03年10月01日(水)

 十月になりました。お庭の彼女にこんにちは。

 数年前、ビル・ゲイツが訪問先のブリュッセルでパイを顔面にぶつけられた事件がありました。犯人はパイ・アナーキスト、ノエル・ゴダン率いるチームで、今までに五十人以上の著名人にパイをぶつけてきたパイ投げのプロ集団です。これまでの彼らのパイ投げによる犠牲者は、小説家であるマルグリット・デュラス、映画監督のジャン=リュック・ゴダール、フランスの哲学者であるベルナール・アンリ・レヴィ、映画女優のキャサリン・ドヌーブ、ファッションデザイナーのカール・ラガーフェルト、歌手のケニー・ロジャースなどなど錚々。面白いのはターゲットとなる相手を選ぶときの基準で、ひとつは「Powerful」、ひとつは「Self-Importance」、そして最後のひとつは「Lacking of Humour」。要するに、精力的で自尊心が強くてユーモアのセンスのない野郎はパイでもかぶってろ!ということです。

 どうしてこの事件を覚えているのかというと、この「ユーモアの欠如」という基準が気になったからで、常々ユーモアに生きたいとは思っている身ではありますが、うーん、ユーモアに生きるというのは、なかなか大変なことなのです。思うに、ユーモアのセンスというものは、ぼくが誰かに対して示す場合だけではなくて、誰かの行動をぼくが受け止める時にも問われるもので、ユーモアに包まれた発言や行動に対して、そのユーモアの外装をすべて剥ぎ取って意図を判断しようとするのが、Lacking of Humour、けれども、どこからどこまでがユーモアで、どこからどこまでが不謹慎なのか、その境界は非常に微妙なところなので、それを粋に推し量るのが、ユーモアのセンスというもの。

 世界のすべてをユーモアに受け止めるには、あまりにも生き難い時代ではありますが、みなさんお元気で。そういうわけで、今月のぼくの生活の目標は、ユーモアに生きるということで。

03年10月02日(木)

 久方ぶりの友人と、少し離れた郊外でお酒を飲みました。

 友人は、いやーこの歳のなると人生の先が漠然と見えてきて、生きている意味がよくわからなくなるなあ、と酒を一口、そんな言葉にぼくは心中、先なんて全然みえねーよと思いながらも、昔は良かったなあなどと話を合わせ、実は人生で今が一番楽しいということは胸中に、繰り返しの思い出話に華咲かせ、酒をごくりと。

 帰宅後、サム・ライミの出世作『死霊のはらわた』を観ながら酔いをさます。十年以上ぶりに観たけれど、面白過ぎてびっくりした。役者さんたちの演技も紙一重ですごいけれど、まだCG技術がない時代のため、おどろおどろしいシーンでは、画面が突然シュバンクマイエルの作品のようになるのが、恐いというよりもむしろ面白いし、かっこいい。70年代後半から80年代のホラー映画は本当に素晴らしい。

 布団に横になり、田部重治著「山と渓谷」を読書。ワーズワースの翻訳などもされている田辺さんの素敵な自然礼賛を読んでいると、やはり山は、気の合う仲間、登り方の同じ仲間たちで行くものであることを実感させられる。登る気持ちは違っても、感じる心が一緒であれば、田部さん曰く、ただ一つの大きな喜びの一致が、他の小さな不一致の不満をかきけして、深い満足の感情をもたらせてくれる。登り方の異なる人と山を登ればストレスがたまるばかり。肝に銘じて。

03年10月03日(金)

 ホリー・ハンターの主演ドラマ『アメリカン・ジャスティス(原題:Harlan County War)』を観ました。ケンタッキー州の炭坑夫と、その妻たちによる労働運動を事実に基づいて描いたドラマ。人種差別や性差別の問題を扱った映画やドラマはたくさんあるけれど、労働運動を描いたドラマを観るのはもしかしたら初めてかも。炭坑、かっこいいー。

 さてさて明日は待ちに待った穂高登山。本日はさっさと寝て、明日に備えましょう。というわけで、職場の方に教わって購入したリラックス効果抜群のアロマオイル「マージョラム」を、布団にぶっかけてみました。おやすみなさい。

03年10月04日(土)

