03年09月01日(月)

 九月の一日目から寝坊。今日は午後に用事があったので、お仕事を早退させていただくつもりだったのだけど、仕方がないので全休に。

 昼過ぎに、映画『呪怨2』を観に都内へ。間違えて映画の日なんかに観に行ってしまったので、会場には高校生と思しき集団が溢れてまくっていて、映画が始まっても一向におしゃべりをやめる気配がないのには辟易しましたが、映画が始まると彼女彼らのあまりの感情表現の豊かさに感動しました。どうしてあそこまで素直に怖がることができるのだろう。

 高浜寛さんの新作が掲載されていたので、オトナのためのエロティック・コミック『EROTICS』を購入。高浜作品は、やはりとても良かった。はやくこの人が歳を経たあとの作品を読んでみたい。町田ひらく氏といえば、知る人ぞ知るロリコン漫画家さんなのですが、この人の作品ってどうしてこんなに良いのだろう。ベンチに座る老人。前を歩く少女を見て、戦時中の出来事が蘇る。ベンチの後ろで横になっている少年。アイドルとしてのデビュー間近で、事務所からスキャンダルに気をつけるように念を押され、これまでの乱交を思い返している。この人の作品では、少女とのセックスも物語の要素のひとつに過ぎない。ロリコンと間違われたら嫌なのでこの人のコミックは買っていなかったけれど、今度買ってみようかしら。

 夜は久しぶりにお魚を焼きました。なんとなく、外を走ったり。

03年09月02日(火)

 験の悪いともだちふたりと、月島にもんじゃを食べに行きました。気のせいか、ふたりの口から一度も「おいしい」という言葉が出なかったのですが、なかなか美味かったですよう。

 夜、京極夏彦の『陰摩羅鬼の瑕』を読了。ど、どうなんでしょう、これ。あちらこちらの書評やらサイトやらをみると、決して評判は悪くないのですけれど、なんか釈然としないのはぼくだけですか?今回はハイデガーと儒教だというので、相当に期待して読み始めたのが良くなかったのか、それらの要素も事件とうまく絡み合っていないし、犯人なんて物語を半分も読まないうちに分かってしまったし、展開もなんだかだらだらとしているし。基本的にはこういうひとつの家の中で展開する話は好きなので、『塗仏の宴』よりは全然良かったのですけれど、あまりにも期待をし過ぎたのかしら。とはいえ、面白くないはずはなく、とても楽しんで読んでしまったのですけれど。

 本当は、いろいろと思うところがあったのですが、それを書くとネタバレになってしまうのです。ちぇっ。

 ああ、『鉄鼠の檻』のような作品を、もう一度読みたい。または『狂骨の夢』。

03年09月03日(水)

 突然に、ものすごい雨と雷に降られ、やむなく駅構内で雨宿りをしました。五分ほどで雨はあがりましたが、外に出ると空が異様に赤く。

よど

 夜、吉祥寺で昭の字、憲の字、秀の字、朋の字と登山会議。

よど

 お酒を飲みながら、次に登る山についてあーだこーだ。皆の意見では、今回は少し軽めのコースにして、山小屋での飲み会を楽しみましょうということになっていたのですが、貧乏性のぼくとしては、どうせ登るならそれなりのコースにチャレンジしたいのです。上高地から入って奥穂高へ一泊二日で登るすこしきつめのコースなんかが最高なのですが、そのまま言ったら却下されることは間違いないので、とても楽なコースですと嘘をついたところ、きゃつらはこれっぽっちも疑いも抱かず、あっさりとそのコースに決定となっちまいました。そんなおめでたいきゃつらを見ていたら、なんとなく哀れに思えてきて、実はこのコースは結構つらいのですと正直に告白しました。そんで、どこに上るかは未定です。とりあえず、上高地から入ることだけは決定。

 夜、デイヴィッド・クローネンバーグ監督の『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』を観ました。テーマは今はやり(?)の『記憶』。すごい映画です、これ。観終えたあと、呆然としてしまいました。この映画を語る術をぼくは持ちません、と卑怯な逃げでよろしくお願いします。

03年09月04日(木)

 今日もお魚を焼きました。お魚と、納豆とお豆腐の夕食。

 映画『刑務所の中』を観ました。びっくりするぐらい原作に忠実で、畢竟つまらないはずがなく、とても面白かったです。っていうか、こんな風に刑務所を描いたら、みんな入りたくなってしまうのではないかしらというぐらい平和に穏やかに描かれていて、アダルトビデオを観て性犯罪を犯すやつがいるくらいですから、『刑務所の中』を観て刑務所に入る為に犯罪を犯すやつがいてもおかしくないと思いました。でも、刑務所に入ってしまったら、愛する人と愛し合うことができませんからね。この映画を観て刑務所に入りたくなった人には、そこのところを深く考えて欲しいと思います。

 なんとなく、映画というよりはテレビドラマのような感じで、あっという間の九十分でした。日本の刑務所は、本当にこんなに平和なのかしら。まあ、入った本人がこのように書いているわけですから、そうなのかもしれません。だとしたら、刑務所の外よりもよほどに平和な世界だと思います。主人公が、朝方に窓の外を見てこんなふうに思うシーンがあります。「そうだ、思い出した。子供の頃の夏休みの朝がこういうさわやかさだった」。今どき娑婆で生活していて、子供の頃の夏休みの朝の爽やかさを思い出す瞬間なんて、そうそうありませんよ。

 でも、ふと思い出したのですが、去年、名古屋の刑務所で、刑務官の受刑者に対する暴力が問題になった事件がありました。ちょっと調べたところ、こんな記事が。こわいよう。

 現実の刑務所に入るのは嫌だけれど、外の世界と遮断されて、日々の義務を他者に決められ、それなりにおいしいご飯、陽の当たる風呂、しかも読書までできる、そんな『刑務所の中』で描かれている刑務所は、ぼくにとってまさしく理想の場所でありました。価値というものは相対的なものなので、外の世界にいるとおいしいものもまずくなるし、おもしろいものもつまらなくなるでしょう。

03年09月05日(金)

 一年ぶりに携帯電話を機種変更しました。新しい機種は、カシオのメガピクセルA5401CA。とはいえ、以前に使っていた携帯もカシオ製なので、基本的な機能はあまりかわらないというか、細かい機能の追加はありましたが、最新技術すげーという感動はそれほど味わえませんでした。まあ、携帯に100万画素強のデジカメがついているだけでも、すごいことなんですけどね。

 マイデスクトップを撮影。

My Desktop

 ぼくの撮り方が悪いのかしら。あまりきれいではないような。。

 それから、古本屋さんで『泉鏡花集成』全十四巻を購入。八千円。それなりにお得な値段だと思います。ああ、嬉しいよう。と思っていたら、これは「集成」であって全集ではないので、読みたかったものが抜け落ちていて、とくに紀行文や雑記などがほとんど収録されていないので、雑記や談話が収録されている岩波版『鏡花全集』の第二十八巻も一緒に購入。紀行文等が収められている二十七巻はどこに行っても売っていませんでした。残念。まあ、気長に探しましょう。

