02年09月04日(水)

 渋谷にある素敵な創作和食料理屋さんで、お友達のお誕生日会を行いました。

 素敵なお友達のお友達はやはり素敵な方々で、とても素敵な面子でのお食事会となり、素敵の中で浮き足立ったぼくは、お下品な話題は控えめに、ガブガブとお酒を胃の中に流し込み、しこたま酔っぱらっちまいました。それでも気分は悪くならず、なんだぼくはまだまだ若いんじゃん、まだまだ全然いけるじゃん、と調子に乗り、良い気分でカラオケなどを歌い、真夜中に帰宅しました。

 しかし、年というものは誤魔化せないものでして、翌日、気がつくといつの間にか目を覚まして天井を見つめておりました。ぼくは一体いつの間に目を覚ましたのだろう。手を動かそうとしても、足を動かそうとしても、思うように動いてくれません。そのままの状態でしばらく天井を見つめ、ようやく体が微妙に動き出した頃にのそりと起きだし、洗面所に向かいました。そして、洗面所の鏡の前に立って驚愕しました。

 鏡の中から、五十代とおぼしき七三の初老の男性が僕をじっと見つめていたのです。

 よく見ると、それは鏡に映った自分自身でした。お酒を飲んだ翌日というのは、寝起きの顔がひどいものになりがちですが、それにしてもこれはひどすぎる。ああ、ぼくも年を取ったなあ、とつくづく実感いたしました。

 そんなことを考えながら顔を洗い、歯を磨いていると、ふと吉田健一の『鬢絲』というエッセイを思い出しました。吉田さんはこんなふうにエッセイを書きだします。

この間、髭を剃っている時に鏡を眺めて、自分も本式に年を取って来たと思った。髪に白髪が混じっていて、その上に二日酔いの朝だったので皮膚から光沢がなくなり、皺も深く刻み込まれて、来年は五十になる人間そのままの顔がそこにあった。年を取るのに、随分掛かったものだという気がする。

 エッセイの中で吉田さんは「若い時にうかうかしていると直ぐに年を取ってしまうという種類のお説教も、全く無意味なものに思われた。こっちが早く一人前になろうとあくせくしている際に、何が若いうちが花で、なにがうかうかなのか」と若き日の焦燥を振り返ります。吉田さんのような方でも、五十を前にするまで年を取ったという実感を得ることが出来なかったということを考えると、無為な日々に焦燥も感じることも少ないぼくのような若輩者が、二日酔いの顔を見て年をとったと感じるのはちゃんちゃらおかしい、非常におこがましいことにように思えます。

時間は少しづつしかたって行かなくて、自分がしたいような仕事は大して出来ず、或は、偶に出来ることがあっても、それがすんでしまえばもう別にどうということはなくて、これはもどかしいなどと形容することですむものではなかった。不思議に、今死んでしまったらどうだろうとは考えなかったのを覚えている。いつまでも生きていることになっているようで、それがそう思っていた当時と同じぎくしゃくした月日が無限に未来に向って続いていることを意味したから、その点だけでもうんざりだった。

 仕事が出来ずとも大してもどかしさを感じない自分が悲しくなります。精神が成長せずとも、それでも時とともに肉体だけは相応に年をとっていくわけですから。「成長」という言葉は、ぼくにはとても重たく、辛い言葉なのです。果たしてぼくは、五十を前にして、鏡の前で如何に自分の青年期を思うのだろう。

よしだっち

しかしダンディーだな、このおじさん。


Sub Content

雑記書手紹介

大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

最近の日記

過去の日記

鉄割アルバトロスケットへの問い合わせはこちらのフォームからお願いします

Latest Update

  • 更新はありません

お知らせ

主催の戌井昭人がこれまで発表してきた作品が単行本で出版されました。

About The Site

このサイトは、Firefox3とIE7以上で確認しています。
このサイトと鉄割アルバトロスケットに関するお問い合わせは、お問い合わせフォームまでお願いします。
現在、リニューアル作業中のため、見苦しい点とか不具合等あると思います。大目にみてください。

User Login

Links