 午前一時に戌井さんの家に集合。一時半に東京を出て、途中に諏訪湖インターで小休止、六時過ぎに沢渡に到着、六時半ぐらいにバスに乗って、上高地へ。今回の面子は、ぼく、戌井さん、内倉君、弟君、向井さん、渡部さん。

 上高地から涸沢へ。左手に聳えるは前穂高、屏風耳、いつかお前の肌を登ってやるぞうと心の中で、ゆっくり歩く。去年の涸沢の紅葉が二十年に一度の美しさだったこともあって、涸沢へと向かう道は大混雑。自分のペースで歩くことが全然できないことにストレスを感じ、天気も微妙、紅葉もいまいち、道もあまり面白くない。

 どうにかこうにかで涸沢に到着。予定より大幅に遅れているので、今から穂高岳山荘へ向かうと、到着するのは日が落ちるぎりぎりの時間になってしまう。少しペースを速めて、涸沢小屋へ続く石段を登り、小屋を経由して、ようやく登山らしくなってきたザイテングラードを登る。

 突然コースが激しくなってきたので、皆さん焦っておりましたが、明日のコースはこんなものではありませんよ。

 山小屋でビールを飲んで、夕食を食べて、八時過ぎにはもう目を開けていることができず、おやすみなさい。

(今回の登山の写真はこちらですべて見る事ができます。)

03年10月05日(日)

 五時半、戌井さんに起こされて外へ行くと、ご来光様。前回の常念岳では拝むことが出来なかったので、前回の分も拝みました。寒い。

 七時半に穂高岳山荘を出発、すぐ隣にそびえ立つ奥穂高へ。思った以上に急登で、弟君が大丈夫かしらと心配だったけれど、地上を爆撃したいなどと言えるぐらいに余裕があるようで、一安心。

 奥穂高の頂上、絶景。北には槍ケ岳、南東には前穂高、天気も良好、体力も万全、本日は良い登山ができそうです。

 頂上で記念撮影。弟君が内倉君を突き落とそうとして、大変でした。

 さて次は、吊り尾根の稜線に沿って歩きます。

 ガレ場なので足下に気をつけて歩き、ふと顔を上げると絶景、水を飲んで、ふと顔を上げると絶景、地図を確認して、ふと顔を上げると絶景、どこを向いても美しい眺望。遠くに富士山が見えます。

 途中、斜面が直角に近い鎖場が連続して登場。ゆっくりと慎重に降りていたら、突然に大きな岩が転がり落ちてきて、ザックに直撃。頭に当たっていたら、間違いなく鎖から離れて滑落していただろうし、下手すりゃ死んでます。神様、ありがとう。

 荷物を置いて前穂高へ。最初からいきなり岩を攀じ登る、ちょっとしたロック・クライミング気分、などと言ったらプロの方に怒られてしまいます。

 前穂高の頂上です。写真には写っていませんが、遠くに前回登った常念岳と蝶ヶ岳が見えます。

 前穂高から眺めた奥穂高。

 あとは下山するのみ。重太郎新道から岳沢ヒュッテへ降りて、上高地へ向かいます。まだまだ危険な道のりですが、弟君はヒットラーヒットラーと歌いながら、楽しげに。

 生まれて初めて内倉君の笑顔を拝見しました。笑えるのではないですか。

 帰りは予定に大幅に遅れて、暗闇をさまようことに。場所的に、麓に近い所だったから良かったようなものの、ちょいと気が緩んでおります。ほんの少しの気の緩みが、大きな事故へとつながるのが登山ですから、気を引き締めなくては。

 今回の登山の写真はこちらですべて見る事ができます。

 ついでに、下山してから調べたこと。業務連絡。

・デポはdepotで、「登山・探検などで、あとで回収し使用するために、荷物を行程の途中に置いておくこと。また、その場所・荷物」広辞苑第五版より。
・槍ケ岳よりも奥穂高のほうが標高が高い。

 下山した後も、ふと気付くと穂高のことを思い出しています。次はどこへ登りましょうかねえ。

03年10月06日(月)