 そんでもってこの『泉鏡花集成』、ひと月に一冊ぐらいのペースで読んでいけたら良いなと思いながら、早速第一巻を開いて読み始めたのですが、この巻に収められている作品のすべてが、鏡花の二十歳から二十二歳の間に書かれていたものでして、有名な『外科室』も彼が二十二歳の時に書かれた作品であることを知ってびっくりです。

 『外科室』の有名なこの科白。

 私はね、心に一つ秘密がある。麻酔剤は譫言を謂うと申すから、それが恐くってなりません。

 ああ、いいなあ、この科白。死ぬまでに一度で良いから言ってみたいです、「僕はね、心に一つ秘密がある、うふふ」なんてことを。我が人生、秘密を持つにはあまりにも軽佻浮薄であります。

 さて、全てのやんごとなき雑事を無事に終え、本日より晴れて自由の身、これからの人生、一体なにに身を尽くせばよいのやら、しばし途方に暮れつつ、ヒンズースクワット未到の600回に挑戦。

03年09月06日(土)

 昼過ぎに起床。ここのところ、休日の朝は怠惰な目覚めとなっております。夕方まで自宅で読書。夜、鉄割の方々が非難罵倒すること間違いない映画、北野武の新作『座頭市』を観に行きました。

 ぼくには何人かの無条件の監督というものがいて、その人が撮った作品であれば、どのようなものであっても確実に感動してしまうのですが、北野武もそのような監督のひとりでして、今までの彼の作品で、感動しなかったものは一作もありません。前作『Dolls』のギャグと紙一重の過剰な演出と脚本ですら、無条件に感動してしまったほどですから。そういうわけで、『座頭市』に関しても観る前から感動することは分かっていたのですが、予想以上に面白かったです。エンターテイメント性が強いとは聞いておりましたが、まさかあそこまで徹底するとは思いませんでした。鉄割の方々がこの映画を非難罵倒することは想像に難くありませんが、というか確実なので出来れば誰にも観て欲しくないのですが誰が何といおうと絶対にもう一度観に行こう。

 それにしても、惜しむらくは北野映画が年を追うごとに技術的に上手になっていることで、『ソナチネ』以前の作品に特徴的だった、ひとつひとつのシーンにおける空間の扱い方が、『Hanabi』以降急激に変化しているのがとても残念です。そのような意味で、ぼくにとっても北野作品のピークは『ソナチネ』であり、あの映画があるが故に北野武の作品が無条件になっているわけですが、それ以降の作品が『ソナチネ』よりもつまらないのかと言えばそんなことはなくて、また異なる意味で素晴らしい作品だと思っています。

 この『座頭市』を観たからというわけではありませんが、最近「武士道」というものに興味があって、ぼくたちが「武士道」という道徳感を考えるとき、そこにどのような印象が発生するか、ぼくたちが「武士道」として認識している考え方は、果たして正しいものなのか、海外における「武士道」の捉えられ方(とくに映画や小説などにおける「武士道」の扱われ方)や、日本史上における「武士道」という概念の変遷過程、あるいは日本史上において、武士道という価値観・道徳観は、武士ではない民衆の間ではどのように考えられていたのか、そして一番知りたいのは、「武士道」という道徳観が、武士の間でどのように広まり、どのように実践されていたか、あるいはされていなかったのか、などなど。ぼくは武士道に関して蒙昧な知識しか持っておらず、現在の「武士道」の考え方が『葉隠』を基にしていること、海外での「武士道」は、新渡戸稲造の『武士道』を基にして広まったために、日本国内の武士道と若干の相違というか齟齬がある、ということを何かで読んだ程度です。『葉隠』と『武士道』に何が書かれているのかも知らないし、その他にどのような書物があるのかも知りません。なので、一から調べて勉強をしなくてはならないのですが。とにかく、『武士道』がどのように人々の精神に影響を与え、人々の状態を変化させたか。それを考えたい。

03年09月07日(日)

 奥秩父の二子山へ行ってきました。

 電車を乗り継いでバスに揺られて、三時間以上かけてようやく登山口に到着したと思ったら雨がふっておりまして、雨といっても小雨程度、霧雨に近いような状態だったので、とりあえず行けるところまで行って下山するつもりで登り始めました。登山客はぼくの他にはひとりもいません。それもそのはずです。業者が伐採作業をするために、通行止めで途中までしか行くことができないのです。うー、下調べを怠った罰です。仕方がないので、行ける所まで行きました。

 上級者向けと言われる東岳は、雨で岩がつるんつるんだったこともあり、頂上まで登ることは出来ませんでしたが、途中の展望が広がるところまではどうにか辿りつきました。霧が深くて展望はほとんど楽しめませんでしたが、奥深い山の端にひとりで佇んでいる自分を想像したら、まるで天平の頃の名も持たぬ山に鷹を追い熊を射て、前に歩かれることもなく、先に歩かれることもないような山の道をたどってようやく霞食う仙人の寝床にたどり着いた行者のようなこころもちになってしまい、気持ちだけは聖でも雨を遮る場所はなく、食事を楽しむことも休憩を取ることも儘ならず山のあちらこちらを何度も往復して、午後三時ぐらいに下山いたしました。バスが来るのは四時半、全身びしょぬれのまま、一時間半ほどうたた寝をしたら少々風邪を引いたようで、再び三時間かけて帰宅して、おしまい。

やま

 山に対しての気持ちが少し緩んでおります。身を引き締めて、次回の登山へ。

03年09月08日(月)

 ダニー・ボイル監督の『28日後...』を観ました。同監督の『トレイン・スポッティング』はあまり好きではないのですが、この映画はとても面白かったです。特に前半部、昏睡状態から目覚めた主人公が、ゴミや新聞や紙幣が散乱する無人のイギリスの町を徘徊するところとか、途中で出会った三人と一緒にタクシーでマンチェスターに向かう道程とか、たまらんものがありました。この映画、基本的にはジョージ・A・ロメロのゾンビ映画へのオマージュ的に作られているのですが、この映画で人を襲うのはゾンビではなくてウイルスに感染した人間(ほとんどゾンビなんだけど)であり、さらに後半は、ウイルスに感染してない人間同士の戦いへと展開していきます。映画のテーマとしては後半に重点が置かれているような気もしますが、個人的には前半が展開が最高で、このようなホラーという形式を借りたロード・ムービーを観てみたいなあなどと思いました。そういう映画ってあるのかしら。

 ところでこの映画(というかゾンビ映画一般に関して)、ウイルスに感染した人間の描写がいまいち曖昧で、血液一滴で感染、十秒後には発症、そんで目に付くすべての人間を殺したい衝動に襲われるらしいのですが、発症後の人間が最終的にどうなるのかはほとんど説明されていません。現実の人類にとってウイルスが脅威なのは、それが最終的に死をもたらすためですが、『28日後...』で人々がウイルスから逃れようとするのは、それが人間の(外見ではなく内面の)状態を変化させてしまうためです。しかし、ロメオの『ゾンビ』シリーズにも言えることですが、映画の中で、状態の変化した人間のその「状態」に言及することはほとんどありません。物語にとって、主人公は飽くまでも脅威から逃れようとして戦う人間であり、脅威としてのゾンビは脇役に過ぎないわけですから、そのような脇役の説明がほとんどされていないのは当然といえば当然かもしれませんが、作中、主人公たちはほぼ無条件的にウイルスに感染した人々(ゾンビ)を退治し、物語の視点はすべて状態の変化していない「こちら側」の倫理と論理と視点で描かれています。映画を観ていてふと思ったのですが、なぜ彼らは、自分たちの状態が変化することに対してそれほどまでに抵抗するのだろう。もちろん、ゾンビのような状態になりたい人などいるはずないということは頭では理解できるのですが、そもそも、現在のぼくたちの「状態」とは、一体どのような状態なのだろう。

