03年07月01日(火)

 起床。寝坊。最近、気が緩んでおります。喝。

 x51.orgで紹介していた「Winning The War On Masturbation」というサイト。オナニーの健康面・精神面における実害を訴えております。かなり本気です。

 十九世のアメリカ文学に『性』の要素が驚くほど見当たらない理由については、『アメリカの若者たち』に詳しく書いてあるが、それに先立つと思われる、中世のヨーロッパにおける『性』のありかたについて詳しく調べたい。勃起すらも罪とされた時代や国における宗教と性の関係とはいかなるものか。同時に、勃起ばかりしていた日本の性文化の歴史についても深く知りたい。

 哲学者ニーチェさんは日々オナニーばかりしていて、友人であるワーグナーくんに「きみ、それはちょっとしごきすぎだよ」などと注意を受けたという話が実しやかに伝えられておりますが。真相はいかに。

03年07月02日(水)

わんこう 毎日の散歩道で必ず会うこのわんちゃん。二年以上もの間、ぼくの顔を見ても完全無視だったのに、二、三回食べかけのフランクフルトをちょこっとあげたら、それ以来毎朝ちぎれんばかりにしっぽをふって迎えてくれます。今、ぼくのことを待ってくれているのはこのわんちゃんだけではないかしら、しかもエサを目当てに、などと考えると悲しくなるので考えないように。。。

 仕事を終えて、図書館へ。閉館ぎりぎりまでねばり、十冊の本を借りて帰宅。ヨーロッパの性の歴史を調べようと思ったのに、群像に掲載されていた舞上王太郎の新作を読んでしまって全然調べられなかった。

 やらなくてはいけないことが山ほどあるのに、何も手につかない。やばいなあ。

03年07月03日(木)

 起床。昨日の夜、はりきって運動をし過ぎたせいか、筋肉痛で足が痛い。

 7月19日から『ムーミン パペット・アニメーション』が上映されるそうです。これは楽しみだ。

 職場の人に教えてもらった『お厚いのがお好き』という木曜日深夜に放送している番組。難解な本を優しく解説、まるでその本を読んだような気にさせてくれる、らしい。今度見てみよう。

 完全に自由になる五万円の副収入を何に使うかを考える。iPodを買うか。PCを自作するか。旅行に行くか。藤枝静男全集を買うか。とても良い自転車を買うか。洋服を買うか。ぱーっと飲むか。寄付するか。貯金するか。

03年07月04日(金)

 松本人志の『スーパー一人ごっつ(Vol.3)』にビジュアルコラボレーターとして参加している天明屋尚のサイトをチェック。「ガイジンにありがちな、ステレオタイプの誤解。そんなイメージを逆手にとって、ハチャメチャさ加減を増幅した」という彼の作品群、暴走族やヤンキー、ギャングなどの現代の日本の暴力を象徴するイコンを、伝統的な日本絵画の手法で描かれている。素敵だ。「武闘派絵師」はいかがなものかと思うけど。

 某所で話題になっている笹公人第一歌集『念力家族』を購入。かなりの衝撃を受ける。余計な説明よりも句を。

注射針曲がりてとまどう医者を見る念力少女の笑顔まぶしく
アトランティス時代の記憶蘇る弟の目に涙あふれる
空き地にて巨大な箱から出できたる平賀源内と名乗る男
マンモスの死体をよいしょ引きずった時代の記憶をくすぐる綱引き
雷に打たれし教師スギモトが「われは仏陀!」と叫ぶ夏の日
あの夏の石段の上僕の背を押した少女よどうしてますか
かぐや姫に求婚をした貴公子が生まれ変わってまたふられ地球(てら)

 などなど。頭の中に次々とイメージが浮かんでくる。短歌のことは何もわからないけど、例えば小説であれば、情景のイメージを作るためにかなり詳細なところまで文章が手助けをするが、短歌はイメージだけを瞬時に与えてその後のことは読者に任せ切りのところがよい。句集に収められている一句ごとにイメージが膨らみすぎて、最後まで読み終えるのに小説を読むよりもずっと時間がかかったのは、この句集がぼくにとってとても重要であることを意味する。と思う。どうでもいいけど「イメージ」って馬鹿っぽい言葉だなあ。

 絵画に限らず、芸術作品等に接して一番うんざりするのは、海外の技術を単に日本にもちこんだだけの技術輸入作品。技術とは作品を生み出すものではなく、表現すべき作品から生まれるものだ。技術だけを輸入して、そこから作品を生み出そうとしても、品の悪い模倣技術追従作品が生まれるに過ぎない。日本史上、他に類を見ないような文化的転換を果たしたであろう明治維新において、西洋の文化に触発された日本の芸術家たちが行ったのは、単なる西洋技術の輸入や礼讃ではなく、その技術を用いることによって日本の文化のレベルをより高めるための融合だった。文学における口語体、絵画における遠近法など、西洋では当然であった技術を日本の文化に適用することにより、自分たちの芸術の表現の可能性を広げようとしたのである。極端な国粋文化主義も、単なる他文化の模倣も、そのどちらも真に新しい表現は生み出さない。

 夜、お友達の誕生日会で渋谷のメキシコ料理屋さんへ。まるで涅槃の境地。煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。

03年07月05日(土)

 寝不足のためか、頭痛がひどくてお仕事を早退。まんが喫茶に行って二時間ほど眠る。

 ここ数年で、まんが喫茶はとんでもなく便利な場所になってしまった。完全個室だし、ネットもすぐに利用できるし、DVDも見られるし、耳栓もアイマスクも売っているし、リクライニングシートでゆっくりと眠ることができるし、シャワーが付いているところさえある。すげー。これで置いてある食べ物がもっとおいしくなれば完ぺきなんだけどねえ。

 夕方、予定していたお食事会が中止になったため、時間潰しに内倉宅へ。休日の気だるい時間を邪魔してカレーを御馳走になる。

 夜、赤坂へ。あまりにも具合がよろしくないので、千円もするユンケルを買って飲む。待ち時間に読んだビックコミック・オリジナルの『三丁目の夕日』、今回の主人公である自分を犬と勘違いしているたぬき君がとてもかわいい。

たぬき

03年07月06日(日)

 十時間待って十五分撮影して、帰宅。撮影現場が我家の近くだったので、石神井川に沿って歩いて帰ることにする。こちら側から石神井川を歩くのは初めて。それほど大きな川ではないのに、堀がやたらと深くなっているのは、雨が降るとその高さまで増水するということなのだろうか?自宅まで、ゆっくりと寄り道をしながら歩いていたら、二時間以上かかってしまった。帰宅後、すぐ寝る。

 十七時起床。そのまま映画館へ行き『デッドコースター』を観る。「デッドコースター」というタイトルはもちろん邦題であり、原題は『Final Destination 2』、『Final Destination』の続編になる。監督は、『マトリックス・リローデッド』でアクション監督をつとめたデヴィッド・エリス。おそらくは、冒頭の高速道路の事故シーンと、それぞれの登場人物の死に方だけを描くために作られたこの映画、ストーリー的に穴だらけで、ここまで強引で開き直った理論を展開されると、逆に感心してしまう。中途半端にストーリーを成立させようと悪あがきする映画よりは、こちらの方が潔くて観ていておもしろい。とはいえ、思うところもいくつかあった。自ら恐怖を生み出し、「恐るべき他者(映画の中では死神)」にその因果関係をこじつけて、どんどん深みに嵌まっていく登場人物たちは、まさしく典型的なアメリカン。死神は、時にはインディアンになり、時には黒人になり、時には移民者になり、時には異教徒になる。彼らにとって、恐怖は常に「他」のもとにある。

