12年01月05日(木)
イタリアにはナポリタンという食べ物はないという。
イタリアの南の方にナポリという町がある。イタリア人にはイタリア人としての誇りがあり、ナポリ人にはナポリ人の誇りがある。
日本のあちこちにナポリタンという食べ物がある。日本人には日本人としての誇りがあり、ナポリタンにはナポリタンの誇りがある。
本日、私の中で、電撃的にこの二つがまとまり1つになりました。
ナポリタンに対してのイタリア人の反応は、おおむね完全であると言っていいくらいに怒っている。その人がナポリ出身ではなくても、イタリア人として、ナポリが誤解されていると思って腹を立てている。郷土愛が強いのだろう。
私はイタリア人に会う機会があれば、ナポリタンについて聞いてみることにしている。返事の代表的なものとしては「あんなもの何がナポリ?おふざけにならないでちょうだいよ」という具合です。イタリア人がナポリタンについて「あんなもの」扱いをするのと、私がナポリタンを好きなことは、実は似ているような気がする。私は日本人で、ナポリタンではないのだが、ナポリタンにはナポリタンの誇りがあり、それが誤解されていることについて怒っていたのだと気付いてしまった。
東南アジアの国に行って「マカロニ」というメニューに出会った。それについても聞いてみたことがある。イタリア人は特に意見はないのである。ああ、タイのマカロニだよね。とか、ネパールのマカロニね。まあ、イタリアのが一番美味しいけどね。と言うのである。下手に名前にナポリが付いているだけで、それと同じようには扱ってもらえない。
大好きなナポリタンがイタリア人に嫌われている。美味しいのに。その名前のせいだけで、全く取り合ってくれないのである。そんな寂しいことはない。日本の食べ物としてでもいいから、別の名前のモノだと思ってでもいいから、食べてみてくれないか。と頼んでみたこともあるが、二度と御免という具合であり、私はがっかりしたし、「このわからずや!」と思いました。けどまあ、そんなの人それぞれなので、いつかナポリタンが好きなイタリア人に出会わないかなぁと思って生きておるわけです。そして、いつかナポリ人によるナポリタンとか、食べてみたいなぁとか、考えていたのです。今日までは。
今日、私は、ナポリタンはナポリタンであり、ナポリでナポリタンを食べることが出来るであろうとわかったのです。
(イタリア人でナポリタンの研究をしている人はいないのだろうか)
イタリア人がナポリタンについて怒るのは、イタリア人のナポリタンへの理解不足からくるものである。ただ単純にナポリの名が付いているということに対する反応としての拒否感。そして、聞いてみると、ケチャップの存在にも怒っているようであるということは私の浅い対人調査でわかっている。アルデンテという美意識も理解を邪魔する。
また、日本人がナポリタンという食べ物を食べるのも、日本人のナポリへの理解不足からくるものであるのです。理解不足というか、もう、多くの人は、ナポリタンという食べ物の名前の前半「ナポリ」の部分が、イタリアの町の名前であると知るよりもはるか手前、そもそも日本以外に国があると知る以前に、ナポリタンに接し、好んでいるのです。理解も糞もありません。
しかし、ナポリタンを愛する者は、幼少の時代から始まり、義務教育を経て、様々なナポリタンを食べる大人にとなった今、それがイタリア料理の代表的なものとは違うものであるということはわかっているし、ナポリタンとナポリそのものを混同したりすることはなく、ナポリタンという日本で育まれたよくわからない食べ物というくらいの認識くらいまではしているのです。
ナポリタンという食べ物がどのように変化し広まり愛されているのか。その出所は何処にあるのかというのが、最大のポイントであります。
調べてみるとですね、割とどうでもいい記述が多くてですね、いや、どうでもよくもないのだけど、肝心なところが抜けているんですよ。ナポリタンの原型が、ナポリから出発して、世界の色々な所を巡って日本にやってきて、その道中折々で、手に入る材料や、各所の調理法のクセによって、形を変え、しかし、ナポリの名は残り、なんとなく統一された雰囲気を保っていることは間違いなく、何故か日本で今なお愛されているそのパワーについての記述がないのです。問題はそこです。ナポリ人の食い意地です。郷土愛というか、食べ物に関しての愛です。
日本でこんなに愛されるナポリタンがあるということは、そもそも、ナポリを離れたナポリ人がナポリの食べ物を愛するあまり、長い時間をかけて紆余曲折し、こうなってしまっているのです。愛というかこれはもう、長い時間をかけて途中から恋に変わっています。ナポリ人はそれを忘れてはいけないと思います。ナポリの食べ物は確かに素晴らしく、ナポリ人は深くそれを愛していることには違いないのです。そして、それだけ愛されているものは、例え形を変えようと美味しいのだと思います。