 それで思い出したのが、藤子不二雄Fの『流血鬼』という短編です。リチャード・マチスンの『地球最後の男』をもとにして描かれたこの物語、舞台は新種のウイルス(ちなみにこのウイルスはマチスンウイルスといいます)が蔓延して、人類が滅亡寸前の世界です。そのウイルスに感染すると、人間の状態が変化し、人の血を求めて彷徨う、いわゆる吸血鬼になってしまいます。両親や友達など、町中の人間が次々と吸血鬼になっていくなか、主人公である少年は吸血鬼を殺しながら必死に逃げようとします。

 物語の中で、まだウイルスに感染していない少年(こちら側)と、吸血鬼になったしまったガールフレンド(向こう側)が対話をするシーンがあります。ウイルスに感染した人間を「吸血鬼」と呼ぶ少年に対し、ウイルスに感染した少女は、自分たちのことを「新人類」と呼びます。少女によれば、「新人類」は「旧人類」よりもあらゆる面において優れていて、彼のことを思うが故に「新人類」に、つまり彼にウイルスに感染してほしいと言うのです。もちろん少年は抵抗します。彼がこだわるのは、人間としての現在の自分の状態であり、それを変化させることに対しては無条件に拒否反応を示します。しかし最後には彼も、そのガールフレンドに首筋を噛まれてウイルスに感染してしまい、吸血鬼になってしまいます。

 物語の最後、あれほどまでに抵抗していた新人類へと生まれ変わった彼は、世界が一変していることに気付きます。彼はガールフレンドと外を散歩しながら、次のように叫びます。「気がつかなかった。赤い目や青白い肌の美しさに!気がつかなかった!夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」

 結局のところ、人間の状態なんてものは極めて相対的なもので、実際にその状態になってみないと分からないものだ、ということを言いたいのではなくて、別の状態に移行した人間は、その状態をどのように受け入れるのか、その時にどのようなことを感じるのか、それが知りたいわけでして。

 以前からそのような「人間の状態」というものに興味があって、肉体・精神を問わず、どのような状況がひとりの個性としての人間の状態を変化させてしまうのか、あるいはまた、そもそも人間の状態とはいったいなんなのか、そのようなことを考えることがあります。大抵のゾンビ映画では、とってつけたような原因を想定して、人間の状態が変化するきっかけとすることが多いようですが、人間の状態が変化するのは、なにもそのような極端なものでなくても、例えば人格という精神面に関して言えば、人間の状態などというものはほんの些細なきっかけ(状況)によって一変してしまうものです。それでは、現在のぼくの個性という状態は、果たしてどのような状況のもとに誕生したものなのか。そしてこの状態は、今後どのような状況において変化するのだろうか。なんてことを考えたり。

 ところで、話は少し飛躍しますが、ウィルスといえばついこの間まで世界中で大騒ぎとなっていたSARSがありますが、公式発表によると、8月7日までにSARSに感染した死亡した人の数は916人、一方、今年の八月にフランスの猛暑で亡くなった方の数は14000人を越えたと言われています。『28日後...』の続編では、ウィルスの脅威から開放された人類が、熱中症で滅亡するというお話はいかがでしょうか。

 夜、久しぶりに中華料理を食べに。映画を観る前にちょちょいとファーストフードなんかを食べてしまったのが悔やまれます。

03年09月09日(火)

 本日発見の面白いテキスト。ひとつは『蚊の妖精学』。「なぜ蚊は相手をかゆがらせないように進化しなかったのか」という素朴な疑問と、それに対する答え。納得いくような行かないような、でもとても興味深く読ませていただきました。

 もうひとつ、『進化論と創造論〜科学と疑似科学の違い〜』というサイト。聖書に記述されている世界創造を、科学的に証明しようとする「創造科学」が、どうして「疑似科学」であるのかを丁寧に説明しています。以前に、スコープス裁判について少しだけ書いたことがありますが、あの事件が起こった二十世紀前半であるならばいざ知らず、二十一世紀の現代においても、ダーウィンの進化論の是非はともかくとして、聖書の世界創造の記述が真実であると主張する人々が多く存在することに驚いてしまうのは、(事実上の)無宗教に生きる日本人であるからなのかしら。ぼくは宗教と科学は対立するものではなく、それぞれの役割において共存するものだと考えていますが、科学が様々な宗教の世界創造の物語を意図的ではないにせよ否定しているのは事実です。そのような科学の時代において、科学よりも遥かに長い歴史をもつ宗教に生きる人たちは、どのような折り合いをつけて生きているのか。全く役割の異なる科学と宗教を、強引に結びつけようとした例を、このサイトで読むことが出来ます。とにかく勉強になるサイトで、多少なりとも進化論や創造論に興味のある方には、一読の価値はあると思います。

 ついでに、ついWiredの記事も。

進化論教育をめぐってテキサス州の科学者や宗教家らが大激論

 ぼくは進化論よりも、ダーウンという人物の像と、彼の人生と、彼を取り巻く周りの人に興味があったりします。

03年09月10日(水)

 青に染まった夕方がとても良い感じで、バイクで友達の家に向う途中にカラスの鳴き声などを聞くと、一休宗純が大悟した瞬間を錯覚ながらも感じることができて、まるで自分がちょっとした人物であるかのように、ぼんやりと。

ゆうがた

 夜は学生の頃の先輩方とお祝いにお酒をしこたま飲んで、そのまま朝方までカラオケに。ぼくも含めて皆さんよいお歳なのに、気はまだまだ若者のようで、酒にふやけた老体が悲しくも歌いまくりまくり。

よっぱらい

 さて帰ろうとしたところ、べろんへろんはろんになった憲の字がトイレットに籠城。叩けど叫べど反応せず、反応したかと思ったらまたもや籠城、どうにか連れ出したは良いのですが、いつの間にこんなに飲んだのだこいつはという程の為体、是非とも演目で再現して欲しいものでございます。

03年09月11日(木)

 以前にも少しだけ触れたチャック・パラニュークの『インヴィジブル・モンスターズ 』という小説で、主人公である女性は、交通事故で顔の下半分を失ってしまいます。彼女が事故の後に始めて病院から出た時のことが、以下のように語られています。