 もともとCGは、映画のストーリーのための表現手段(フォーム)に過ぎなかった。しかしここ数年、ことハリウッドにおける映画のストーリーに関して言えば、それはCGを使用するための方便的な役割に成り果ててしまい、手段と目的が完全に入れ替わってしまっている。もちろん、そのことを嘆くつもりはない。主役の三人をかわいらしく撮るためだけのストーリーとCGで構成された『チャーリーズ・エンジェル』があれだけ面白いのだし、『マトリックス・リローデッド』で多くの観客が楽しんだのは、ストーリではなくてCGアクションであったこと(少なくともぼくの周りからは、あの作品の好意的な意見としてアクションシーン以外の感想を聞いた記憶がない)を考えれば、悪い方向へ進んでいるとは思えないからだ。もちろん、それらの映画にとってストーリーが重要な役割を果たしていることは否定しないが、適度なスリルと適度なユーモア、適度な道徳と適度な不道徳、そして適度なアメリカ的価値観をちりばめたような陳腐なストーリーが、むしろ邪魔に感じることさえある。フォームはもはや分離寸前であり、技術はすでに分離可能なところまで来ている。「すべての芸術は形態の関係の発展であり、形態のあるところには感情移入があり得る。(ハーバード・リード『芸術の意味』)

03年07月07日(月)

 池袋をぶらぶら。

 パルコに寄ったところ、バーゲンをやっていたのでサンダルやら財布やら帽子やらを大量購入。登山用のバックパックを買おうと思っていたのに、お金がなくなった。

 その後、リブロへ。阿呆みたいに本を購入。登山用のバックパックを買おうと思っていたのに、お金がなくなった。

 帰りにお茶を飲める場所に寄って買ったばかりの本を読む。

 養老孟司著『バカの壁』。養老氏が口述したものを、別の編集者が文章にしたもの。売れている割に評判があまり良くないし、養老氏の別の著作と比較すると確かに物足りなさは感じるけれど、いろいろな意味で面白く読むことができた。

 人と接するとき、確かに会話は成立していたはずなのに、こちらの伝えようと思った意図がまったく異なる意味として伝わっていることがよくある。もちろん、ぼくの伝達能力に問題があることは否定しないが、情報の伝達の難しさは、誰もが少なからず経験したことがあるのではないだろうか。

 養老氏は冒頭で、ある夫婦の妊娠から出産に至るドキュメンタリー番組を、薬学部の学生たちに見せたときのことを話す。番組を見終えて感想を聞くと、女子生徒のほとんどが「大変勉強になった」と答えたのに対し、男子学生のほとんどは「全部知っていることばかりだった」と答えたという。もちろん、女子学生の妊娠と出産に関する知識が、男子学生よりも乏しいはずはない。養老氏はその違いを、「与えられた情報に対する姿勢の問題」であるとする。妊娠と出産という、近い将来に自分が関係するであろう情報に対峙した女子学生は、ほんの些細な発見であってもそれを積極的に取り込もうとする。それに対して妊娠と出産を身体的に経験することのない男子生徒は、保険体育で学んだ知識以上のことを発見しようとはしない。その結果、多くの情報を含むドキュメンタリー映画を観ても、「全部知っていることばかりだった」という結論しか導き出せないのである。養老氏はこのことを、脳内の一次方程式 y = ax という式で表現する。x は五感から脳への入力、y は運動系からの出力、a は「現実の重み」。情報としての x を入力しても、その情報に対する現実の重み、情報としての価値 a がゼロであれば、出力はゼロになるし、a の値が大きければ大きいほど、出力も大きくなる。a の値がマイナスであれば、y の値もマイナスとして出力される。同じ情報を与えても、その情報に対する各個人の「現実の重み」によって、出力はマイナスにもプラスにも、あるいはゼロにもなり得るという。このような、情報を自主的に遮断してしまう壁、これが『バカの壁』であり、この壁を持つ人間は、わかっていないことを「わかっている」と勘違いしてしまう、と養老氏は言う。

 正直なところ、読んでいて首をかしげてしまう個所もいくつかあったけれど(個性に関して物理的な側面ばかりを強調しているところや、犯罪者の脳構造のCTをとることを奨励している点、一元論と二元論に関する記述など、「コモンセンス」という言葉の捉え方など)、全体的に興味深い内容で、一気に読み通してしまった。その全てに言及したいところだけど、とりあえず一番気になった点について少し書きたいと思う。養老氏は、第四章『万物流転、情報不変』の中で、次のように書いている。

 他の動物よりも脳の容量の大きい人間は、「考える」ことによって「概念」を作り出し、その概念を現実化(養老氏の言葉を使用して言えば「脳化」)してきた。現代を生きるぼくたちにとって、身の回りにあるほとんどすべてのものは想像から生まれたものであると言ってもよいだろう。そして、そのように人間が考え出した抽象概念を代表するのは、「神」である。

 人間の脳の容量は、チンパンジーの約三倍である。人間が他の動物よりも知能が高いのは、単に脳みその容量の問題である。そして、人間の脳が他の動物よりも大きくなったのは、単に遺伝子の問題である。つまり、人間の脳を大きくした遺伝子さえ抽出できれば、人為的に脳を大きくすることができる。これに近い実験は、すでにマウスを実験対象として行われている。マウスで成功すれば、次は猿だろう。猿の脳を人間と同じ大きさにすれば、『猿の惑星』に登場した猿が、現実に誕生するかもしれない。その次は人間に応用されるだろう。人間の脳を、現在の三倍の大きさにしたらどうなるだろうか?

 ぼくたち人間の常識で考えれば、人間以外の動物は人間の世界を理解することはできない。昆虫は動物の世界を理解できないし、動物は人間の世界を理解できない(その逆もまた然りだけど、そのことには今は触れないでおく)。それと同様に、現在の人間の脳の三倍の大きさの脳を持つ人類(プラスαの人間)が誕生した場合、ぼくたちは彼らの世界を理解することはできないだろう。人間が考え出した最大の概念である「神」を、つまりぼくたちの知覚できない世界を知覚し、ぼくたちの感覚の及ばない世界を感覚する「プラスαの人間」を、人類は今まさに作りだそうとしているのである。

 これは、とても恐ろしい話だと思う。ここ数年、クローン技術に代表される科学の無謀な進歩は倫理的な立場から強く糾弾されているが、クローン技術どころの話ではない。人類は、自分たちが踏み込むことの出来ない世界を理解する「神」を生み出そうとしている。知能のレベルが人類の延長線上にあるならば、まだ救いはある。しかし、プラスαの人間と現在の人間の知能の差は、そのようなレベルをはるかに超えているかもしれない。それが人類の脅威にならないという保証は、どこにもない。人間が理解できるのは人間が理解できることだけであるということを、忘れてはいけない。このことは、倫理のレベルで話し合うべき問題だと思う。

 長々と書いてしまったけれど、こうやって書きながらぼくが一番興味あるのは、「プラスαの人間」の世界よりも、今ぼくたちのまわりにいる動物たちの世界に関することで、言語というシステムを使用しない動物が世界をどうやって認識しているのか、彼らは人間という存在をどのような消化しているのか、そちらのほうに興味がある。しかし、これは脳の話ではないのでまた後ほど。

03年07月08日(火)

