、フランス人を侮辱したり、そんなことをしてもストレスが解消されるはずもなく、泣きながら歩いていても誰も声をかけてくれないので、またマラソンをしてゲロを吐いて、家に帰ったら電気が消えていてとても寂しい我が家が不憫でなりません。

 私生活上の理由で、次回の鉄割の公演は参加を断念したのですが、出なきゃ出ないで毎日が暇過ぎまして、家に帰って来ても、あれまどうしましょ時間が経つのがとても遅いわなどと困惑してしまい、同棲している友人の家に押しかけて酒を飲んだりしていると、奥村君からメールがきて「ごらん、世界は美しい。生命は蜜のように甘美だ」などと書かれており、あらら奥村君とうとう仏陀晩年の境地に達したのねなんて思いながら分厚いハムを頬張り熱燗を一口、心地よくなって友人にいろいろとお話をしたいこともあったのですが、あとでひとりになったときに悲しくなるのでやめたらもう夜中の二時をすぎていて、お二人は明日デズニーシーでランデブーなので家に帰るのが億劫でも帰らなくてはいけません。こういう時、馬鹿うんこの友人達と共同生活をしたいなあ、いっそのことキブツにでも行って集団生活をしようかしらんなんて考えが頭をよぎるのですが、そんな行動力があればとっくに総理大臣にでもなっているはずで、部屋に干してあったブラジャーをこっそり失敬して雨の中バイクを走らせて帰りました。限界までスピードを出して、遅い車にはパッシング、煽ってくる車には中指を立てて、ルイ・アームストロングの『What a Wonderful World』を大声で歌いながら信号無視をするとなんだかとても楽しくて、道路を横切る小猫ちゃんに「I think to myself, what a wonderful world」と叫んで大空を見上げたら雨が降っているのに夜空には星が瞬いていて、あれは多分何千年も前に死滅した勉像のメガネが、光の速度の関係で今頃になってようやく地球で見えているのだなと思い、しばらく道路の真ん中で横になって車のクラクションをビージーエムに瞑想し、明日の朝食はトーストにシナモンのパウダーをかけて食べようと思いました。

ゆうじんたく

 暇なのはとても嫌いなので、さっさと鉄割の公演が終わってくれないかなと思っています。そしたらみんなで鍋をやったり温泉に行ったり野球をしたり映画を観に行ったりしましょう。

02年11月25日(月)

 今年に入ってから読んだ本の割合を考えてみたら、日本人の作家の作品が大半を占めていることに気付き、なんとなくアメリカ文学が恋しくなってリチャード・ブローティガン の『愛のゆくえ』を読みました。

 誰でも自分で書いたものを納めることができる図書館に住込みで勤務する主人公が、とてつもなく美しい女性ヴァイダと恋に落ち、図書館で同棲したを始めた結果、しばらくするとヴァイダが妊娠してしまい、その堕胎手術のためにメキシコに旅をするというお話なのですが、ストーリーも文章も、そして翻訳もとても素晴らしい作品でした。本当に最高でした。これが書かれたのは1971年なので、とっくに存在していたこの本を、ぼくは今日まで見逃していたわけで、それがとても悔やまれると同時に、まだまだ(当たり前だけど)面白い本はいくらでも転がっているという幸せに感謝。

 サンフランシスコ、サクラメント通り 3150 番地にある誰でも本を収めることが出来る図書館に勤務し、何年間もそこから一歩も出ずに、自作の本を持ってくる人だけを相手に仕事をする主人公。自分の美しすぎる容貌と完璧すぎる肉体に困惑を感じてノイローゼ気味になっているヴァイダ。収蔵された本で図書館が溢れないように、数ヶ月おきに図書館に来て本を運び出し、洞窟にしまいこむことを仕事としている酔っ払いのフォスター。このフォスターに図書館の番を任せて、主人公とはヴァイダはメキシコへ堕胎の旅へと出発します。堕胎の旅!小説の邦題は『愛のゆくえ』なんてものになっていますが、現代は『The Abortion: An Historical Romance 1966』直訳すると『堕胎、 歴史的ロマンス1966 』ですから。

 とにかくこの主人公の勤務する図書館と、そこに持ち込まれる書籍の魅力的なことは筆舌に尽くしがたく、旅に出てからの話もとても面白いのですが、前半部の図書館と書籍に関するくだりは、何度読んでもたまりません。うう。

 誰でも本を収蔵できる図書館というのは、もちろんブローティガンの想像上の産物ですが、このサイトによると、90年代の始めにブローティガン・ライブラリという同様の図書館が、バーリントン州で設立されたそうです。残念ながら、現在は閉鎖しているようですが、さらに調べてみたらこんなサイトが・・

■Brautigan Virtual Library

 書籍という物理的な制約を受ける図書館を、ブローティガンの想定した形で維持することは難しいと思いますが、ヴァーチャルな空間であれば可能なようです。しかしちょっと覗いた限りでは、サイトの活動はあまり活発的ではないようです。残念。

ぶろーてぃがん

「どういう内容の本なの?その主題は?」
「マスターベーションです」
(『愛のゆくえ』より)
02年11月26日(火)