 わたしが人々を見ると、見えるのは人々の後頭部だけだ。超ハイスピード振り返っても、見えるのは向こうを向きかけている人々の耳だけだ。そして人々は神と何やら小声で話をしている。
「驚いたな」人々は言う。「いまの人、みた?」
または、「あれ、お面だよね?いやはや、ハロウィーンにはちと早すぎないか」
 誰もが<フレンチズ・マスタード>や<ライス・ア・ローニ>のラベルを読むのに没頭している。  だからわたしは七面鳥を取る。
 理由はわからない。わたしは一セントも持っていない。それなのに七面鳥を取る。冷凍七面鳥の山をかき回す。冷凍庫に詰まった肉色の氷の塊をかき回す。一番大きな七面鳥が見つかるまでかき回し、黄色いビニールネットに包まれた七面鳥を、赤ん坊を抱き上げるみたいに抱き上げる。
 重い荷物を抱えて店の裏側に向かう。レジの真ん前を通る。誰も呼び止めない。誰もこっちを見ていない。隠された金塊でも探すみたいに、タブロイド紙を一心に読んでいる。
「Sejgfn di ofo utnbg」わたしは言う。「Nnei wucj iswisn sdnsud」
 誰もこっちを見ない。
「ふひはへん」わたしは精一杯の腹話術で言う。
 誰一人しゃべってもいない。たぶん、レジ係だけがしゃべっている。身分証明書を二種類見せていただけますか。小切手で支払おうとしている客にそう尋ねている。
「Fgjrn jufnv si vuv」わたしは言う。「Xidi cniwuw sis sacnc!」
 そのときだ。そのとき、一人の男の子が言う。「見て!」
 見ていない、しゃべっていない人々が息を殺す。
 男の子が言う。「見て、ママ。あそこ!あのモンスター、お店のものを盗もうとしている!」

 この小説はもちろんフィクションですが、ぼくはこれを読んでJacqueline Saburidoさんのことを思い出しました。飲酒運転追放のキャンペーン等で有名なので、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、1999年の終わり、Jacquelineさんは友人ふたりとドライブの途中、泥酔した十七歳の少年の運転する車に衝突され、全身に大やけどを負いました。友人二人は即死、Jacquelineは奇跡的に助かりました。けれども、彼女が意識を取り戻したとき、彼女は以前の彼女ではなくなっていました。

 以下のサイトで、事故に遭う以前と以後の彼女の写真を見ることができます。非常に衝撃的な写真ですが、飲酒運転の恐ろしさを知るためにも、懸命に戦っている彼女の姿を知るためにも、是非とも多くの人に見て欲しいと思います。でも本当に衝撃的なので、そのつもりで。

■Don't drink & drive

 以下のサイトでは、彼女の生い立ちから事故後の経過までを読むことができます。

■Jacqueline And Amadeo: CHASING HOPE

 この記事の冒頭は、次のように始まります。

どこにいても、子どもたちは見ようとする。振り返って、彼女を見ようとする。
叫び出す子供がいれば、母親に尋ねる子供もいる。付いてくる子供も、隠れてしまう子供もいる。
あるスーパーマーケットでは、男の子が寄ってきて、こう言った。
「化け物」
もっと最悪なのは、子どもたちが泣き出すことだ。
「わたしの心は、普通の人と同じように感じるの」ジャックリーン・サブリドは言う。

 ちなみに断っておきますが、『インヴィジブル・モンスターズ』が出版されたのはこの事件よりも前ですし、書かれたのはもっとずっと以前(パラニューク氏の処女作)なので、彼がこのJacquelineさんの事件を参考にしたということはありえません。事故でひどい外傷を負った、という点以外は特に共通点もないし。それはともかくとして、自らを飲酒運転の恐ろしさの象徴として世間に訴えかける彼女の勇気に敬意を表して、飲んだら乗るな、飲むなら乗るな。

03年09月12日(金)

 鈴木大拙師の『一禅者の思索』を読んでいたら、次のような文章がありました。

達磨さんの弟子に慧可といって、あの臂を断ったという有名な人がある。これを禅宗の第二祖とする。この人が達磨さんを尋ねた事柄は何であったかというと、安心をしたいというのだ。別に神や仏のご利益を受けたいとか、生活上に安楽を貪りたいとかいうのではなくて、その心の安らかならんことを願うた。安らかなことというのは、その心に畏れのないことだ。

 ああ、いいなあ。すごくいい。たしか大宰だと思いますが、一日のうちに十五分でも何の不安もない安心のできる時間があれば、それは幸せ日だ、というようなことを言っていたと思いますが(うろ覚えなので確信はありません)、慧可さんが臂を断ってまでも得たいと思ったのが、悟りではなくては安心であったということろが、すごくいい。

 ついでにもひとつ。

仏教は必ずしも神にすがらぬ。天地創造の神は、あったも、なくても、必ずしもその心を煩わさぬ、ひたすらに安心せんことを求める。ここに東洋の宗教的修養の目標が西洋のと違っていることを示している。東洋は内を見る、西洋は外に動く。動く者は、秩序と論理とに優る。見るものは、透徹と直観と円融とに秀ずる。

 すごい極論に読めなくもありませんが、兎も角も、ぼくには透徹も直観も円融もなく、ただこのように本を読んで無窮に幸せを感じることが、なによりも安心です。

03年09月13日(土)

 さて、そろそろ第三回鉄割山岳隊で登る山を決定しなくてはいけません。今回のメンバーは、前回の倍の六人です。ぼくとしては、全身の筋肉が痙攣して骨が砕け散るような登山をしてみたいのですが、今回は緩やかに山小屋でお酒と談笑を楽しみたいという隊員たちの希望もありまして、温泉もたくさんある八ケ岳なんかがよろしいのではないかと思っております。

 そんでヤマケイJOYなんかを参考にして登山計画を立てて見ました。っていうか、今号のヤマケイJOYがちょうど八ケ岳特集だったので、そのままプランをいただきました。

午前三時、集合。
調布ICから中央自動車道に乗り、諏訪ICで降りて(5050円)、美濃戸口へ。

一日目(5時間20分)
美濃戸口 --(1:00)-- 美濃戸山荘 --(2:00)-- 赤岳鉱泉 --(2:00)-- 硫黄岳(2760)--(0:20)-- 硫黄岳山荘

硫黄岳山荘で一泊(8500円)

二日目(7時間)
黄岳山荘 --(0:30)-- 横岳(2829) --(0:50)-- 赤岳展望荘 --(1:50)-- 赤岳(2899) --(0:40)-- 阿弥陀岳(2805) --(0:20)-- 行者小屋--(0:30)-- 赤岳鉱泉 --(1:30)-- 美濃戸山荘 --(0:50)--美濃戸口

諏訪ICから帰宅(5050円)

高速代とガソリン代は頭割り(ひとり2500円から3500円)
山小屋は7500円(二食付)

 行き、帰りともに時間は余裕を持って計算していますので、実際にはもう少し早く行けると思います。二日目は、体調が優れない人は、来た道を逆戻りして赤岳鉱泉で待機していてもらって、行ける人(大根田・戌井など)だけで赤岳と阿弥陀岳を経由して赤岳鉱泉に戻ろうと思います。実際のところ、横岳から阿弥陀岳にかけては上級者コースに指定されることも少なくなく、鎖場なども多く、結構な難所らしいのですが、もちろんそんなことは隊員の奴らには伝えません。馬鹿だから、こっちこっちと言っておけば付いてきますから。せっかく八ケ岳に行くのですから、赤岳は登りたいし。もしも全員で行ける場合は、赤岳鉱泉には戻らないで、行者小屋からそのまま美濃戸荘へ戻ろうと思います(1:40)。