 さて、今週末は登山でございます。本日の日記は犬と内への連絡となっております。

 いろいろと考慮した結果、登山初心者のぼくたちとしては、目に見える喜びが欲しいということで、展望が美しいと評判の常念岳ー蝶ヶ岳を縦走することにしました。本当は少し無理をして、槍ケ岳や笠ケ岳を登って播隆上人の歩いた山道を辿りたい気持ちもあったのですが、調べてみると槍は一泊ではいけそうにないし、笠ケ岳はなかなかの上級コースらしいので、遭難したりして東京に残してきた恋人たちを悲しませてはいけないので、今回は断念した次第でございます。

 堀金村役場行政情報案内を参考に、コースを考えてみました。

午前二時、集合。
調布ICから中央自動車道に乗り、岡谷JCTで長野自動車道に入り、豊科ICで降りて(5050円)、一ノ沢登山口へ。

一日目
一ノ沢登山口 --(0:20)-- 山ノ神 --(1:00)-- 王滝ベンチ --(2:00)-- 高巻き道 --(0:30)-- 最後の水場 --(0:30)-- 常念小屋 --(余裕がなければここまで)--(1:00)-- 常念岳 --(0:45)-- 常念小屋(六時間ぐらい)
常念小屋で一泊(8500円)

二日目
常念小屋 --(1:00)-- 常念岳 --(3:00)-- 蝶ヶ岳 --(2:00)-- まめうち平 --(1:20)-- 力水 --(0:20)-- 三股登山口(八時間ぐらい)

タクシーで一ノ沢までもどる(6500円)
豊科ICから帰宅(5050円)

高速代とタクシー代とガソリン代は頭割り(ひとり6000円から7000円)
山小屋が8500円(二食付)

 問題は天気です。多少の小雨であればよいのですが、地上で小雨でも山ではどしゃぶりということも考えられます。現地が雨の時は、残念だけど中止にしましょう。曇りだったら決行ということで。

03年07月09日(水)

 起床。どうも体調がよろしくない。体がだるい。

 国立歴史民俗博物館のサイトの「サーカスの夜明け−軽業芸人の海外交流」という特集を読んでいたら、なんと鉄割が取り上げられているではありませんか。ぼくたちもかなり有名になったのだなあと思っていたら、取り上げられているのはオリジナルの鉄割一家でした。

鉄割

 周りにある名前が書いてある掛け軸みたいの、これって何っていうんでしたっけ?割り書き?じゃないよね。とにかく、この名前が書いてあるのがとてもよろしくて、右端のやつだけ「足藝元祖」って書いてあります。鉄割のちらしも一度だけメンバーの名字を全部「鉄割」にしたことがあるのだけど、やっぱりそのほうがかっこいいと思うので、次のちらしは独断でそうすることにしよう。

 ひとつ気になるのが、サイト内の「鉄割福松」に「かねわりふくまつ」というルビがふってあることで、鉄割はてつわりではなくて、当時はかねわりだったのかしら。そこらへんのこと、よくわからないのですが、熊蔵の子孫のかたは「てつわり」を名乗っていたから、やっぱてつわりだよねえ。

03年07月10日(木)

 散歩しながら考えたことなどを少し書きたいと思う。

 ぼくは無前提的な「AはB、だからC」という式を嫌悪する。そのような式を盲信する輩を軽蔑する。宗教は、神という絶対的な価値観を前提としているため、実証を必要としなかった。そこに必要なのは、言葉による理解可能な物語と実感としての世界観だけである。近代において、世界は神という絶対的価値観をはるかに凌駕するほどにそのシステムを進化させた。結果、世界を語るには物語を越えた実証が必要となり、科学が生まれた。科学は絶対的な価値観を持たない。科学における価値観は、実証によって初めて生まれる。科学に絶対的な価値観があるとしたら、それは「世界は実証されなくてはならない」ということだろう。人々は科学によって実証的な世界を得たかのように思えた。しかし実際に人々が得たのは、「実証主義」を前提とした科学という新しい物語に過ぎず、「実証された世界」ではなかった。科学自体は実証的であっても、人々が得た科学の語る物語は、結局のところ無前提的な「AはB、だからC」に過ぎなかった。

 結果は原因を伴うと考える人がいる。結論は根拠を伴うと考える人がいる。現象は過程を伴うと考る人がいる。理解を超えた事件が起きれば、その事件が起きた背景を考え、自分たちが納得することのできる原因をでっちあげて安心する。すべての結果を原因で消化しようとする。そうしないと、存在が不安定になるかのように。人類は、常に理由を求めてきた。常に原因を探ってきた。言葉を使用して、物語を生み出してきた。否、物語をこじつけてきた。

 想像を超えた事件の原因をこじつけるのは簡単だ。加害者の幼児期の体験、受けた教育、社会の歪み、インターネットの普及、ゲームや漫画の暴力性、分かりやすい理由をでっちあげて、加害者は加害者であると同時にそれらの犠牲者でもある、と考えれば、誰もが納得して安心することができる。分かりやすい原因を想定することによって、理解できないことを理解しようとする。確かにそれらは、事件が起きた背景の一因であったかもしれないけれども、だからといって事件を理解したと考えることは非常に危険である。理解できないものを、理解できるかたちでのみ理解しようとしている限り、また別の想像を超えた悲劇は起きる。世界はぼくたちの理解の中に存在する。けれども、事件はぼくたちの理解の中で起きているわけではない。

 理解できないものは理解できないままに放置しておけと言いたいわけではもちろんない。理解できないことを、都合のよい形で理解してしまう危険性について考えているのだ。

 そしてもうひとつ付け加えると、実は人が求めるのは「理解」ではない。理解しているという安心感である。だから科学的に実証されたとする「AはB、だからC」という式をなんの疑いもなく受け入れ、その命題に合せて世界を変更する。たとえその式に、実感がなくとも。

 ぼくが聞きたいのは「なぜぼくたちは、実感なしに確信することができるのだろう?」ということだ。他人から与えられた「AはB、だからC」という式に制御された世界に生きて、なぜそれが正しいと確信することができるのか。実感とは、前提である。実感の伴わない確信を、ぼくは嫌悪する。

03年07月11日(金)

 明日は登山。深夜に東京を発つので、今日は早く眠らなくちゃなどと思いつつ、ついつい雑誌や本やWebを見たり。

 雑誌「エンタクシー」第二号を購入。大竹伸朗氏の『ネオン星』というエッセイが素晴らしい。宇和島の大竹氏の家の近くにある高野長英の隠れ家跡の石碑、その石碑の道を挟んだ向こう側にある「ジャングル」というカラオケランド、ある雨の晩、大竹氏はそのカラオケランドのネオンの色が石碑の表面で踊っているのを発見する。大竹氏は思う。「確かに高野長英という名の日本人天才蘭学者がココにいて息をし生活をしていた」。その彼が、必死の思いで書いた「夢物語」のために幕府に追われ、155年前にこの「ジャングル」の前にやってきた。「『ジャングル』・・・この曲がりくねった時空間因果は一体何だ」。ほんの六ページほどの短いエッセイだけど、これだけでもこの雑誌を買う価値があると思う。読んでいたら、その文章の展開に松山巌の『闇のなかの石』を思い出した。この『ネオン星』に感じるところがある人は、おそらく『闇のなかの石』にも何かを見つけることが出来ると思う。

 Salon.comで『千と千尋の神隠し(Spirited Away)』が取り上げられている。宮崎駿の作品は、登場人物の感情を表情の変化であらわすのではなく、画面の色調を駆使して情景を描くのがすごい!みたいなことが書かれているのだけど、そりゃあなた、アメリカのアニメの不自然な表情描写と比べたら、千尋の表情もimpassiveに見えるかもしれないけどねえ。