 十一時、起床。さて今日はなにをしようかしらと思案中、昭の字より電話。夜に勲の字とお酒を飲むので、渋谷まで来ませんかとのこと。

 午後、池袋のリブロで本を物色、『吉田健一の時間—黄昏の優雅』、『山の旅 明治・大正編』、その他、新書など諸々を購入。今月は本を買うのを控えるぞうと思いつつ。

 渋谷で昭、勲と合流。パルコの洋書のコーナーをぶらつき、次回のちらしの構想をねる。というかパクれそうなものを探す。その後、ふたりに付き合ってもらって帽子を買いに。いろいろな帽子を試すものの、感想を聞くと、やれ白血病の患者みたいだの、やれ競馬場のおっさんみたいだの、なかなか良いものが見つからない。と思っていたら素敵な帽子を発見。めちゃ高いけれど、即購入。

 その後、竜の鬚にて台湾料理を食。途中に思いがけず長島さんが合流、憲の字も遅れて合流、すべての鬱積した思いを吐き出して、なかなか楽しい会でございました。

 帰宅後、今ぼくが一番楽しみにしている映画『ルールズ・オブ・アトラクション』に備えて、『レス・ザン・ゼロ』を観る。ワム時代のジョージ・マイケルカットのロバート・ダウニーJrが気持ち悪い。それにしても、エリスの作品は小説も映画も微妙過ぎる。

03年10月07日(火)

 メールマガジンにも書いたので重複して恐縮ですが、先日の登山の途、向井さんと動物の性器の話をしていて、魚のエイのまんこが人間のまんこにそっくりであることを思い出しました。学生の頃、好きな人と初めてのデートで水族館に行ったとき、巨大な水槽の中でひるがえったエイの股間に、なんと人間のまんこがついていたのです。まさか初めてのデートでまんこまんこと叫ぶわけにもいかず、ほえーと感嘆の声をあげるに留めておきましたが、随分と衝撃を受けた記憶があります。それで、思い出したついでに画像でもないかしらと思って少し調べてみたのですが、見つけることは出来ませんでした。でも、ブラジルの猟師はよくエイとセックスをしているらしいので、やっぱり人間のまんこと似ているのだと思います。

 最近、スイスウォーターの炭酸水がお気に入り。走った後には炭酸水を取るのが良いらしいと友人に聞いたので、運動の後に飲んでいます。ちょっと高いけど。

03年10月08日(水)

 最近、お仕事場ではコーヒーをやめてお茶を飲むようにしました。こころなし、精神が落ち着くような。

 映画『ガタカ』を観ました。『トゥルーマン・ショー』で世界中に騙される男を描き、『シモーヌ』で世界中を騙す男を描いたアンドリュー・ニコルさん、この『ダカタ』ではシステムを騙す男を描いています。舞台は、デザインベイビー(将来的に優秀な人間に成長するように遺伝子操作された赤ん坊)が日常的に誕生する近未来。主人公は遺伝子操作を受けていない青年。彼の夢は宇宙飛行士になることだったが、遺伝子操作を受けていない彼は、不適合者としてチャンスすら与えられない。そこで事故によって車イスの生活を送っている適合者から、彼の人生を買い取り、適合者になりすまして宇宙飛行士を目指す。というお話。なかなか面白い映画でした。

 ひとつだけ気になったことを挙げれば、イーサン・ホーク演じる主人公が、遺伝子操作を受けた適合者と同等の能力を持って描かれているため、デザインベイビーという技術の恐ろしさがいまいち伝わらないこと。デザインベイビーの恐ろしさは、人が遺伝子を操作するという倫理的な問題に加えて、人間の価値が評価によって決定するという、絶対的な能力主義が潜在している点にあると思います。勘違いしてはいけないのは、この映画の主題が、そのような遺伝子技術を非難することではなく、遺伝子操作を受けていないという障害をもった青年が、その障害を乗り越えて夢を叶える(能力主義の世の中で、能力によって成功する)というプロセスにあるということです。

 他にもデザインベイビーを扱った映画ってあるのかしら。ちょっと調べてみよう。

03年10月09日(木)

 今年はこれまでになく多く山に登ったような気がしますが、数えてみればほんの四回、しかもそれぞれが近場であるか友人と共でありますから孤独ということもなく、そうしてみるとぼくの今年は未だ孤独な旅を経験していないということになります。これは良くない。年が明ける前に、どこかへひとりで旅行へ行きたい。寺を訪れ仏像を拝したいけれど、あるいは。