日本のナポリタン、ナポリ人やイタリア人がどんなに否定しようと、やはりナポリと名が付くだけに、間違いなくナポリの出身であるという手がかりを見つけました。
まずはこちらなのですが
http://ameblo.jp/piazzaitalia/entry-10810288750.html
ナポリ在住の日本人によるブログです。ジャガイモのパスタという煮込みパスタを紹介しています。(これ、簡単で美味しいので作って食べた方がよいです)
ローカルな家庭料理であるという記述があります。それは、パスタの種類についてではありますが、ローカルな家庭料理というのがひっかかります。ここでの発見は「これはどうもアルデンテではなさそうだ」ということです。
そして次にこちらです。
http://buonissimo.blog.so-net.ne.jp/2010-01-23
はっきりと書いてあります。
「ナポリのマンマ直伝。時間がないときの、かんたんトマトの煮込みパスタ」です。そしてその写真のナポリタンに似ていることと言ったらない。
もう、完全に妄想だとわかって書いておりますけれども「世の中の過半数は妄想で出来ている」という記述もどっかで読みましたので、続けますけど、やっぱこう、思うのは、故郷を離れた人が、故郷の家庭料理を食べたいってのは、あるんじゃないでしょうか。こと、食にこだわるイタリアはミラノの人々なのだから、なおさらで、それが、世界を巡って長い時代を巡って日本の家庭料理にすらなっているということではないかと確信しております。
時代の何処かでは、ナポリ人があんまり言うもんだから、頑張って作ってみたナポリタンとかもあると思うんです。それが本当にナポリ料理的であるかは置いといて、そりゃ、ナポリタンとか呼びたくなるような料理じゃないですか。なのですから、ナポリ人は、その、何というか、時代や境遇やナポリ出身の食いしん坊のことを考えながら、日本のナポリタンを食べてみたらいいんじゃないかと思います。
いや、でも、イタリア人のトマトソースへのこだわりから行くと、ケチャップで代用したというのはマズかったのかな。
味噌の代わりにピーナッツバターで味噌汁作られたようなものかもしれない。
リンク先のお二方には、いつかご連絡せねばなるまいと思っております。感謝しております。その節はどうぞ宜しくお願いします。
イタリアの南の方にナポリという町がある。イタリア人にはイタリア人としての誇りがあり、ナポリ人にはナポリ人の誇りがある。
日本のあちこちにナポリタンという食べ物がある。日本人には日本人としての誇りがあり、ナポリタンにはナポリタンの誇りがある。
本日、私の中で、電撃的にこの二つがまとまり1つになりました。
ナポリタンに対してのイタリア人の反応は、おおむね完全であると言っていいくらいに怒っている。その人がナポリ出身ではなくても、イタリア人として、ナポリが誤解されていると思って腹を立てている。郷土愛が強いのだろう。
私はイタリア人に会う機会があれば、ナポリタンについて聞いてみることにしている。返事の代表的なものとしては「あんなもの何がナポリ?おふざけにならないでちょうだいよ」という具合です。イタリア人がナポリタンについて「あんなもの」扱いをするのと、私がナポリタンを好きなことは、実は似ているような気がする。私は日本人で、ナポリタンではないのだが、ナポリタンにはナポリタンの誇りがあり、それが誤解されていることについて怒っていたのだと気付いてしまった。
東南アジアの国に行って「マカロニ」というメニューに出会った。それについても聞いてみたことがある。イタリア人は特に意見はないのである。ああ、タイのマカロニだよね。とか、ネパールのマカロニね。まあ、イタリアのが一番美味しいけどね。と言うのである。下手に名前にナポリが付いているだけで、それと同じようには扱ってもらえない。
大好きなナポリタンがイタリア人に嫌われている。美味しいのに。その名前のせいだけで、全く取り合ってくれないのである。そんな寂しいことはない。日本の食べ物としてでもいいから、別の名前のモノだと思ってでもいいから、食べてみてくれないか。と頼んでみたこともあるが、二度と御免という具合であり、私はがっかりしたし、「このわからずや!」と思いました。けどまあ、そんなの人それぞれなので、いつかナポリタンが好きなイタリア人に出会わないかなぁと思って生きておるわけです。そして、いつかナポリ人によるナポリタンとか、食べてみたいなぁとか、考えていたのです。今日までは。
今日、私は、ナポリタンはナポリタンであり、ナポリでナポリタンを食べることが出来るであろうとわかったのです。