 華倫変著『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』を読む。知らなかったのだけど、華倫変氏は今年の三月に心不全といういかにも怪しい死因で亡くなったそうだ。おそらく最後の短編集になったであろう本書に収められている作品は、すべてがとんでもなく素晴らしい。それだけに、若すぎる死が悲しすぎる。「私は眠る、日々眠る」という書き出しで始まる『忘れる』という作品は、とにかく眠り、そして忘れていく女の子の話。とにかく眠る。そして忘れる。「記憶なんてなんの役にも立たないから、それでいいのかもしれないと、真昼の太陽を見て思う」。この作品の素晴らしさを伝えるには、実際に読んでもらうしかないのだけど、最後のページの指を噛む女の子の表情が、たまらなく悲しくて、たまらなく美しい。女の子は言う。「どんなにいろんなことをわすれてしまっても、いくらすべて消えてしまっても、せつないと思う気持ちだけは、忘れないのだと思うと涙が出た」。

 夜、明日の登山の準備をして、洗濯をして、掃除をしていたらあっという間に深夜になってしまった。午前一時、家を出て待ち合わせ場所へ。

03年07月12日(土)

 深夜二時に東京を出て、朝六時過ぎに一ノ沢登山口到着。天気は曇り、時々晴れ。山登りに最適な天候。

 一ノ沢から常念岳へ続く登山道は、沢あり滝あり雪渓あり、歩いていてとても楽しかった。もちろん死ぬほど疲れたけど。

 山ノ神でお祈りをして

やま

 沢で一休みして

やま

 初めての雪渓体験

やま

 水場で一休み

やま

 コースタイムはだいたい以下の通り。

 一ノ沢登山口 --(0:20)-- 山ノ神 --(1:00)-- 王滝ベンチ --(2:00)--(一部登山道が途切れて雪渓に)-- 高巻き道 --(0:30)-- 最後の水場 --(0:40)-- 常念小屋

 実は王滝ベンチや高巻き道がどこだったのかいまいちよくわかっていない。だから、アバウトなコースタイムだと思ってください。

 常念小屋でビールを飲んで、一時間ほど眠って常念岳へ。何度かのフェイントの後、頂上へ。

やま

 コースタイムはだいたい以下の通り。

 常念小屋 --(1:00)-- 常念岳 --(0:45)-- 常念小屋

 標高2800mの頂上からの展望は、まさしく絶景。槍ケ岳が遠方よりぼくたちを誘う。

やま

 頂上から蝶ヶ岳に稜線が続くが、ガスが視界を遮る。明日、晴れたらこの稜線を歩くことになる。お願いだから晴れてくれ。

やま

 六時夕食。生ビールを飲んで今日の疲れを癒す。昨日ほとんど寝ていないために、八時を過ぎたぐらいで目を開けていることができず、八時半就寝。満月なのに、星は出ず。

やま

03年07月13日(日)

 四時半起床、二度寝、五時半起床、六時朝食。七時二十分、常念小屋を出る。

 雨が降っていたらこのまま一ノ沢まで降りる予定だったが、大方の予想を裏切り、太陽の照りつけるような晴れでもなく、雲が一面に立ちこめているような曇りでもない、とても良い天気になった。本日は蝶ヶ岳まで縦走し、そのまま三股へ降りる。

やま

 昨日登った常念岳を再び登る。今日はザックを背負っている分、昨日よりも大変。こんな岩山を登ったり。

ごめんなさい、嘘です

 常念岳から蝶ヶ岳へ続く稜線は、相変わらずガスで先が見えない。距離感がいまいちつかめないまま、出発。

やま

 岩だらけの常念岳を降りると、いきなり森が現れた。山岳気分から山のお仕事気分に切り替えて、森の中を歩く。戌井さんは中上建治気分だったけれど、ぼくは中国の田舎に転校してきた都会の子供のような気分。内倉君は優作気分。

 

やま

 途中、真っ白な毛が地面に散乱しているのを発見。動物の毛だと思うが、一体何の動物だろう?少し離れたところに肋骨が残っていて、それから推測するに結構な大きさの動物だと思うのだけど、完全に白骨化しているので正体は判別できない。多分、鹿かなんかだと思うけれど、少しだけ怖かった。

 蝶ヶ岳の少し手前の蝶槍に到着。360度見渡す限りの大パノラマ。

やま

 強引にパノラマ写真にしてみました。クリックすると拡大します。

やま

 以前にも同様のことを描いたけれど、このような雄大な展望を前にすると、ぼくがここに到着する以前からこの景色がここに存在していたという事実と、ぼくがここを去ったあとにもこの景色がここに存在し続けるという事実を、不思議に感じる。こうやって写真を整理しながら日記を描いている今この瞬間も、あの場所からはあの展望が広がっているはずで、誰からがそこに到達する限り、展望は景色として認識され続ける。

 保坂和志氏の『世界を肯定する哲学』に冒頭に、次のような一節がある。

宇宙は人間という"知的な"生命を得て、はじめて宇宙自身について語られる可能性を得ることができた。人間のような生命が、宇宙のどこにも生まれてなかったら、宇宙は何百億年という時間をかけて、ただただ生成し滅んでいったということになる。

 「語られる可能性」という意味を、ぼくはまったく理解できていないのだろうけれど、自分なりにそのことを考えてみたりする。物質的な意味での世界(宇宙)は、人間が存在しなかれば語られることはなかった。生物が存在しなければ、認識されることすらなかった。ただ在り、ただ在りつづける。生成し、消滅し続ける。世界(宇宙)には、未だ語られることのない、認識のされることのない、観察のされることのない景色が多く存在する。というよりは、そうされない景色のほうが多いはずだ。そのような景色はぼくの存在に関係なく、在り続ける。生命の存在に関係なく、在り続ける。そのような景色は・・(以下、混乱)

 蝶ヶ岳フュッテでカレーうどんを食べて、後は下山するのみ。現在十二時。

 帰り道はびっくりするぐらいの悪路。振り返ると、常念岳がぼくたちを見下ろしている。

やま

 コースタイムはだいたい以下の通り。

 常念小屋 --(1:00)-- 常念岳 --(3:40)-- 蝶ヶ岳 --(1:30)-- まめうち平 --(0:50)-- 力水 --(0:15)-- 三股登山口

 帰りに温泉に寄って疲れを癒す。帰宅後、ふらふらしてすぐに寝た。一泊二日程度の登山でもこれほどの衝撃なのだから、本格的に登山を始めたら気が狂うかも、ぼく。

 今回の登山で学んだこと。

  • 山小屋に泊まるときは、ひとりは辛い。やはり友達と泊まるべき
  • 山岳会の方々は、皆さんとても良い人だけど、ちょっと濃い
  • 山で果物を食べると美味しい
  • 山でゆで卵を食べると美味しい
  • 山には女の子がいない
  • ストックはあったほうが良い
  • ワインを持っていっても飲まない
  • ちゃんとした地図を持っていったほうがよい。雑誌の切り抜きだけだとストレスがたまる

 などなど

 次はいつ行こう。登山。

03年07月14日(月)