 それにしても、隊員の野郎どもはきちんとトレーニングをしているのか、非常に不安です。山をなめていると、山に殺されます。今からでも遅くないので、スクワット一日120回と昇降運動30分を膝を痛めない程度にやっておいてください。

03年09月14日(日)

 スパイク・リーの『ゲット・オン・ザ・バス』を観ました。めちゃおもしろかった。鉄割の誰だかが、スパイク・リーの映画でつまらない作品を観たことがないとおっしゃっていましたが、まったくもって同感です。そんな彼の作品の中でも、個人的に1,2を争うぐらいおもしろかった。

 物語は単純で、「百万人の大行進」に参加する黒人たちが乗り込んだバスが舞台のロード・ムービー。バスに乗り込んだ乗客たちは、見事なぐらいに多種多様、手錠でつながれた親子や、別れ話真っ最中のゲイカップル、やたらと政府の陰謀説を主張するもの、他人に対して非常に差別的なものなどなど。皆それぞれに参加した背景が異なり、ほとんど絶え間なく口論を繰り返すのですが、時には一緒に歌を歌ったり踊ったりと、黒人としてのアイデンティティを共有していることがわかる場面も多く登場します。

 映画を観ていて思ったのですが、アフリカ系アメリカ人の世代の間に、断絶というものはあるのでしょうか。白人にとっての世代の断絶、いわゆるジェネレーション・ギャップというものは、例えば二十年代の「失われた世代」や、八十年代の「ジェネレーションX」などという造語からも理解することができるのですが、アフリカ系アメリカ人におけるそのような世代の断絶を表現する言葉をぼくは知りません。同じスパイク・リーの『ラストゲーム』は、父親と息子の親子の葛藤を描いた作品ですが、そこでも描かれているのは、父親を許すことのできない息子と、その息子に自分の釈放のチャンスを握られている父親という、あくまでも「親子の葛藤」であり、父親と息子の間の、お互いの理解を越えた断絶ではありません。

 うーん、具体的な例が思いつかないので話が曖昧になってしまいますが、彼らの間に世代の断絶を感じることがないのは、彼らの背負っている過去によるものなのかな、と思いました。例えば、マニング・マラブルは次のように述べています。

 アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている。それはアフリカ系アメリカ人の伝統、儀式、価値、信仰体系でもある。われわれの文化、歴史、文学、われわれの人種意識と、人種差別にたいする抵抗の遺産にたいする誇りなのである。

 「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている」は、「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは世代をはるかに越えている」と読み変えても、不都合はないように思います。とはいえ、彼らの間に(いわゆるジェネレーションX的な)世代の断絶がないのではないか、というのはあくまでもぼくの印象なので、実際のところどうなのかはわかりませんが。

 兎に角も、『ゲット・オン・ザ・バス』は最高に面白い映画でした。個人的には『マルコムX』よりも面白かった。

公民権運動がにたらしたものはふたつ
黒人のわずかな権利と
白人が恩着せがましく語る権利だ
03年09月15日(月)

 ポップコーンとジンジャーエールのない映画鑑賞なんて、めがねのない勉像君のようなものです。本日も、ほとんど客の入っていない近所の映画館で、ポップコーンとジンジャーエールの超特大サイズを注文しておでぶコースまっしぐら、がつがつぐびぐびしながら、アル・パチーノ主演・アンドリュー・ニコル監督の話題のCG美女映画『S1MONE シモーヌ』を観ました。じぇんじぇん期待していなかったのですが、面白かった。

 この種の映画に「ありえなーい、にゃにゃにゃにゃーい」などと突っ込みを入れるような無粋な人間にはなりたくないものです。中途半端に下調べをして、専門家でもそれなりに納得できるように作られた映画でも、うんこみたいなものが多いし、逆にこれぐらい開き直られると、重箱の隅をつつく気にもなれずに映画に集中することができます。なんと言っても映画の目的は、物語と現実の世界の常識を符合させることではないのですから。

 個人的に一番面白かったのは、劇中で上映されるタランスキー(アル・パチーノ)の映画で、これだけは声を出して笑ってしまいました。はは。

03年09月16日(火)

 いつものように帰宅しようとしたところ、電車が止まっておりました。駅の構内に人が溢れ、駅員さんはなぜか嬉しそうに「復旧の見込みはたっておりませ〜ん」と叫んでいて、こういうときに必ず現れる駅員さんにくってかかるおやじなんかもいて、ほとんどお祭り状態でした。なんでも、線路が閉まったのでトラックの運転手さんが車を止めてジュースを買いにいったところ、トラックが動き出して線路に入ってしまい、電車と接触したとのこと。別の電車で遠回りして帰るのも面倒なので、『座頭市』をもう一度観て時間潰し。

 それにしても予想に違わず見事なぐらい賛否両論のこの北野版『座頭市』ですが、賛はともかくとして否で納得がいかないのが、勝新太郎の『座頭市』と比べてあーだこーだという輩で、「この市とあの市とが同じ名前であることなど、ほんの偶然にすぎない(蓮實重彦)」のですから、映画がつまらないと思うのは個人の趣味の問題ですから仕方がありませんが、無意味な比較は的外れの批判にしかなりません。さらに、ここ数作の北野映画に登場するジャポニスムに関して、海外への賞狙いを意図しているという批判もありますが、たとえそうだとしてもそれの何がいけないのかよく分からないし、作品としてジャポニスムが成立していないのならばそのように批判すればよいわけで、要するに作品としての評価ではなく、感情的な評価が多すぎる。だったらもっと単純に面白い、つまらないで評したほうがよほど的確な評であるように思います。

 それで二度観た感想ですが、自分で他の作品との比較は意味がないと書いておきながらなんですが、先日『あの夏、いちばん静かな海』を観賞しまして、オープニングから例の北野映画独特の静謐なシーンに感動し、『座頭市』のあまりにも映画的に流暢なオープニングを観ていたら、もう二度と『ソナチネ』のような映画は観れないのかなあと悲しくなりました。それでももう一度ぐらい観てしまいそうです、この北野版『座頭市』。

 夜の九時を過ぎても一向に電車が復旧する見込みはたたず、仕方がないのでいつもであれば十五分のところを一時間かけて遠回りをして帰宅。ぐったり。

03年09月17日(水)

神様でも降臨するのかと思うほどきれいな夕方に、いつもより少し長く散歩をして、どうしてぼくはおっぱいを揉みたいのだろう、ということをゆっくりと考えました。

夕方

03年09月18日(木)

 半年以上ぶりに、長島さん南辻君とお酒を飲みに所沢へ。なぜか戌井さんと中島君と弟君としか話をせず、飲み会では席というものが重要であることを改めて実感致しました。

 帰宅して、部屋を真っ暗にして昇降運動をしながらロメロの『ゾンビ』を観ました。昔、まだ子供の頃に観たときの記憶がどんどんと蘇ってきて、ホラー映画の面白さを再確認。酔っ払いがまだ残っていて、昇降するたびにふらふらになりながら。