(イタリア人でナポリタンの研究をしている人はいないのだろうか)
イタリア人がナポリタンについて怒るのは、イタリア人のナポリタンへの理解不足からくるものである。ただ単純にナポリの名が付いているということに対する反応としての拒否感。そして、聞いてみると、ケチャップの存在にも怒っているようであるということは私の浅い対人調査でわかっている。アルデンテという美意識も理解を邪魔する。
また、日本人がナポリタンという食べ物を食べるのも、日本人のナポリへの理解不足からくるものであるのです。理解不足というか、もう、多くの人は、ナポリタンという食べ物の名前の前半「ナポリ」の部分が、イタリアの町の名前であると知るよりもはるか手前、そもそも日本以外に国があると知る以前に、ナポリタンに接し、好んでいるのです。理解も糞もありません。
しかし、ナポリタンを愛する者は、幼少の時代から始まり、義務教育を経て、様々なナポリタンを食べる大人にとなった今、それがイタリア料理の代表的なものとは違うものであるということはわかっているし、ナポリタンとナポリそのものを混同したりすることはなく、ナポリタンという日本で育まれたよくわからない食べ物というくらいの認識くらいまではしているのです。
ナポリタンという食べ物がどのように変化し広まり愛されているのか。その出所は何処にあるのかというのが、最大のポイントであります。
調べてみるとですね、割とどうでもいい記述が多くてですね、いや、どうでもよくもないのだけど、肝心なところが抜けているんですよ。ナポリタンの原型が、ナポリから出発して、世界の色々な所を巡って日本にやってきて、その道中折々で、手に入る材料や、各所の調理法のクセによって、形を変え、しかし、ナポリの名は残り、なんとなく統一された雰囲気を保っていることは間違いなく、何故か日本で今なお愛されているそのパワーについての記述がないのです。問題はそこです。ナポリ人の食い意地です。郷土愛というか、食べ物に関しての愛です。
日本でこんなに愛されるナポリタンがあるということは、そもそも、ナポリを離れたナポリ人がナポリの食べ物を愛するあまり、長い時間をかけて紆余曲折し、こうなってしまっているのです。愛というかこれはもう、長い時間をかけて途中から恋に変わっています。ナポリ人はそれを忘れてはいけないと思います。ナポリの食べ物は確かに素晴らしく、ナポリ人は深くそれを愛していることには違いないのです。そして、それだけ愛されているものは、例え形を変えようと美味しいのだと思います。
日本のナポリタン、ナポリ人やイタリア人がどんなに否定しようと、やはりナポリと名が付くだけに、間違いなくナポリの出身であるという手がかりを見つけました。
まずはこちらなのですが
http://ameblo.jp/piazzaitalia/entry-10810288750.html
ナポリ在住の日本人によるブログです。ジャガイモのパスタという煮込みパスタを紹介しています。(これ、簡単で美味しいので作って食べた方がよいです)
ローカルな家庭料理であるという記述があります。それは、パスタの種類についてではありますが、ローカルな家庭料理というのがひっかかります。ここでの発見は「これはどうもアルデンテではなさそうだ」ということです。
そして次にこちらです。
http://buonissimo.blog.so-net.ne.jp/2010-01-23
はっきりと書いてあります。
「ナポリのマンマ直伝。時間がないときの、かんたんトマトの煮込みパスタ」です。そしてその写真のナポリタンに似ていることと言ったらない。
もう、完全に妄想だとわかって書いておりますけれども「世の中の過半数は妄想で出来ている」という記述もどっかで読みましたので、続けますけど、やっぱこう、思うのは、故郷を離れた人が、故郷の家庭料理を食べたいってのは、あるんじゃないでしょうか。こと、食にこだわるイタリアはミラノの人々なのだから、なおさらで、それが、世界を巡って長い時代を巡って日本の家庭料理にすらなっているということではないかと確信しております。
時代の何処かでは、ナポリ人があんまり言うもんだから、頑張って作ってみたナポリタンとかもあると思うんです。それが本当にナポリ料理的であるかは置いといて、そりゃ、ナポリタンとか呼びたくなるような料理じゃないですか。なのですから、ナポリ人は、その、何というか、時代や境遇やナポリ出身の食いしん坊のことを考えながら、日本のナポリタンを食べてみたらいいんじゃないかと思います。
いや、でも、イタリア人のトマトソースへのこだわりから行くと、ケチャップで代用したというのはマズかったのかな。
味噌の代わりにピーナッツバターで味噌汁作られたようなものかもしれない。