■「J2EEアプリの開発をもっと簡単にしたい」---Strutsの開発者McClanahan氏に聞く

 このページの一番下にも書いてありますが、鉄割のサイトにはJakartaプロジェクトStrutsというJ2EEフレームワークを使用させていただいております。そんで上の記事はそのフレームワークの大元を設計した方のインタビューなのですが、マクラナンさん、頭が光すぎではありますが、この方のおかげで受けた恩恵を考えると、頭の光の反射も後光に見えて思わず拝んでしまいます。なむー。

 この方、休暇で行った先のビーチにまでノートパソコンを持ち込んで、三日(一説には一週間)でStrutsを開発してしまったそうです。もちろん奥さんはオカンムリ。休暇先にまでノートパソコンを持ち込むような人生は送りたくないなと思いつつも、それが勝ち組の生き方なのでございまして、そんな方々のおかげでぼくなんかはとても楽をさせていただいておりますれば、心より敬意を払わなくてはいけません。

ごこう

 ちょいちょいパソコンのことなんかも少しは書きたいと思いながらも、書こうとするとどうにも手が震えてしまいます。どうしてでしょ。

02年11月30日(土)

 祖母の三十五日忌で納骨のため、実家に帰省しました。

 祖母が亡くなったのは先月の終わりで、その時にも本家のまわりをぶらぶらと散歩したのですが、思えばこの辺りを散歩するのは十年以上振りで、幼い頃には嫌で嫌でたまらなかった田舎の風景が、今ではとても心の落ちつくものになってしまっている自分が嬉しくもあり悲しくもあり、複雑な気持ちを胸に、今回もしばし逍遥しました。

 山に囲まれた祖父母の家のまわりには、子供の頃には気付かなかった石仏などが多々点在していて、「穴不動」なるいやらしい名前の安産の守り神の不動明王蔵も発見しました。お産の時にはここに来て不動明王の剣を借りて行くと御利益があると書いてあり、おばあちゃんもここに剣を借りに来たのかしら、などと思ったのですが、よく考えてみれば祖父母には実子というものがおらず、ぼくの母もその兄弟姉妹もすべて養子ですから、祖母が剣を借りに来る必要はなかったのかも。しれないです。

じぞー

 人の死の悲しみは、如何なる手段をもってしても癒すことはできません。その人がいた世界が確かにあったのに、今ではもう、その人に会うことができないと思うとき、自分の中に悲しみ以外の感情が存在しないように感じます。癒すことの出来ない悲しみは、とことんまで悲しむしかなく、悲しみの後にぼくにできることといったら、祖母の記憶を永遠に忘れないでいることしかありません。

 死後の世界を信じないぼくは、祖母は往生することによって、生まれる以前の無に帰したと思っています。けれども、その「無」は唯物論的な「無」ではなく、無に帰することによって僕たちの中で仏となったわけで、仏教で言うところの輪廻を断って成仏するということと全く同じだと思います。祖母は、百年前の世界がそうであったように、世界の無となってしまいました。しかし百年前と違うのは、祖母の記憶を持つぼくたちがここに存在するということで、少なくとも祖母の記憶を持つぼくたち全員が無と帰するまでは、祖母は記憶として生きている、この世界に存在している、と思っています。祖母の記憶を持ち、それを保つということが、DNAによる肉体的連鎖以上の何かを、ぼくたちと祖母の間に与えてくれます。
 記憶。
 祖母を覚えているという、ただそれだけのことで、ぼくは祖母を弔おうと思います。

 兼好法師は『徒然草』の第三十段で、以下のような書いています。

年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

 『徒然草』の中でも特に心に残っている段です。以下に稚訳ではありますが、現代語訳を載せておきます。訳に間違いがあっても御勘弁。

 年月が経ったからといって、その人のことを完全に忘れてしまうということはないが、去る者は日々に疎しなどという諺にもあるように、亡くなった時の悲しみは徐々に薄れていくもので、そのうちに適当なことを言いながら笑い話をしたりできるようになる。亡骸は人気のない山中に埋められ、法事法要のときにしか御参りされなくなり、しばらくすると卒塔婆は苔むし、木の葉に埋もれ、夕の嵐や夜の月だけがそこを訪れることになる。
 その人を思い出して懐かしんでくれる人がいるうちはまだ良いが、そのような人もいつかは亡くなる。聞き伝えでしか知らない子孫達は、その人のことを思って偲んでくれるのだろうか。供養するための法事さえ行われなくなり、墓に眠る人の名前さえ知らずに、それでも年ごとの春の草をみれば、情趣がわかる人は想ってくれるかもしれないが、最後には嵐にむせぶ松も千年を待たずに薪にされ、古き墓も耕されて田となってしまうように、その跡さえ世界から消えてなくなる。悲しくとも。

 ぼくは、亡き人の跡(お墓)がいつかは形骸的な存在になることや、その人の死そのものが忘れ去られることに対して、兼好法師ほどには悲しみを感じません。そりゃまーしゃーないっしょ。さまざまな個性の記憶が生成消滅して世界は動いているのですから。けれども、少なくともぼくたちが生きている間、ぼくという記憶が存在している限りは、決して忘れませんから、ゆっくりと、お休みください、おばあちゃん。

どうそしん

 帰り際、祖父母と一緒に暮らしていた叔母に「出産の時に、穴不動にお参りしたの?」と聞いたところ、「なにそれ」と逆に聞き返されました。

 そしてそのまま津軽へ。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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