 起床。思ったほど筋肉痛はひどくない。軽くストレッチをして、家を出る。

 『バトルロワイヤルII』を観る。前作のようなエンターテイメントを期待して観に行ったが、質の悪い反米映画に成り下がっていた。いくらアメリカの行為を批判的に描いても、いくらそれに対抗する国や人々を美化して描いても、行為が悪になり正義になるのは、そこに思想があるからだ。行為だけを黒板に書き連ねても、観ている側には何も伝わらない。そんなことで反米に目覚めるのは、婚姻届もまともに書くことができないような阿呆だけだろう。劇中、テロリストになった七原秋也は言う。「二十年も戦争の続くあの国(アフガン)では子供たちが笑っている。俺たちは、あの子供たちのように再び笑える日が来るまで、戦い続ける」。ううむ。日本の子供だって、アメリカの子供だって、アフガンの子供と同じように笑っている。もしアフガンの子供たちの笑顔が他の国の子供よりも輝いているように見えるのだとしたら、それは曇った眼鏡をかけて世界を見ているからだろう。そう、この映画は曇った眼鏡をかけて見た世界を描いている。アメリカを批判するには、その眼鏡を外さなければならない。そうしなければ、アメリカが世界に対して行っていることと同様のことを、ぼくたちは繰り返してしまうだろう。ぼくたちが考えるべきなのは、正義と悪に二極化された世界のことではなくて、なぜ正義は自らを正義と考えるのか、なぜアメリカは自らを正義と考えるのか、なぜテロリストは自らを正義と考えるのか、ということだと思う。

 夜、焼き肉をご馳走してくれるというので、新大久保へ。新大久保へは二度と行くまいと思っていたが、焼き肉の魅力には勝てなかった。食って飲んで食って飲んで、ごちそうさまでした。

03年07月15日(火)

 起床。眠くて眠くて仕方がない。平日の夜は三時間眠れば十分だったのに、最近は五時間寝ても眠い。

 チャック・パラニュークインヴィジブル・モンスターズ』を古本屋で購入。『ファイトクラブ』よりも前に書かれていたというこの作品、な、なんか『ファイトクラブ』よりもやばくないですか。事故で顔がぐっちゃんぐっちゃんになってしまった元モデルの主人公が、自分を捨てた婚約者に復讐するために旅に出るというお話。あっという間に半分読み終えたけれど、もったいないので残りはゆっくり読むことにする。

 そういえば、ジョン・リドリーの『地獄じゃどいつもタバコを喫う』がまだ未読だった。今度の週末にでも読もう。

 美味しい紅茶が飲みたい。

03年07月16日(水)

 本屋を徘徊。三浦雅士氏による『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』を購入。村上春樹という作家兼翻訳家と柴田元幸という翻訳家が、どのようにアメリカ文学から影響を受け、お互いに影響を与え合い、現在日本の若い作家たちに影響を与えたか。村上春樹論はあちらこちらで目にするけれど、柴田元幸論は初めて読む。

 三浦雅士氏がある若い作家(柳広司)と話していた折、影響を受けた作家のことを聞くと、「村上龍さん、村上春樹さん、そして柴田元幸さんの翻訳」と答えたという。ポール・オースターやスティーブン・ミルハウザーではなくて、「柴田元幸さんの翻訳」という答えに三浦氏は驚く。影響を受けた作家として、村上春樹と同等に柴田元幸が語られているのだ。八十年代から現在にかけて、村上春樹と柴田元幸は日本文学にとってどのような存在であり、どのような影響を与えてきたのだろうか。

 村上春樹を論じる際に、アメリカ文学の要素を省くことはできない。同様に、柴田元幸を語るときに村上春樹の存在を無視することはできない。『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』は、前半にアメリカ文学の影響を中心とした村上春樹論、後半に柴田元幸論(といってもほとんどインタビュー)、最後に両者にとっての「もうひとつのアメリカ」を論じる。

 前半の村上春樹論では、カーヴァーやブローティガン、サリンジャー、ヴォネガット、オースターなどのアメリカの作家が、彼の作品にどのように影響を与え、どのように類似しているかを論じる。村上春樹論というよりは、六十年代以降のアメリカ文学論のようにも読むこともできる。アメリカ文学を異国の文学ではなく、直接に肌に感じるものとして吸収した村上春樹は、それらの作品から何を読み取り、自身の作品で何を書こうとしているのか。そしてそのような彼の作品が日本文学に与えた影響はどのようなものなのか。

 後半は柴田元幸氏へのインタビューで構成されており、これまであまり語られることのなかった生い立ちから、村上春樹との出会い、初めての翻訳、氏のアメリカ観などに言及している。柴田元幸氏をひとりの作家として見ているファンには必読の内容。「世界はアメリカ化していくしかなくて、食べ物はマクドナルド化し、カフェはスターバックス化していくなかで、僕自身はアメリカ文学におけるマクドナルドなのかと不安になることもちょっとはあるわけですよね。もちろんマクドナルドではないと思いたいわけですが、どうしてマクドナルドではないといえるかといえば、要するに個人の好みと偏見で選んでいるということにつきるのかな

 最後は村上春樹論と柴田元幸論の総括になっている。アメリカ文学に強い影響を受けたこのふたりの作家・翻訳家から見えてくる「もうひとつのアメリカ」とは、いったいどのようなアメリカなのか。じつはぼくは、共感できるかどうかは別として、この最後の二章が一番面白かった。

 全体を通して、小難しいことはほとんど書かれていないのであっという間に通読できる。村上春樹か柴田元幸かアメリカ文学のどれかひとつにでも興味のある人にはおすすめの本。

 夜、渡部さんが冷蔵庫をくれるというので、ぶっ壊れたままになっていた古い冷蔵庫を業者に引き取ってもらう。6600円。たけー。その後、渡部さんが横浜から冷蔵庫を運んでくれた。感謝。

 渡部さんから頂いた冷蔵庫は、普通に使っていたら絶対にぶっ壊れるはずの無いところがぶっ壊れていたりしてとても素敵でした。冷蔵庫の機能としては何の支障もないので、大切に使わせていただきます。ものを冷やすって、こんなに便利なことだったのね。

03年07月17日(木)

 なぜか生活が落ち着かない。余裕がなくなっている。良くない。

 ナブコフ愛読者で有名な若島正氏の新刊『乱視読者の英米短篇講義』を購入。書評や評論を書く人は数多くいても、若島正氏ほど小説の面白さを上手に伝えることが出来る人はそうそうはいない。良い小説とは、それを読む前と読んだ後で世界の在り方が一変してしまうような小説である。良い評論とは、それを読む前と読んだ後では小説の読みかたが一変してしまうような評論である。若島氏は、その小説を「読みたく」するだけではなく、読みかた・感じかた自体を変えてしまうような評論を書く。

 生活に余裕がないのは、就寝前に読書をしていないせいだと思う。少しぐらい忙しくても、眠る前には精神を落ち着けるために、一時間程度は読書をするべきである。余裕のない生活は、精神の余裕をなくす。精神に余裕がなければ、生活の余裕がなくなる。そのように考えて、就寝前に一時間ばかり鈴木大拙著『一禅者の思索』を読む。精神が落ち着くどころか、騒めくのを感じる。

03年07月18日(金)

 本日、鉄割稽古初日。顔合わせと言うか、なんというか、とりあえず集まって、お酒を飲みに。惰性ともうしましょうか。

 ジョン・マルコビッチ主演『魔王』を観る。原作はミシェル・トゥルニエの同名小説。どうにもいたたまれない気持ちになる。自分が精霊に守られていると信じている主人公のアベル。彼は子供を守るために行った行動により、村の人々に「鬼」と呼ばれる。歴史は人物を記述する。歴史は結果を記述する。歴史の記述する人物と、その人物の本性の間には、どのような関係とどのような必然があるのだろうか。