 吉田健一氏の『金沢』を読んで以来ずっと、金沢という町に心を魅かれているのですが、何度も訪れる機会がありながらも、都度の事情で行くことができずにここ数年、未知の土地でありますので、誰と誰の出身地とかいうことも考えて、最近の個人的なブームである泉鏡花に併せ、尊敬する西田幾多郎・鈴木大拙、彼らを育てた風土というものを感じたく、再び強く金沢に魅かれているわけであります。来月か、あるいは再来月。

これは加賀の金沢である。尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの町を廻って展開することになるようなので初めにそのことを断って置かねばならない。併しそれで兼六公園とか誰と誰の出身地とかいうことを考えることもなくて町を流れている犀川と浅野川の二つの川、それに挟まれて又二つの谷間に分けられてもいるこの町という一つの丘陵地帯、又それを縫っている無数の路地というものが想像出来ればそれでことは足りる。
吉田健一『金沢』より
03年10月10日(金)

 風が吹き、日本に生まれて良かったなあとしみじみ実感。

 古本屋で『西田幾多郎との対話—宗教と哲学をめぐって』を購入。最近は『善の研究』などを解説と併せて熟読しておりまして、せめて年内中に、西田哲学の入り口ぐらいまではたどりつきたいと思っているわけです。

 夜、ヴィンッチェンゾ・ナタリ監督『カンパニーマン』を観ました。『CUBE』と同様に、独特の映像の奇抜な感じがとても良かった。ルーシー・リュー最高。

03年10月11日(土)

 突然に発熱してしまい、終日横臥。

 借りておいたビデオ、泉鏡花原作・坂東玉三郎監督『外科室』を観ました。昔、まだ田舎にいた頃に、テレビでこの『外科室』の特番(といっても五分程度のもの)を観て、小石川なる植物園での伯爵夫人(吉永小百合)と高峰(加藤雅也)が出会うシーンのあまりの美しさに深く感動した記憶があります。時を経て改めて観て思うのは、未だ鏡花を知らず、もちろん劇中に使われている曲がラフマニノフであることも知らなかった十年前のぼくの感動は、間違いなく現在のぼくに共通しているということで、成長していない自分が嬉しかったり悲しかったり。上京してから観た『天守物語』も大好きな映画の一本ですが、坂東玉三郎の三本の映画の中ではやはりこの『外科室』が一番好きです。

 ちなみに、『天守物語』を観たとき、観客の数はぼくを含めて三人でした。

03年10月12日(日)

 続けて横臥の日。

 今週号のAERAの表紙は、以前から読みたい読みたいと思っていた『単一民族神話の起源—「日本人」の自画像の系譜』の著者である小熊英二さん。なんとこの『単一民族神話〜』は、小熊氏の修士論文だそうです。びっくり。古本屋さんで安く買うつもりだったのですが、内容的にも非常に興味深いので、Amazonでクリック。

 夕方、ようやく体調が戻ってきたので、お茶を飲みに駅前へ。本屋で松岡正剛氏の『遊学〈1〉』『遊学〈2〉』を購入。142人の歴史上の巨人を、松岡氏独特の語り口と視点で捉えた人物譜だそうで。松岡氏とタモリの言語学的(?)対談集『コトバ・インターフェース』も読んでみたいのだけど、絶版。古本屋でみつけましょう。

03年10月13日(月)

 体調が十全ではないし、雨も降っているようなので自宅で療養。と思っていたら午後から突然に晴天、こんな日に自宅にこもっていては直るものも直りません、さっさと家を出てお散歩しましょう。最初に寄った古本屋さんで『寸心日記』を発見、ほら、さっそく良いことがあった。