03年09月19日(金)

 昭の字と本屋で登山の本を立ち読みしていたところ、十月上旬のあまりにも美しく紅葉に輝く穂高の涸沢あたりの写真に心を奪われてしまい、八つではなくてはこちらの方に行きたくなってしまいました。それでちょっとプランを変更してみました。

ちょっぴりハード、わたくしのおすすめコース

午前二時、集合。
調布ICから中央自動車道に乗り、松本ICで降りて(4950円)、国道158号線を新島々〜沢渡へ。
沢渡駐車場に車を止める(一泊1000円)。
沢渡から上高地へは、バスまたはタクシーを利用する。
バスの場合、往復でひとり2000円、タクシーだと片道5000円ぐらいなので、タクシーで行ってしまったほうが良いかも。
詳しくはこちらをごらんください。

一日目(7時間45分)
上高地バスターミナル(1505m) --(0:45)-- 明神(1530m) --(1:00)-- 徳沢(1620m) --(0:50)-- 横尾(1620m)--(1:10)-- 本谷橋(1786m) --(1:30)-- 涸沢(2309m) --(2:30)-- 穂高岳山荘(2983m)

穂高岳山荘で一泊(8800円)

二日目(6時間30分)
穂高岳山荘(2983m) --(0:45)-- 奥穂高岳(3190m) --(1:30)-- 紀美子平(2910m) --(0:20)-- 前穂高岳(3090m) --(0:15)-- 紀美子平(2910m) --(2:10)-- 岳沢ヒュッテ(2170m)--(1:30)-- 上高地バスターミナル 上高地バスターミナルから沢渡へ。 松本ICから帰宅(4950円)

高速代とガソリン代は頭割り(ひとり2500円から3500円)
山小屋は8800円(二食付)


軟弱男のへなへな堕落コース(駄目男用)

上高地までは一緒です。

一日目(5時間15分)
上高地バスターミナル(1505m) --(0:45)-- 明神(1530m) --(1:00)-- 徳沢(1620m) --(0:50)-- 横尾(1620m)--(1:10)-- 本谷橋(1786m) --(1:30)-- 涸沢(2309m)

涸沢ヒュッテ、あるいは涸沢小屋で一泊(8500円)

二日目(4時間30分)
涸沢(2309m) --(1:00)-- 本谷橋(1786m) --(0:40)-- 横尾(1620m) --(0:50)-- 徳沢(1620m) --(1:10)-- 明神(1530m) --(0:50)-- 上高地バスターミナル

 奥穂高の目の前まで行って、登らずに下山するのはなんとなくもったいない気もしますが、とりあえず涸沢まで行って、そこで状態を考慮して奥穂高まで行くかどうかを考えても良いと思います。まあでも、奥穂高まで勢いをつけて登ってしまえば、勢いがそのまま鉄割が売れることにつながるかもしれないですけど。

 八つにするか穂にするか、山岳隊の皆様、いかがでしょうか。

03年09月20日(土)

 今月に入ってから、ずーっと泉の鏡花さんを読んでいるのですが、ちくま版『泉鏡花集成』は大変すばらしい集成ではあるものの、かゆいところに手が届かないと申しますか、どうしても読みたいと思っている作品が収録されておらず、本当に読みたい作品はやはり図書館などに行って全集をあたるしかないのかしら、と思っていたら、岩波から新しく『新編 泉鏡花集』が出るそうで、紹介文などを読むと「鏡花の全作品から短篇を中心に選び,その舞台となった土地別に構成する」と嬉しいことが書いてありまして、収録されている作品は微妙な感じでだぶっていたりだぶっていなかったり、何れにしても一冊5600円は気でも狂わない限り購入することは出来ません、やはり図書館へ行くからあるいは岩波版『鏡花全集』がバラで古本屋に眠っているのを地道に探すことになりそうです。

 岩波のサイトを見ていたら、「山の旅  明治・大正篇」という新刊を発見。うおーおもしろそう!買わなくちゃ。

 今夜は、破戒僧となって天生峠を越える夢をみたく思います。

03年09月21日(日)

 なにやらスタジオで撮影を致しました。その後に、昭の字の宅で先日の新潟公演のビデオや、昔の鉄割のビデオなどを拝見。まるで遠い過去のよう。

 帰宅して、夜に昇降運動をしながら『チル CHILL 』を観ました。休暇に訪れた田舎の別荘で、幸せな家族が地元の人間にひどい目に会うという『ファニーゲーム』のような映画かと思っていたら、全然違いました。カナダ原住民の間に伝わるウェンディゴの霊魂と、他人には見えないものが見えてしまう少年、そして両親とその両親に屈折した思いを抱く地元の猟師がそれぞれに絡み合って物語は進行して行くのですが、意外なラストにおったまげました。ええ、これで終わりい?みたいな。でも、このような肩透かしでカタルシス完全無視の燃焼不良映画って、ぼくは結構好きです。

 この映画の原題でもある「ウェンディゴ(Wendigo)」の言い伝えというものをまったく知らなかったので、調べてみました。

■ウェンディゴ憑き(WINDIGO PSYCHOSIS)——狂気の一形態——

 『チル』では、ウェンディゴはひとつの存在として語られていましたが、上のサイトによるとウェンディゴ憑きというものがあるらしく、ウェンディゴに取りつかれた者は、最終的には人としての理性を失い、人肉を欲しがるそうです。

罹った人物は当初は単に気持ちが塞いでいるだけのように見えるのだが、やがて常軌を逸し通常の食事を拒むようになる。患者は人肉(特に自分の家族の)を食べることで頭が一杯になり、自分の周りの家族たちが動物に見えるような幻覚さえ引き起こす場合もあるという。その後、言語能力も失われ、外見も気にしなくなり、自分の指や唇を噛んだりすることさえある。また、野生的な気分変動(訳注:躁鬱病などに主に見られるもの)を経験し、自分の内臓は凍り付いていると主張する者さえいる。

 たんなるシャブ中のように読めなくもないですが、人肉を食べたがるという点が気になります。これらのウェンディゴ憑きに関する民俗学的な成立経緯を調べたいなあ。カナディアン・インディアンの伝統に、カニバリズム的な儀式でもあるのかしら。

03年09月22日(月)

 今月号のMacPowerに掲載されていた『ShadowBane』の記事を読んでいたら、無性にMMORPGがやりたくなり、ネットカフェに行って歴史のあるMMORPG『リネージュ』をプレイしたところ、見事にはまりました。あっというまに五時間が過ぎ、六時間が過ぎ。

 幸いに『リネージュ』はMacintosh版がないため、プレイするにはネットカフェかまんが喫茶に行かねばならず、これなら年始のようにゲームにはまる心配もあるまいと安心していたのですが、自宅に帰ってネットで検索したら、Macintosh版がありやがりまして、ううむとうなりながら早速ダウンロード、日本でプレイするには若干の作業が必要ですので、それらの作業を行って起動いたしました。