03年07月19日(土)

 起床。睡眠不足。頭がくらくら。

 毎度おなじみx51.org経由でルドルフ・シュタイナーの『オカルトの記号と象徴』を読む。面白かったけどさーっぱり理解できない。

 京極夏彦の京極堂シリーズ最新刊『陰摩羅鬼の瑕』が8月8日に発売するらしい。うーん、前作までの内容を完全に忘れている。

 夜、学生時代の友人からお怒りの電話。すっかり忘れていたけれど、本日は同窓会だった。友達がどんどん減っていくう。

 いろいろと考えて、次回の鉄割は参加しないことにした。精進精進。

03年07月20日(日)

 昼過ぎに起床。びっくりするぐらい天気が良い。いつもならば石神井公園に散歩に行くところだが、今日は気持ちが少し違うので長命寺まで歩くことにする。ラルフ・ウォルドー・エマソンがウォルト・ホイットマンを説得しながら散歩をする情景を想像しながら歩く。長命寺はあまりにも静かで、ひとり境内でくつろいでいるのが恥ずかしいぐらい。早々に立ち去る。

 途中で遊んだねこさんたち。生きていますよ、念のため。

にゃこ にゃこ

 本屋さんを徘徊。村上春樹・柴田元幸共著『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』を購入。現在『Catcher in the Rye』を読書中なので、最後まで読み終えてから読もう。と思っていたけれど、少し読み始めたらとてもおもしろい。先にこちらを読んでから、『Catcher...』を読んでもいいかな。それにしても、すっかり古典として定着していた『Catcher...』をベストセラーにしてしまうなんて、村上春樹って本当にすごいと思う。この人の他の誰が訳しても、ここまでブームにはならなかっただろう。

 カフェで『人はなぜ山に登るか - 日本山岳人物誌』を読む。役行者から平山裕示に至るまで、日本の山岳史上に残る人々を紹介する。「日本の山には天狗が棲んでいるという。山姥という臈たけた妖女も徘徊するという。これらの山の神がみは、人間がこの列島に移り住んで以来、人々と喜怒哀楽の関係を連綿と営みつづけてきた。今、山を歩く時、彼らがまだ健在ならば、その息吹を感じたいと思う。先人たちは何を想い、何に魅入られて山を目指したのだろう」。読みながら次の登山について考える。

 帰り、道に迷う。迷うはずの無い場所で迷うって、どうしてこんなに楽しいのだろう。

03年07月21日(月)

 また昼過ぎまで寝てしまった。罪悪感。外は雨。

 午後、頂いたお仕事をしに烏山へ。先日フィンランドに行った方のムーミン話を聞いていたら、無性にムーミンが読みたくなった。

 夕方、まんが喫茶へ。駅前に出来てからというもの、ほぼ毎日行っている。

 夜、『ボルヘスの北アメリカ文学講義』を読む。訳者が解説で書いている通り、いたってまともなアメリカ文学講義であり、ボルヘスの名前から想像していたようなもの(どんな?)ではなかったけれど、淡々とした文体に展開するボルヘス流のアメリカ文学史は、読んでいて全然飽きなかった。「起源」「超絶主義」「西部」「国外流浪者たち」の章が面白かった。ボルヘスは1850年から1855年までの五年間を、ホーソーンの『緋文字』、エマソンの『代表的人間』、メルヴィルの『白鯨』、ソローの『ウォールデン』、ホイットマンの『草の葉』などが誕生した「アメリカ文学史上もっとも実り豊かだった時期」と書いている。ぼくだったらどの時期を「アメリカ文学史上もっとも実り豊かだった時期」と書くだろうか。少なくとも1850年ではないことは確か。

 武田百合子の『日日雑記』が読みたいくていくつかの書店を徘徊したが、どこにも売ってない。仕方なく『富士日記』を読み返す。何度読んでも素敵な日記。いつかはわたくしも、山の麓で暮らしたいものであります。

03年07月22日(火)

 なんか全然休んだ気がしない。

 昨日、戌井さんやへじさんの話を聞いて読みたくなった『たのしいムーミン一家』と『ムーミン谷の彗星』を読む。この二冊は何年か前に一度読んでいるのだけど、何度読んでもおもしろい。アニメのムーミン谷とは異なる、どこかとぼけたムーミン谷の生活。思わず声を出して笑ってしまう。ムーミン谷の住人の生活のユーモアには、赤塚不二雄の『天才バカボン(初期)』に通じるものがある(とか書くと怒られるかしら)。けれども、ムーミンには『天才バカボン』にはない魅力がある。それはスナフキンの存在であり、ムーミンもス二フもミイもニョロニョロもスノークもヘムレンさんも『天才バカボン』に登場するけれど、スナフキンだけは登場しない。あらしの中に鐘の音に耳を傾けて、世界をまわり歩いたときのことを思い出しながら、「もうじき、ぼくはまた旅にでるんだ」と心の中で思うようなスナフキンは登場しない。

 ちなみに『天才バカボン』は大好きです。特にバカボンがあまり出てこなくなった後期は最高。

 夜、横になってムーミンを読んでいたところ、突然にお酒のお誘い。迷うことなく家を出る。楽しかったです、ごちそうさまでした。

03年07月23日(水)

 すっかりムーミンにはまってしまい、未読の『ムーミンパパの思い出』と『ムーミン谷の冬』と『ムーミン谷の仲間たち』を購入。ぱらぱらとめくってみると、『ムーミン谷の仲間たち』だけ絵のタッチが少し違うような気がする。この絵のタッチが一番好き。次回の鉄割を辞退してよかった。ゆっくりとムーミンを読むことができるのだから。

 公式サイトのBBSでいろいろとムーミン情報を仕入れる。今週末の『誰でもピカソ』でムーミンを取り上げるとのこと。さらに、本日よりアニメムーミンのDVDも発売されるらしいので、レンタルで借りることができるかも。さらに来月6日から、渋谷LOFTで『ムーミン デザインコレクション』展が始まる。ムーミン パペット・アニメーションは既に始まっているので、可能な限り観に行こうと思う。でもこれ、早朝一回のみの上映なんだよなあ。

 ブックオフ系の古本屋さんでジュリアン・バーンズの『太陽をみつめて』とアンソロジー『レイモンド・カーヴァーの子供たち』を共に100円で購入。『太陽をみつめて』は何年か前に一度読んでいるけれど、100円だったら買うだろ普通。『レイモンド・カーヴァーの子供たち』は、1990年当時(つまり80年代)の二十代の新人作家の短編を集めたもの。原題はそのまま『11 from 20 under 30』。レイモンド・カーヴァーとはなんの関係もない。とにかく100円は安い。

 ムーミントロールはムーミン谷のことを次のように言っている。「だれでも、すっかり安心していられる谷なんだよ、あそこは。目をさますときはうれしいし、晩にねるのもたのしいのさ」。せめて夢の中でその素敵な谷に行けますように、おやすみなさい。

03年07月24日(木)

 起床。眠い目をこすりながら『ムーミン パペット・アニメーション』を観に行く。本日の上映は第一章『ムーミンとスナフキン、帽子を見つける』。最初、オカルト映画のようなスナフキンの動きに若干ひいたものの、慣れてくるとその動きがたまらなくかわいらしくて、とても面白かった。思ったよりも原作に忠実で、ぼくの大好きなセリフ(ムーミンが雲に乗って「コケコッコー」というシーン)もちゃんとあったし、なによりも岸田今日子さんのナレーションがすばらしくて、すっかりとムーミン谷の気分を満喫。上映時間も一時間ちょいと、丁度いいかんじ。それにしても、早朝だというのにほぼ満席で、土日は立ち見とのこと。すごい人気だ。全部は無理だとしても、可能な限り観に来たい。とりあえず来週の第二章は絶対に観に来るぞう。DVDの発売を切に願う。

