05年08月14日(日)
昔も書きましたが芸術の最大の決めては神々しさと寂寥感だと思います。
神々しさや寂寥感はその曲の良さとか指揮者の才能とか楽団がもえているとか指揮者と曲の相性がいいなどの条件によって生まれると思います。

僕は神々しさや寂寥感を味わいたい時は、それが顕著に表れている1954年録音のクナッパーツブッシュ指揮のウィーンフィルハーモニー演奏の
「ブルックナー交響曲第3番」
の4楽章の中の第1楽章だけ取り出してよく聞きます。これはひとえにクナッパーツブッシュが曲に共感しているからだと思います。
さすが「指揮者の神様」フルトヴェングラーと同格、と一部の人に言われるだけあります。


ブルックナーは特に顕著だと思いますが何十種類とCDを持っていても、クラシックってそういうものかもしれませんが、気分などによって同曲異音(同じ曲で指揮者や楽団が異なること)から選んで聞いています。
とにかく聞くたびに泥沼にはまっていくというか、どれがベストなのかと考えてしまいます。特にブルックナー第5番.7番.8番などです。
05年08月28日(日)
百年位前にマーラーとシベリウスが対談したことがあった。その時マーラーは音楽は世の中のすべての事を表現しなくてはならないという立場に立ち、シベリウスはごく一部の、例えば、自然だけなどを表現すればよいと言い論争になった事があった。
僕の意見ではどっちでもいいと思う。生み出された芸術はどちらも素晴らしいので、僕はマーラーの意見の方が好きです。

絶対音楽という言葉もありますし哲学の用語だと「絶対」とは相対的(比較しなくてはわからない)なものではなく、真実や唯一絶対のものを指すのでマーラーが言いたかったのは、そういう事だと思います。

でも、絶対音楽という割にクラシックの作曲家はドイツ、オーストリア圏の人が多いので(特に交響曲は)ドイツの民族音楽と呼ばれることがあります。
哲学的には分かりませんが(人類は永遠ということに対して答をだしていない ブルーノ・ワルター )音楽に限れば、それぞれの民族の芸術がそれぞれ神々しさや寂寥感に達していれば、芸術的だと思います。

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雑記書手紹介

中島教知
神奈川県生まれ(育ちなし)
鉄割の弟。説明できる範囲とできない範囲の境目にいる。
青春時代というものがスッポリ抜けているので、現在無理矢理青春を謳歌させられている。
鉄割では、できそこない担当(悲しいかな最近できてきてる)

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