 幸いにぼくが使用しているのは、五年前のG3の350Mhzという遅いマシンですから、まあ動作が重たくてゲームにならないだろう、これなら年始のようにゲームにはまる心配もあるまいと安心していたのですが、起動してみたらこれがプレイになんの支障もない程にさくさくと動きやがりまして。とはいえ不具合がないわけではなく、MacOS Xのバージョン1.2でプレイをすると、他のユーザとのチャットができないのです。

 まあしかし、もともと人見知りのぼくは、ネット上で他人とコミュニケーションを取るのがひどく苦手なので、この不具合はむしろ好都合、いけるところまでひとりでいってみようと思います。そんならMMORPGなんてやらないで、普通のRPGをやれと思われるかもしれませんが、興味があるのはMMORPGの世界なので、まあ、ゆっくりと慣れつつ。

03年09月23日(火)

 何の予定もない休日。朝起きて、巨峰を食べて野菜ジュースを飲んで、ストレッチをして少しだけマラソンをして、シャワーを浴びながら歌を歌って、大量の本をバックに詰め込んで家を出て、途中に本屋さんで本を買って、カフェに行って席を占拠してこの後、閉店の時間まで読書、読書、読書、チャパタ食べて、読書、読書、読書、うんこしてまた読書、読書、読書、帰りにビデオレンタルでビデオを借りて、夕食は少し離れたレストランでパスタを食べて、帰宅して部屋の掃除をしてメールして電話して、ストレッチしてスクラッチして腹筋して腕立て伏せしてスクワットして腹筋して腕立て伏せしてスクワットして腹筋して腕立て伏せしてスクワットして、ビデオを見ながら昇降運動、一時間ばかりゲームをして、寝る前に読書、耳栓をして冷やしたアイマスクをして、おやすみなさい、本日も良い夢が見れますように。と思ったら珍しく眠れなくて仕方がないから読書して、読書して、読書して、耳栓をして冷やしたアイマスクをして、おやすみなさい、本日も良い夢が見れますように。

03年09月24日(水)

 本屋さんを徘徊していたら、野矢茂樹氏訳のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が出ているのを発見。とうとう待ちに待った野矢版『論考』の登場です。この『論考』は、別の訳(中公クラシックスと、法政大学出版のもの)でも読んでいるのですが、野矢茂樹訳となれば読まないわけにはいかないでしょう。

 この野矢茂樹という方、今ぼくの中で一番に気になる学者さんで、著作の中ではおそらく『論理トレーニング 』が一番有名だと思いますが、その他にも多くの優れた著作を発表しています。たとえば自身の哲学書であれば『同一性・変化・時間』とか『心と他者』、またあるいは講談社新書から『哲学の謎』や『無限論の教室』などの哲学入門書とか、論理学の入門書である『論理学』とか。そのいずれもが、読むと目からうろこが落ちまくりですのよ。

 その中でも、誰にでも自信を思ってお勧めできるのが『哲学の謎』で、「哲学を学ぶということは、哲学史を学ぶということ」と、たしか竹田青嗣氏だか誰だかが言っていたと思うのですが、それはある意味においては確かにその通りで、だから哲学入門書の大抵は、哲学の歴史やいにしえびとの思想をやさしく解説しようとします。けれども、この野矢氏の『哲学の謎』は、そのような哲学史的なことにはほとんど言及せず、(言及したとしても軽く「だれだれはこのように言っていた」程度)登場するふたりの人物がお互いに疑問をぶつけあって、その疑問に対して思索を重ねていくという形式で書かれています。

 例えば第一章は『意識・実在・他者』。夕焼けは赤い。夕焼けが赤いのは、人間(やその他の動物)の網膜が光に反応した結果であり、それを赤いと受け取る側が存在するからである。それでは、地球上からすべての生物が絶滅した後、すなわち夕焼けを赤として見るすべての存在が消滅した後も、夕焼けは赤いのだろうか。第二章は『記憶と過去』。世界が五分前に創られたという可能性について。実は世界は、五分前にあなたの過去の記憶と共に誕生した。過去の記憶も同時に創られたわけだから、あなたは過去を経験していると思っている。この可能性を反駁できるだろうか?ふたりの会話は、答えらしい答えがでないまま、疑問が疑問を呼び、どんどんと続いていきます。

 要するにこの本は、哲学を学ぶのではなく、「哲学をする」ことを学ぶための本です。哲学をするというのは、日常に生じたふとした疑問について考えることです。重要なのは、その疑問に対する答えを見つけ出すことではなく、疑問について考えるというプロセスです。『哲学の謎』は、そのような思考のプロセスを、ふたりの語り手によって再現し、ぼくたちに「哲学をする」ということを教えてくれるのです。このふたりの関係は、『ソフィーの世界』のような教師と先生の関係ではなく、あくまでも対等な友人同士であり、共に疑問に対する答えを知っているわけでもなく、会話の中で答えを見つけ出そうとしますが、結局ほとんどの問題に答えは見つかりません。けれども、答えの出ないふたりの会話を読み終えた後も、読者の側での思考のプロセスは継続します。

 哲学史的なアプローチから、古人がどのような哲学を行ってきたのかを知ることも重要だと思いますが、それに先立って自身が哲学をすることを忘れていては意味がありません。他人の思想を理解しようとすることも重要だと思いますが、それに先立って自身が哲学をすることを忘れていては意味がありません。自分自身に言い聞かせて、精進精進。

03年09月25日(木)

 今日も夕方が素敵です。

 来週の登山に向けて、今回初参加となる弟君の登山靴を買いに新宿へ。昭の字と三人でアウトドアショップを徘徊、ストックなどをいじり回していたところ、偶然にしまりささんにお会いして、なんとも奇妙な四人で焼き鳥を食べながらお酒を飲み。

 いろいろと検討した結果、今回は八つではなくて穂高を登ることに。八つはまた来年にでも。

 辛いことも悲しいことも、時が経つとその苦しさを忘れてしまうように、登山の苦しさも、下山すると忘れてしまうものです。そういうわけで、ぼくも昭の字もストックを買いませんでした。なぜなら、そんなものなくても余裕のよっちゃんと思っているからです。そして、その思い込みが間違いであることに、ぼくたちは来週の週末に気付くことになるのです。


03年09月26日(金)

 本を買うのが好きなので、少しでも読指が動けばすぐに買ってしまいます、けれども、読みません。読まないでどうするのかといえば、棚にしまいます。棚にしまうと、大抵の場合そのまま忘れてしまい、本屋に行ってまた買ってしまいます。そういうわけで我が家には同じ本が二冊も三冊も四冊もあります。良くありません。お金の無駄ということもありますが、それよりも本を読まないということが良くありません。既に読んだ本を間違えて買ってしまうのであれば、まあ面白いから仕方がないと諦めも付きますが、読んでいない本を二冊も三冊も買ってしまうと、万が一それがつまらないものだと、お金と時間の無駄ということになってしまいます。ですから、買った本をとにかく読もうと、未読の本を一ヶ所に集め、新しい本を買ったときはそこに積み上げ、読み終えたものだけを棚へしまうことにしました。ところが、これがまた良くない、積み上げるとそれらの本をすべて読んだかのように錯覚してしまい、まるで自分が読書家であるような、快い気持ちになってしまうのです。積み上げれば積み上げるほど、嬉しくなります。そういえば数年前、まだ学生の頃にも同様のことを試みて失敗したことがありました。その時も購入した本を積み上げて、それを読み終えるまで次の本を買わないなどと決心したものの、積み上げた本が嬉しいだけで一向に読むこともなく、ただ単に積み上げたいという理由だけで無用の本を買ったりして、結局、それらの本はほとんど読まずに棚へしまい込み、引っ越しの際に二束三文で古書屋さんへ売り払ってしまいました。数年経って、また同じことをして同じ失敗をするのでしょうから、成長しないこと甚だしい、おそらく数年後にも同様のことを思いついて、同じ失敗をして、死ぬまでそれを繰り返すのでしょう。良くありません。本当に、良くありません。