 「神話への門」というサイトをチェック。世界各国の神話を紹介している。日本の記紀神名一覧とか、ギリシャ神話の神名一覧とか、とても便利。イスラムの天使って、初めて知った。

 「公認寿命予測テスト」なるものをやってみたところ、僕の余命はあと17年と出た。ううむ。老後の隠居生活を楽しみに日々を生きている身としては、その前に死ぬのはちょっと困るなあ。

 夜、映画『ボーンズ』を観る。黒人が主役のホラー映画だというので期待して観たのだけど、いまいちだった。主演はスヌープ・ドッグ。昔しげちゃんの家で見たエロビデオを思い出した。

03年07月25日(金)

 昨日の日記で書いた「公認寿命予測テスト 」。余命17年だったぼくは短命なのかと思っていたら、ある友人はマイナス10年という結果が出て10年前に既に死んでいたし、また別の友人はマイナス36年で生まれる前から死んでいました。みなさん、ストレスをためすぎです。自分をうんこだと思えばストレスはたまりませんよ。そして、他の人を自分よりも汚いうんこだと思えば、自尊心も保てますよ。

 へじさんからメールをいただく。勝手に引用するのもなんなので、要約すると「ムーミンの最後の巻(『ムーミン谷の11月』)のミムラねえさんが髪をとかすシーンに、『梳かせば梳かすほどきらきらと美しく輝きました』というような記述がある。つまりブラッシングは重要ってこと。動物の毛のブラシは高いけどいいものだから一生つかえる。さしずめ今の君の頭はホムサ・トフトだね」とのこと。ううむ。ぼくの髪の毛がぼさぼさだからたまにはブラッシングしろってことなのだろうけど、なぜかちょっぴり嬉しいのは、ムーミンの登場人物に喩えられているからかしら。っていうかあんたの恋人はブラッシングしているのかと問いたい。

 お陰様で第二四半期のAmazonアソシエイトの紹介料は3514円になりました。サイトで得た収入は、サイトに使うべきなので、今回の紹介料で『プログラミング Jakarta Struts』を購入させていただきました。熟読してより良いサイトになるように精進する所存でございます。今後もよろしくお願いします。

03年07月26日(土)

 うーん。今回の鉄割に出ないことにしたのは良いのだけれど、出なけりゃ出ないで暇だ。週末にひとりでいるのはなんとも言えず孤独だぞう。

 先日、古本屋さんで100円で購入した『レイモンド・カーヴァーの子供たち』。全く期待せずに購入したのだけれど、これがとても面白い。まだ半分ぐらいしか読んでいないけれど、いまのところはずれがない。収められている作家のうち、名前を知っているのは約半分、残りの半分は初めて聞く名前ばかり。彼らは現在も作家として活躍しているのかしらと思って調べてみると、例えば、今のところ一番面白かった作品『翻訳家』を書いたミッシェル・ハーマン(Michelle herman)は、二冊の著作を発表しているけれど、作家というよりは大学の教師や編集者として活躍しているらしい。翻訳は一冊もされていない。残念。

 夜、『おくのほそ道』を読む。昔はこの良さがわからなかったけれど、今あらためて読むとじんじんくる。冒頭がとくに素晴らしい。

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして旅をすみかとす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に白河の関越えんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神の招きにあひて、取るもの手につかず、股引の破れをつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、

 草の戸も住み替はる代ぞ雛の家

表八句を庵の柱に懸け置く。

 うーじんじん。

 「おくのほそ道」の旅程をFlashムービーでたどるこんなソフトが発売されるらしい。これ、欲しい。安いし。買おう。

03年07月27日(日)

 起床。ムーミン パペット・アニメーションを観に行こうと思っていたのに、寝坊。とても久しぶりにTOEICというものを受けるために、池袋へ。じぇーんじぇん出来なかった。はは。

 試験の会場だった千川という町を少し歩く。多分、もう二度とこないであろう町。面白そうなものはなにも見当たらない。でも楽しい。誰が書いた文章か忘れたけれど、ポール・ボウルズのことを書いた文章の中に、「人は、異邦に旅したからといって必ず異邦人になるわけではないが、慣れ親しんだ町であっても異邦人になることはあり得る」というようなことが書いてあったことを思い出す。中途半端に異邦であるこの町を歩きながら、中途半端な異邦人になりきる。ああ、楽し。

 夜、『シッピング・ニュース』を観る。監督がラッセ・ハルストレムじゃなかったら絶対に観なかったと思うけれど、いざ観てみるととても面白かった。妻と両親を失った主人公が、ちょっとしたきっかけから叔母と共に自らのルーツである島へ引っ越し、その島で海賊である自分の祖先のことを知る。神秘的な力を持った娘の存在が、軽く流されているのがとても良かった。原作はE・アニー・プルーの同名小説『 港湾(シッピング)ニュース』。こちらもかなり面白そうなので、ぜひ読んでみたい。

03年07月28日(月)

 起床。ムーミン パペット・アニメーションを観に行こうと思っていたのに、寝坊。朝食にトーストとグレープフルーツ。

 午後、図書館へ。今日は一日中ゆっくりたっぷり図書館を満喫しようと思っていたのだけど、図書館というところは本を読んでいる女性がやたらとたくさんいる。以前の日記にも書いたけれど、ぼくは本を読んでいる女性に弱いので、懸命に読書に集中しようと思っていても、本を読んでいる女性がいるとついつい目が向いてしまう。本を読んでいるというだけで、多少ぶさいくでも美しく見えてしまうから恐ろしい。いかんいかん、読書に集中できません。やむを得ず本を十冊借りて退散。

 『口語訳古事記 完全版』を購入。以前に文学界で短期連載していた同著者による『古事記講義』を読んで以来、ずっと欲しかった一冊。でも高っかいのですよ、この本。3333円。なので購入を踏みとどまっていたのだけど、本日、古本屋さんで1800円で発見、即購入。

 ヘンリー・デイビット・ソローが時について言っていた言葉ってなんだっけと思って調べてみたら、「ときをまなぼう」というセイコーが作っているサイトを発見した。なんだか面白いぞこのサイト。お子さん達に「とき」を説明する。勉強になります。

 で、知りたいと思っていたのがこの言葉。

時間とは、私が釣りに行くただの小川にすぎない(H.D.ソロー)

 風邪を引いたのかしら。体の節々が痛い。

03年07月29日(火)

 起床。あ、あたまが痛い。のどが痛い。風邪をひいちまった。

 『ムーミンの哲学』を購入。以前に『クマのプーさんの哲学』を読んだときは、『クマのプーさん』自体をほとんど知らなかったのであまり楽しめなかったが、今回はムーミンなので大丈夫だろう。と思っていたら、この本はトーベ・ヤンソンのムーミンではなくて、「アニメ版ムーミン」をもとに書かれているらしい。うーん。まあでも、クマのプーさんよりは楽しめるだろう。目次を見た限りでは、なかなかいい感じ。読み終えたらまた感想をアップします。