リンク先のお二方には、いつかご連絡せねばなるまいと思っております。感謝しております。その節はどうぞ宜しくお願いします。
12年01月04日(水)
今、ハンガリーの観光案内を見ています。
〜やすらぎの国〜ハンガリーです。
毎日が竜巻のように過ぎて行くので、大掃除の規模が年々増していて、終わらぬまま竜巻に襲われ、1年が過ぎるということを年々繰り返しています。で、正月休みに色々なものをほじくり返してはぼーっとするのであります。
去年は、あんまり気分では乗らなかったけれども、行くなら今だ!と、ヨーロッパ周遊旅行をしたいと考えていたのです。
何故その時だったのかというと、鉄割アルバトロスケットの衣装を作って下さっている緑さんが、ドレスデンに留学?していたからであり、それ以外の理由は「行ったことないから」という具合でした。
そもそも、私、旅行先での暮らしぶりを見たりするのが好きなのですが、どうも、ヨーロッパ旅行の観光ガイドには、立派な観光地が立ち並び、一向に気が向かないのでありました。かといって、ヨーロッパにも労働者がいて、日々暮らしているのであり、職人が多そうなヨーロッパなのであるから、行ってしまえば何処だって楽しいのはわかってはいたので、それじゃあ行ってみようと思ったのです。素晴らしい断崖絶壁があるということも本で見たのです。
そうこうしているうちに地震が起きて、なんだかよくわからないけれど、全然行く気にならんかったので、行きませんでした。代わりに日本旅行を沢山することになりました。
それは置いといて、何故、ハンガリーの観光パンフレットを持っているかというと、ヨーロッパの中でも特に、ハンガリーに対しては、興味なかったのです。が、某所に、おそろしく不味い?ハンガリー料理屋さんがあるのが原因なのです。ランチ時も客がほぼいないそのお店の不味さがまた、とても地味なもので、大きな声で不味い!という感じでもないのであり、一体何なんだろうかと思い、私は長い間を置いて3回偵察に行ってみた。しかし、旨くない。そして不味いというか、食べていると、なんともしみじみともの悲しいような若干ありがたいような懐かしいような不思議な気持ちになってくるのだから困ったものです。芸術に例えてみるならばジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」的なご飯であります。それはそれで、嫌いではなく、むしろそんな気分にさせるご飯というのは珍しいものであるので、関心は高まるのであります。
まず、ハンガリーとは、こんなものなのだろうか?と思い、ヨーロッパ旅行に行くのであれば、ちょっと寄って本物のハンガリーのご飯を食べてみた方がいいのではないかと思い、そのお店からパンフレットを貰って来たのであります。
そんなある日に、図書館で借りた本に出て来たハンガリーは、もっとずっと魅力的であり、俄然行く気が湧いてきたのです。
で、結局行かなかったので、ハンガリーについていまだに興味を持っています。あの国は、どういう国なんだろう。どんな人が住んでいてどんなモノを食べているのだろうかと。それは勿論色々なのですが、その中で私が出会うハンガリーはどんなだろうなぁと思うのであります。
で、さんざん悪く書いたようなことになってしまっておりますこのお店ですが、厨房の、推定ハンガリー人のコックさんの佇まいがまた、しみじみと面白いので、また行ってもいいと思っていますし行くと思います。ので、行きたい方いらっしゃれば声かけて下さいませばいつでもお供致します。夜は行ったことないですが。
ハンガリーの首都はブタペストであり、ドナウ川が流れています。立派な建造物とパプリカと温泉が有名な国のようです。
そこから少し北へ行くとセンテンドレという町があり、そこに行ってみたいと思っています。コヴァーチ・マルギット美術館というのや、野外民族博物館ちうのや、マジパン博物館というのがあり、石畳に馬車が走っているそうです。こういう町に1週間とか居たいです。
コヴァーチ・マルギット(KOVÁCS, Margit)さんの作品とても可愛いので画像検索を是非。
で、首都から遠くに行くと、でっかい鍾乳洞があったり、一年中蓮の花が咲いていて泳げる温度というでっかい温泉湖というのがあったり、野生馬がいる大平原があったり、刺繍やボビンレースが盛んな場所があったり、2月にはブショー祭りというクケリのお祭りがあったり、民族舞踊、衣装、音楽等盛んな楽しい国のようです。
して、ご飯の方は、検索するととても美味しそうなのが出てきます。中でもラーンゴシュという大きなパンみたいなものが美味しそうです。
あのお店、何が悪いんだろう。なんとなく、内装や照明が悪い気がする。近々また行ってみます。