03年09月27日(土)

 おともだちを呼び出して、たまには良いところでお食事を、なんてことを思っていたのですが、良いところではえろい話を大きな声ではできませんから結局、手ごろな居酒屋で日本酒に舌鼓。

 帰宅後、ジャン=ユーグ・アングラード主演『裏窓の女−甘い嘘−』を観ました。お久しぶりのフランス映画。夫は小説家、妻は花屋さん、パリで古いアパルトマンに暮らすふたりは、見知らぬ男性の遺言により、突然にアパルトマンの前に建つ大豪邸を相続します。ただし遺言状には、故人が生前より雇っていたメイドを、本人が希望する限り雇い続けること、という条件がついています。戸惑いながらも引っ越しをするふたり。そこで待っていたのは、不気味なメイド。そしてふたりはこの豪邸で・・・という物語です。もう、最高に良い映画でした。こういう映画、大好き。久しぶりに二度続けて観てしまいました。奥さんの愛の行為は納得できないけれど、まあ、愛の形は人それぞれですから。

03年09月28日(日)

 とんでもなく天気の良い朝。この天気、来週の登山の日まで取っておいて欲しかった。来週も晴れますように。

 アンナ・パキン主演の映画『ダークネス』を観ました。アメリカからスペインへ越してきた家族が、新しい家に宿る「暗やみ(ダークネス)」に襲われるというホラー映画。「40年に一度の皆既月食。7人の子供の失踪事件。円形の家。すべてが闇に包まれるとき、記憶を失った少年の40年の空白が、息を始める・・・」。ジャウマ・パラゲロ監督がこの映画に先立って撮った、二分間の宣伝用のプロモーション・ビデオは素晴らしく恰好良くて怖いのに、肝心の本編はその怖さが半減していて、それは多分、恐怖を意味付けしようとして用意した要素(ウロボロス信仰など)が、蛇足的な役割しか果たしていないせいではないかしら。ホラー映画のストーリーに余計な根拠なんかいりません。この映画も、「暗やみの恐ろしさ」だけを追及して欲しかったなあ。でも、アンナ・パキンは大好き。

03年09月29日(月)

 知人の会社にお手伝いに行って、とんかつ御膳をごちそうになり、午後には昭の字と烏山から成城学園を経由して芦花公園までマラソンをして、公園で降りたり昇ったり膝を曲げたりいろいろと運動をしていたら夕方になり、風神亭でビールを飲みながら山談義、落としたカロリーのすべて取り戻して、帰路にアイスクリームを買っていたら勉の字がとぼとぼとと、折角ですからとカモシダのビルでレゲエの話なんかを伺ったものの、何を言っているのかさっぱり分からず、分かった振りをして頷いておりました。

 帰宅後、『殺人マニア宣言』に収録されているピーター・ジャクソンの初期の頃のインタビュー(『乙女の祈り』に関するもの)を読んでいたら、無性に『ブレインデッド』が観たくなったのでビデオレンタルで借りてきて観ました。今でこそ『ロード・オブ・ザ・リング』の大御所監督でありますが、1992年に発表された『ブレインデッド』は『ロード・オブ・ザ・リング』の千倍ぐらいおもしろいのです。いわゆるゾンビ映画なのですが、最初から最後まで笑いっ放し。主人公はマザコンの頼りない青年で、彼のお母さんがゾンビになって、助けに来た看護婦さんがゾンビになって、顔見知りの神父さんがゾンビになって、からんできたパンキッシュな若者がゾンビになって、ゾンビになった看護婦さんと神父さんはところ構わずセックスをして、ゾンビ子供が出来て、ゾンビを隠していた家に大勢が押しかけてパーティーをして全員がゾンビになって、仕方がないから芝刈り機で全員を切り刻むというお話。十年ぶりぐらいに観たけれど、やっぱり最高のスプラッター・コメディでした。

03年09月30日(火)

 九月最後の日、むにゃむにゃと寝ぼけ眼でテレビを見ていたら、日本の企業が慰安旅行で行った先の中国で、数百人規模の集団買春を行ったとして中国政府から抗議を受けているというニュースが流れていました。

■日本人による集団買春、中国当局が捜査開始

 ううむ、ひどい話だなあ、でもこれ本当かしら、そりゃそれだけ大勢で旅行に行けば、そんなことをする人も何人かはいると思いますが、いくら何でも数百人はないのではないかしら、などと思っていると、テレビのコメンテーターが「残念ですが、本当だと思います。こういうホテルぐるみで、日本の男性に売春を斡旋しているという事実は昔からありますから」などと言っています。アジアの諸国で体を売る女性が大勢いることは知っているし、ぼくも旅行先で声をかけられたことは何度もあるし、確かにそのような事実があることは否定しませんが、ここで問題になっているのは、買春が数百人という集団で行われたということで、これがもし、ひとりやふたりだったらニュースになるようなことは絶対になかったはずです。それをあっさりと、なんの裏付けも無く、単にアジアでの売春・買春が日常的であるという理由だけで、数百人による買春という信じがたい話を「残念ですが、本当だと思います」などと言ってしまうこのコメンテーターは、自分が何を言っているのかを分かっているのかしら。ぼくのまわりにもこういう人はいますけれど、まるで彼は、この事件がどうしても事実でなくてはならないような、そのような印象を受けてしまいます。

 おそらく今後、ろくに調査もせずに印象だけで物事を判断しようとするおばかちんこたちの活躍によって、この事件の真相がいかなるものであれ、集団買春が行われたことは事実であるという認識だけが世間には残ることになるでしょう。様々な意味でいろいろな問題を含んだ事件でありますから、出来ればどこかのメディアに詳しくレポートを続けて欲しいものです。償うべき罪は償い、はらすべき汚名ははらさなくては。

 ちなみに、こんな記事も。

■中国での集団買春を否定 ホテル宿泊の建設会社


Sub Content

雑記書手紹介

大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

最近の日記

過去の日記

鉄割アルバトロスケットへの問い合わせはこちらのフォームからお願いします

Latest Update

  • 更新はありません

お知らせ

主催の戌井昭人がこれまで発表してきた作品が単行本で出版されました。

About The Site

このサイトは、Firefox3とIE7以上で確認しています。
このサイトと鉄割アルバトロスケットに関するお問い合わせは、お問い合わせフォームまでお願いします。
現在、リニューアル作業中のため、見苦しい点とか不具合等あると思います。大目にみてください。

User Login

Links