 『多文化社会アメリカの歴史』を読む。800ページを越えるとても分厚い本なので、読了するにはかなりの気合いが必要だけど、巻頭に掲載されている写真がとてもよろしい。好みによるが、アメリカの歴史は二十世紀以前がとてもおもしろいと思う。一番面白いのは1492年、コロンブスがアメリカに到着してからの百年、次に面白いのが1620年、ピルグリム・ファーザーズがアメリカに到着してからの百年、その次に面白いのが1776年、独立宣言からの百年、次に面白いのが1861年、南北戦争からの四十年。残念ながら、それ以降のアメリカの歴史はあまり面白くない(それ以降は、世界史が面白い)。けれども、ぼくが一番興味があるのはそのあまり面白くない二十世紀のアメリカと、ヴァイキングがヴィンランドに到着した1000年前後のアメリカで、この夏はその両者に関して詳しく勉強したいなあなどと企んでいる次第。

 最近、節約のためできるだけ自宅で本を読むようにしているのだけど、自宅だとすぐに山の本に手が伸びてしまう。ああ、山に登りたい。八月中にひとりでどこかに登ろうかしら。

03年07月30日(水)

 起床。奈良へ行く夢を見た。ああ、奈良へ行きたい。

 奈良をゆっくりと歩きたい。お寺を巡って仏像に拝し、時代の余韻に浸りたい。散歩をしながら、道の端に横たわっている石仏に挨拶をしたい。通りがけの蕎麦屋によって、そばがきを注文して粋ですねとか言われたい。それは江戸か。夕方に、浄瑠璃寺の境内に寝ころんで考え事をしたい。好きな人に手紙を書いてしまったり。適当に宿を決めて、無愛想な女将にむかつきたい。夜は夕涼みに散歩して、いい感じの居酒屋に入って日本酒を注文して、退屈に酔っぱらいたい。ほろ酔い加減で店をでて、夜の風に吹かれながら空を見上げたい。石につまずいて転んだり。途中で入ったストリップ劇場で、つげの気分を味わいたい。床について、小難しい本を読んでいつの間にか眠りたい。次の日もお寺巡りをするのです。

 『ムーミン谷の仲間たち』がすばらしく面白い。中でも『世界でいちばんさいごのりゅう』と『ニョロニョロのひみつ』が特に良かった。翻訳家である山室静さん、ムーミンの翻訳はとてもよろしいのに、作品に対する評価がぼくとは正反対で、『ムーミン谷の彗星』がいまいちとか、この短編集で言えば『ニョロニョロのひみつ』が失敗作とか言っている。『ニョロニョロのひみつ』は、ある岬で見たニョロニョロの姿が忘れられず、「ぼくはもうベランダでお茶なんかをのんではいられないぞ」と決意して家を飛び出したムーミンパパのお話。ニョロニョロはただ自分たちの思うままに動いているだけなのに、それに対するムーミンパパの戸惑ったり気付いたり悲しくなったり懐かしくなったりする心の動きがとても面白い。物語中にたびたび登場するムーミンママもとても素敵。ムーミンパパのシルクハットには、「ムーミンママからムーミンパパへ」ってペンキで書いてあるんですって。だからムーミンパパは、自分自身が信用できなくなってもぼうしだけは信じることができるんですって。

 最近、走っていないなあ。走ろう。明日から走ろう。

03年07月31日(木)

 七月最後の日。

 HotWiredで『安楽死をめぐる議論』というニュースを読む。「死」がほとんどの人間にとって最も重要な事柄であり、かつその態度が人それぞれ異なる以上、安楽死という問題に結論が出ることはないだろう。たとえこの先、安楽死が何らかの形に法制化されたとしても、中絶と同様に人類が続く限り議論を呼び続ける問題になることは間違いない。驚くべきことに、「死」は完全なる悪であると信じて疑わない人がいる。生きてさえいれば幸せだと信じて疑わない人がいる。小泉義之氏は『弔いの哲学』の中で、<生きることはよい>というモラルは、最低限且つ最高の原則であり、「自己の生存、自己の保存を肯定するホッブズ的スピノザ的モラル」であると述べている。このことについてはまた後日触れたいと思う。

 ここ何ヶ月にかけて、ネットで集った仲間と共に集団自殺をするケースが増えている。先日あるテレビを観ていると、ひとりのコメンテーターが「どうしてそんなにも簡単に命を捨ててしまえるのか」と嘆き、「命がヴァーチャルな感覚になり、生命は尊いという意識が薄れてきている」と言っていた。自殺者に対するこのような発言は、特に珍しいものではないし、ぼくの周りの友人も同様のことを言っているのをよく耳にする。そのたびに、どうしてこの人は会ったこともない他者に対してそのような浅はかな断定を下すことができるのか、不思議に思う。どうして自殺した彼らが「簡単に」自らの命を断ったと思えるのだろう。もしも自殺がそれほどまでに簡単なものであれば、わざわざネットで一緒に死ぬためのパートナーを探したりするだろうか。この人は、生に絶望したことはないのだろうか。死という最後の手段を考えてしまうほどの孤独を感じたことはないのだろうか。全ての友人や肉親を捨てざるを得ないような絶望を味わったことはないのだろうか。生きていることが、そのまま苦であるというような悲しみを感じたことはないのだろうか。

 ぼくが嫌な気持ちになるのは、その発言の背後に、生の優越感、生が絶対的な正義であり、死が絶対的な悪であるという無前提の倫理が見え隠れする時である。自殺という行為を擁護しようなどという気はさらさらない。けれども、死を選ばざるを得なかった彼らの絶望を無視することはできない。「簡単」に自殺をするのは「生」を軽んじているからだ、などという浅はかなことを言っているうちは、彼らがどうして自殺を選んだのか、彼らにとって死がどういうものであったのかを知ることはできないだろう。

 何年か前、ちょうど十四歳の少年による連続殺人が問題になっていた頃、「どうして人を殺してはいけないのか」という議論が活発だった時期があった。そのような疑問に対して、大人は子供たちにどのように説明をするべきか、いろいろな評論家や教育者が、彼らなりの答えを見つけてはテレビで発言し、雑誌に発表していた。理屈で説明する人もいれば、「人間だからだ」と理屈ぬきの説明をする人もいた。しかし、彼らの答えは凡そ納得のいくものではなかったように思う。そもそも、「どうして人を殺してはいけないのか」という疑問は、殺人は悪であるという最低限のモラルを持っているものには考えつかない疑問である。そのような疑問を思いついたり、あるいはそれに答えを求めるような者は、本来であれば共有すべき倫理が異なると考えるべきである。根底にある倫理が異なるものに、こちら側の倫理の道理を言い聞かせても通じるわけがない。他人と会話する前に、他人の自分の価値観を伝える前に、その相手が自分とおなじ倫理を共有しているかを先ず始めに考えてみるべきである。ポール・ボウルズの短編のタイトルを使わせてもらえば、「あなたはわたしじゃない」。

 もちろん、だからと言ってすべてを黙認、あるいは容認しようなんて思ってはいない。「死」という問題が、当事者だけではなく他人をも傷つける以上、ぼくは自分の倫理に従って行動する。先程とあえて矛盾することを書くようだが、倫理の通じない相手に対しても、あくまでも自分の倫理を基準として主張し、発言する。結局のところ、自分の大切な人を守るためにはそうするしかないのだから。そして、人の倫理がいかに自己中心的なものであるかを、強く実感しなくてはならない。

 結論。あなた(わたし)は自分が思っているほど何かを分かっているわけじゃない。

 夜、中島君と弟君とWさんと戌井さんで飲んでいるというので、ちょいと顔を出しに行く。とても珍しいメンバーで、楽しかった。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
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