文は拙を以て進み、道は拙を以て成る。一の節の字、無限の意味あり。桃源に犬吠え、桑間に鶏鳴くが如きは、何等の淳廊ぞ。寒潭の月、古木の鴉に至っては、工巧の中に、便ち衰颯の気象あるを覚ゆ。菜根譚より
朝六時、バンコク到着。クーラーが効きすぎで、体がだるい。腹痛も続いている。うー、参った。駅を出て、カオサンロードまで歩こうかと思っていたが、さすがに無理っぽいのでトゥクトゥクに乗る。カオサン到着。いつものゲストハウスにチェックインする。そのまま、寝る。
十一時すぎに起床。腹がビックバン。足が靴擦れでぐちゃぐちゃ。さすがに動く気になれず、ベットに寝たまましばらく読書。昼過ぎ、腹痛が少し治まってきたので、町へ出る。最初にサンダルを買う。100バーツ。めちゃくちゃ履き心地が良い。これなら、歩ける。歩くか。けど腹が。
マッサージ屋に入り、一時間半マッサージをしてもらう。気持ち良すぎる。途中でうんこをもらしたらどうしましょう、と心配だったが、無事に終了。一時間半で200バーツ。
コーヒーの飲めるインド料理屋に入って、インド料理を頼まずにカフェラテとチーズのサンドウィッチを注文する。カフェラテを飲みながら、しばし読書。まるで日本にいるみたい。
腹痛が全然治まらない。腹を押さえながら、散歩をする。サナーム・ルアンのほうにやたらと人が集まっている。なんだろうと思って行ってみると、ライブのような歓声と音楽が聞えてくる。近くにいた人に聞くと、野外コンサートのようなものが行われているらしい。近づけば近づくほど、人が混みあっている。あんなところで押し合ったら、絶対にうんこをもらしてしまう。早々に退散する。
ああ、今日で旅行はおしまいなのか。やっぱり、一週間というのはさすがに短すぎる。放浪をしたいなんてことはこれっぽっちも思わないけれど、せめて長期の旅をしたい。二ヶ月ぐらいかけて、東南アジアを横断するとか、ヨーロッパを巡るとか。
お土産を買ったり、ぶらぶらしたりで時間をつぶす。今回の旅行でつきまとわれた釈迦如来像のちっちゃいやつを一つ買う。鉄割のみなさんには、糞まずいお菓子を購入。野外コンサートがあったためか、カオサンロードがいつもにも増して混みあっている。花火まで上がっている。みな踊っている。さびしくなりますからやめて下さい、とつぶやく。夜九時過ぎにバンコクを後にする。どうせまたすぐに来るんだろうなあ。バンコク、こんなにも嫌いなのに。
空港でチェックインをした後に、空港内カフェで時間を潰す。『姑獲鳥の夏』、読了。面白すぎて、感動。日本に帰ったら、京極夏彦の作品を全部チェックしよう。『日本的霊性』は半分程読み終えた。他の本はほとんど読んでいない。それだけこの二冊がおもしろかったということだろう。
結局、観察者によって対象物が変化するということの本当の意味が、ぼくにはよくわかっていないような気がする。ぼくが考えていることは、結局のところ「万物の尺度は人間である」のような相対的認識主義にすぎないわけで、それは「観察」ではなくて、主観的な思い込みに過ぎない。ポール・ボウルズにとって、タンジールという国は旅の目的地、あるいは通過点としてのみ存在した。越川芳明さんはボウルズについてこんなふうに書いている。
(ボウルズが)通常の旅行作家とちがうのは、観察の対象となる異国の土地の文化的・民族的な特徴を記述しようとしたのではないという点だ。むしろかれが執筆のために旅した世界はもっとミクロな世界だった。つまり、旅する人間自身の内面という、地図のない世界だった。ボウルズの小説では、旅する異国の土地の特性ではなく、見る者(主体)自身の想像力が検証されるのだ。越川芳明『果てしない旅が作家をつくりだす』
まあ、人生はまだまだ長いのですから、ゆっくりと考えていきましょ。
胃袋の痛みを抑えつつ、飛行機に乗り込む。これにて心やすめの旅行はおしまい。おやすみなさい。