
黒沢明の遺作『まあだだよ』を観ました。
数年前にも一度観ているのですが、内容を100%忘れていたので、改めて観てみました。内田百間(『けん』の字違います。後述。)という人に興味があったということもありますが、すげーおもしろかった!
実際のところ、多少内田さんを理想化しているような感じを受けないでもなかったですが、尊敬される先生とそれを慕う生徒達の交流は観ていて気持ちが良かったし、中島君も言っていましたが、「魔阿陀会」のシーンなんかは会の盛り上がりなんかは、相当によろしいのではないかと。観ているとなんだかわくわくしてしまいます。
それで、ものはついでということで、以前から興味を持っていたけど読んでいなかった百間さんの本を購入してきました。こういうことって勢いが大切ですから。今年に入ってから出たばかりの『百鬼園随筆』と、岩波文庫の『東京日記』の二冊。『阿房列車』シリーズが面白いらしいのですが、まあ始めはここら辺が妥当でしょう。
『東京日記』には『サラサーテの盤』という短編が収められています。内田さんの作品の中でも有名なものだと思うのですが、演奏の途中にサラサーテの声が入ってしまっている「チゴイネルヴァイゼン」という曲を収めたレコードをめぐるお話なのですが、これが静かな感じにちょっぴりホラーが入っていて、とてもおもしろかった。ホラーっていっても、全然ホラーじゃないのですけど。始まりと終わりがとても良いのです。始まり。がたがたと雨戸を揺らした風がやみ、静かになった夜。屋根の棟の天辺でコロコロとなにかが転がるような音がする。
宵の口は閉め切った雨戸を外から叩く様にがたがた云わしていた風がいつの間にか止んで、気がついて見ると家のまわりに何の物音もしない。しんしんと静まり返ったまま、もっと静かな所へ次第に沈み込んでいくような気配である。机に肘を突いて何を考えていると云う事もない。纏まりのない事に頭の中が段々鋭くなって気持ちが澄んで来る様で、しかし目瞼は重たい。坐っている頭の上の屋根の棟の天辺で小さな固い音がした。瓦の上を小石が転がっていると思った。ころころと云う音が次第に速くなって廂に近づいた瞬間、はっと身ぶるいがした。廂を辷って庭に土が落ちたと思ったら、落ちた音を聞くか聞かないかに総身の毛が一本立ちになる様な気がした。気を落ちつけていたが、座のまわりが引き締まる様でじっとしていられないから立って茶の間へ行こうとした。物音を聞いて向こうから襖を開けた家内が、あっと云った。
「まっさおな顔をして、どうしたのです」
文体が淡々としていて、恐い話を書くぞ!という気負いがないので、とても読みやすいし、それが逆に幻想的な雰囲気を出していて、とてもおもしろかった。この『サラサーテの盤』は、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」の原作にもなってます。西岸良平の『鎌倉物語』第13巻の『沙羅砂阿手の盤』というお話も、この『サラサーテの盤』がヒントになっています。『鎌倉物語』、非常にゆるやかなペースで連載が続いていて、この間19巻が出てました。大好き。西岸。
鉄割の中では内田さんを読んでいる方が結構いるようなので、今度面白いものを教えてもらおうっと。
ところで、ほらがいの内田百間の紹介のページを見ると、「けん」の字がちゃんと出ています。「?フ」の字。これ、MacOSXだと見れたけど、OS9では見えませんでした。みなさんは見えますか。内田百?フ
多摩美術大学で公演などを行いまして。
土、日、月と三回公演をする予定なのですが、ぼくは土曜日がお仕事なので、出れねーよと文句を言ったところ、きりんちゃんやめがね君がぼくの代役をやってくれるとおっしゃってくれました。幸いなことに、セリフはほとんどありませんから、代役をお願いするのも楽なものです。そんなわけで公演終了後にお酒を飲むためだけに神奈川県まで行きました。
お酒を飲み終えた後、「いつもお世話になっているから車で家まで送るよ」という内倉君の申し出を丁重にお断りして、近くの拝島まで送ってもらいました。ここから、各駅停車のひとり旅の始まりです。がたん、ごとんと各駅停車がゆっくり闇夜を走ります。時間も時間ですから、車両にはほとんど人がいません。窓から見覚えのない町を眺めていると、まるで地方にきたような錯覚にとらわれます。
我家に一番近い電車はすでに終電を過ぎていてのれなかったので、別の路線の少し離れた駅で下車しました。ここから我家まで、歩いて40分ほどです。夜分に見知らぬ町を歩くのは、不思議と興奮します。わざと迷ったり、遠回りになるような道を選びながら歩いていると、旅行の最中に萩原朔太郎の『猫町』を思い出したつげ義春のことを思い出しました。
つげ義春は、友人と山梨県の犬目宿場という宿場町に車で行く最中、道に迷ってある村落に出ます。
ちょうど陽の落ちる間際であった。あたりは薄紫色に包まれ、街灯がぽーっと白くともっていた。いくらか湿り気をおびた路は清潔に掃除され、日中の陽射しのぬくもりが残っているように感じられた。夕餉前のひとときといった風ののどかさで、子供や老人が路に出て遊んでいた。浴衣姿で縄とびをする女の子、大人用の自転車で自慢そうに円をかいてみせる腕白小僧、石けりをする子のズボンには大きなつぎが当たっている。私は近ごろ、あの母の温かさが縫いこまれたつぎの当たった衣服を着けている子どもを見たことがない。縁台でくつろぐ老人。それは下町の路地裏のような賑やかさであった。
辺鄙な山の中に突然現れた美しい村に、つげは魅かれます。ここが犬目宿場なのかとも思いましたが、同行の友人が先を急ぐように運転をしていたために、言い出すことができませんでした。結局二人はそのまま帰路につくことになるのですが、帰道中、つげは萩原作太郎の『猫町』のことを思い出します。
『猫町』は、現実の世界の旅行に魅力を感じなくなり、麻薬による幻覚の旅行を繰り返していた詩人が、温泉に滞留中に山道を散歩して道に迷い、幻想的魅惑に満ちた「猫町」に迷い込むという幻想小説です。
瞬間。万象が急に静止し、底の知れない沈黙が横たわった。何事かわからなかった。だが次の瞬間には、何人にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異変事が現象した。見れば町の街路に充満して、猫の大集団がうようよと歩いているのだ。猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れていた。
ほんの少し道をそれただけで、異界へと足を踏み入れてしまう。ううむ。まさしく旅情。
けど、今の僕の気分的には、『猫町』の主人公である「私」が猫町を発見する以前にした体験、いつも見ている近所の詰まらない、ありふれた郊外の町が、方位を錯覚した主人公によって非常に魅力的に見えたという体験の方が近いような気がします。
それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、舗石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりしていて、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒には花樹が茂り、町に日蔭のある風情を添えていた。四つ辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、杏のように明るくて可憐であった。かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。
結局この魅惑に満ちた町は、主人公が或る商店の看板を見ることにより、「私(主人公)が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない」ということが判明します。この美しく不思議の町が、いつものつまらないありふれた町の「磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に」実在していたことを知った主人公は、その後「故意に方位を錯覚させて、しばしばこのミステリイの空間を旅行し廻」ることになります。
夜道を歩きながら、わたくしのミステリイの空間を探し求めております。嗚呼、楽し。