 本屋さんで、茂木健一郎『意識とはなにか—〈私〉を生成する脳』を購入。そのままカフェで読書。同じ著者による『脳とクオリア—なぜ脳に心が生まれるのか』の新書版といった感じ。まだ最初の方しか読んでいないので詳しくは説明できませんが、とりあえず「クオリア(Qualia)」という言葉について軽く説明をすると、ぼくもこの言葉は文藝の保坂和志特集に掲載されていた茂木氏と保坂氏の対談で初めて知ったのですが、一言で言えば「私たちの感覚に伴う鮮明な質感」ということで、たとえば「太陽を見上げた時のまぶしい感じ、チョコレートが舌の上で溶けて広がっていく時のなめらかな甘さ、チョークを握りしめて黒板に文字を書いた時の感触」のような個人的な意識の感覚です。ぼくたちは、世界を区別する際に<あるもの>が<あるもの>であるとして他のものと区別をします。意識の中でとらえる<あるもの>は、他の<あるもの>とは異なり、あくまでもそれでしかない<あるもの>として世界に存在します。この<あるもの>のユニークな感覚、これがクオリアです。多分。きっとそういうことだと思います。間違っていたらごめんなさい。

 茂木氏は問います。

意識の中で<あるもの>が<あるもの>として感じられるのはいかにしてか?
すべてを感じる存在としての<私>は、どのようにして生まれるのか?
<私>は、生まれる前は、どこにいたのか?
そして、<私>の存在は、死んでしまった後はどうなってしまうのか?
私たちの意識の中で、<あるもの>がまさに<あるもの>として感じられること、そして、そのような意識を持つ<私>が<私>であることの不思議さは、すべてを説明しつくすかのようにも見える科学的世界観に開いた穴として、私たちの前に存在している。

 客観的な物質のふるまいの法則を研究の対象としてきたこれまでの科学の方法論は、このような主観的な体験や問題を例外的に特別扱いしてきました。ですからこの種の問題の多くは、哲学や宗教が担当してきたのです。しかし、茂木氏はクオリアという概念を用いて、これまでの科学的なアプローチとは異なった方法でぼくたちの主体的な意識の問題についてアプローチをしようとしているのです。ね、すごく面白そうでしょう。

 さて、とうとう今週末に開館する森美術館ですが、開館記念展の「ハピネス—アートにみる幸福への鍵—モネ、若沖、そしてジェフ・クーンズへ」がとても面白そうで楽しみ。めちゃくちゃ混むだろうから、少し落ち着いてから行きましょう。でも、ひとりで行くのは嫌だなあ。

 この森美術館、平日は22:00(火曜日除く)まで、金土祝日前は24:00まで開館しているそうです。すげー!月曜日も開館しているのが嬉しい。

 夜、体調が少し心配だったけれど、走ってみました。気持ちがとても落ち着いて。

03年10月14日(火)

 なんとなんと、大好きなAdrian Tomineが映画『アダプテーション』の日本公開用のイラストレーションを描いているというではありませんか。うげー、パンフレットを買いに観に行かなくっちゃ!さらに、いつの間にか『SLEEPWALK』の日本語版も出版されているし!夏には来日までしてたのか!やけに最近「Adrian Tomine」で検索してくる人が多いと思った!くやしいー!

 Adrian Tomineにはオフィシャルなサイトがないので、今後このような情報を逃さないように、関連するいくつかのサイトを調べてみました。

出版社

  • Drawn & Quarterly: Adrian Tomine
    Adrian TomineやChirs Wareの作品を出版しているカナダの出版社のサイト。ここが一番の情報源かしら。
  • PressPop
    SleepWalkの日本語版を出版している会社。

記事

インタビュー

 どこかのまんが喫茶でオルタナティブ系のアメコミをまとめて置いてくれないかしら。

03年10月15日(水)

 本棚を整理しました。読んでいないけれど必ず読む本を寝床のそばの小さな本棚に、読んでいないけれどおそらく読まないであろう本は大きな本棚に。ああ、本の整理って本当に楽しい。本を読むよりもずっと楽しい。

 今月号の「スタジオボイス」を購入。特集は「アートブック150」。この特集、めちゃくちゃいい。気になるアートブックがたくさん。スタジオボイスのこの種の特集は、本当に重宝します。何冊か、ちらしにパクれそうな、じゃなくて気になったアートブックをWebで調べてみたのですが、簡単には手に入らないものが多く、手に入ったとしても値段が高い。本当に参考になりそうなものは、こっそりと鉄割のお金で買ってしまいましょう。それから、この号には『ルールズ・オブ・アトラクション』の監督ロジャー・エイヴァリーのインタビューが掲載されています。読めば読むほどに期待は高まるばかり。