そして、もし、ハンガリーのことを知っている方は、私に教えて下さい。不確かな印象でもよいです。行かないなら行かないで、私の中のハンガリーらしきものを確立していこうと思います。
〜やすらぎの国〜ハンガリーです。
毎日が竜巻のように過ぎて行くので、大掃除の規模が年々増していて、終わらぬまま竜巻に襲われ、1年が過ぎるということを年々繰り返しています。で、正月休みに色々なものをほじくり返してはぼーっとするのであります。
去年は、あんまり気分では乗らなかったけれども、行くなら今だ!と、ヨーロッパ周遊旅行をしたいと考えていたのです。
何故その時だったのかというと、鉄割アルバトロスケットの衣装を作って下さっている緑さんが、ドレスデンに留学?していたからであり、それ以外の理由は「行ったことないから」という具合でした。
そもそも、私、旅行先での暮らしぶりを見たりするのが好きなのですが、どうも、ヨーロッパ旅行の観光ガイドには、立派な観光地が立ち並び、一向に気が向かないのでありました。かといって、ヨーロッパにも労働者がいて、日々暮らしているのであり、職人が多そうなヨーロッパなのであるから、行ってしまえば何処だって楽しいのはわかってはいたので、それじゃあ行ってみようと思ったのです。素晴らしい断崖絶壁があるということも本で見たのです。
そうこうしているうちに地震が起きて、なんだかよくわからないけれど、全然行く気にならんかったので、行きませんでした。代わりに日本旅行を沢山することになりました。
それは置いといて、何故、ハンガリーの観光パンフレットを持っているかというと、ヨーロッパの中でも特に、ハンガリーに対しては、興味なかったのです。が、某所に、おそろしく不味い?ハンガリー料理屋さんがあるのが原因なのです。ランチ時も客がほぼいないそのお店の不味さがまた、とても地味なもので、大きな声で不味い!という感じでもないのであり、一体何なんだろうかと思い、私は長い間を置いて3回偵察に行ってみた。しかし、旨くない。そして不味いというか、食べていると、なんともしみじみともの悲しいような若干ありがたいような懐かしいような不思議な気持ちになってくるのだから困ったものです。芸術に例えてみるならばジャン・フランソワ・ミレーの「落ち穂拾い」的なご飯であります。それはそれで、嫌いではなく、むしろそんな気分にさせるご飯というのは珍しいものであるので、関心は高まるのであります。
まず、ハンガリーとは、こんなものなのだろうか?と思い、ヨーロッパ旅行に行くのであれば、ちょっと寄って本物のハンガリーのご飯を食べてみた方がいいのではないかと思い、そのお店からパンフレットを貰って来たのであります。
そんなある日に、図書館で借りた本に出て来たハンガリーは、もっとずっと魅力的であり、俄然行く気が湧いてきたのです。
で、結局行かなかったので、ハンガリーについていまだに興味を持っています。あの国は、どういう国なんだろう。どんな人が住んでいてどんなモノを食べているのだろうかと。それは勿論色々なのですが、その中で私が出会うハンガリーはどんなだろうなぁと思うのであります。
で、さんざん悪く書いたようなことになってしまっておりますこのお店ですが、厨房の、推定ハンガリー人のコックさんの佇まいがまた、しみじみと面白いので、また行ってもいいと思っていますし行くと思います。ので、行きたい方いらっしゃれば声かけて下さいませばいつでもお供致します。夜は行ったことないですが。
ハンガリーの首都はブタペストであり、ドナウ川が流れています。立派な建造物とパプリカと温泉が有名な国のようです。
そこから少し北へ行くとセンテンドレという町があり、そこに行ってみたいと思っています。コヴァーチ・マルギット美術館というのや、野外民族博物館ちうのや、マジパン博物館というのがあり、石畳に馬車が走っているそうです。こういう町に1週間とか居たいです。
コヴァーチ・マルギット(KOVÁCS, Margit)さんの作品とても可愛いので画像検索を是非。
で、首都から遠くに行くと、でっかい鍾乳洞があったり、一年中蓮の花が咲いていて泳げる温度というでっかい温泉湖というのがあったり、野生馬がいる大平原があったり、刺繍やボビンレースが盛んな場所があったり、2月にはブショー祭りというクケリのお祭りがあったり、民族舞踊、衣装、音楽等盛んな楽しい国のようです。
して、ご飯の方は、検索するととても美味しそうなのが出てきます。中でもラーンゴシュという大きなパンみたいなものが美味しそうです。
あのお店、何が悪いんだろう。なんとなく、内装や照明が悪い気がする。近々また行ってみます。
そして、もし、ハンガリーのことを知っている方は、私に教えて下さい。不確かな印象でもよいです。行かないなら行かないで、私の中のハンガリーらしきものを確立していこうと思います。