 2ちゃんねるで推薦されたコンピュータ関連書籍を紹介する、2ch Booksというサイトを発見。こりゃ便利。

 ご報告。おかげさまで、Amazonアソシエイトプログラムの2003年第三四半期の売り上げは、130,851円になりました。わたくしの紹介料は4,090円です。これも偏に皆さまのおかげです。紹介料に少しお金を足して、以前からずっと読みたかった『J2EEパターン—明暗を分ける設計の戦略』か、あるいは最近話題の『実践J2EE システムデザイン』のどちらかを購入させていただき、今後もより精進させていただく所存でございます。

03年10月16日(木)

 今日からドラマ『TRICK』が始まります。さっさと家に帰って身を清めて待機しなくてはと思っていたのですが、夕方に中島君よりメールで「本日、チョコレートパフェを食べに行かないか(原文ママ)」とのお誘い、それは是非とも行かねばなるまい、結局池袋でパフェ三昧。最近、鉄割の中で影の薄い中島君ではありますが、お元気なようで一安心。

 近況などを交えていろいろと話をしましたが、その中で一番心に残ったのは次のような話、中島君曰く、前回の登山で君は落石から一命を取り留めたそうだが、あれは落石事故に君が遭遇したのではない、むしろ君がいたからこそ岩が落石してきたのだ、君がいなければあの時あの場所で岩が落石することなどなかった、落石を受けたのが、内倉君でも渡部君でも戌井君でも愚弟でもなく、他ならぬ君であったことは、偶然ではなく必然である、中島君はパフェをぱくり、続けて曰く、そして落石が頭ではなくザックに当たったのも、つまり悲劇的な事故ではなく笑い話で済んだのも、偶然ではなく必然である、君はそのようなずっこけ君としてこの世に生を受け、死んでいくのだ、ぼくは答えて、即ちそれがぼくの運命ということか、にやりとして中島君、運命というよりも性質だ、それが君のずっこけ性質なのだ、加えてわたし自身にもそのずっこけ性質は備わっている、もしもわたしが登山に参加していたら、やはりおそらくは落石を招いていただろう、ぼくは答えて、ふむ確かに、岩はぼくの頭上でふたつに割れて落石してきた、つまり、片方はぼくのザックに、片方は君のザックに落ちるはずだったのかもしれない、なるほど得心、あの時のあの岩は、那須で仕事をしていた君に向かって落ちていったのか。中島君は笑って、お互いずっこけも楽じゃねえやな、とパフェをぱくり、ぼくも答えて、ちげえねえ、とパフェをぱくり。

03年10月17日(金)

 なにガンつけてんだこら。

 夕焼けを全身に浴びてふらりと古本屋さんへ、白洲正子『近江山河抄』を購入、ふらりふらりと本屋さんへ、『鎌倉物語』の二十巻を購入、ふらふらふらりと古本屋さんへ、カール・セーガン『人はなぜエセ科学に騙されるのか』の上下巻を購入、さらにほわわんと古本屋さんへ、鈴木大拙『禅と日本文化』『対話 人間いかに生くべきか』購入、ぷるるるんと古本屋さんへ、朝永振一郎『物理学とは何だろうか』上下巻を購入。

 朝永振一郎氏の『物理学とは何だろうか』は、先日買った茂木健一郎氏の『意識とはなにか』の巻末の「より詳しく知りたい人のためのブックガイド」で挙げられていたもの。物理学の知識が皆無のぼくは、ここらへんから物理学というものを勉強しましょう。

 夜、昭の字から電話、明日の夜中に東京を出て山形へ行かないか、とのこと。何も予定はないので、承諾。山形なんて生まれてから一度も行ったことがないし、行こうと思ったこともない。どんなところなのか、イメージも湧かない。楽しみ。

03年10月18日(土)

 古本屋さんで、西田幾多郎『哲学概論』を購入。 西田先生による哲学講義。開いてみると、前半にはびっしりと線が引いてあるにもかかわらず、後半は書き込みひとつなくきれいな状態。それではわたくしが、熟読して後半にも線を引いてあげましょう。その前に『善の研究』、一日に二、三ページが限界ですが、絶対に年内に完読してやるぞう。

 夜、『この森で、天使はバスを降りた』を観ました。舞台であるメイン州のギリアドという町は、「神が最も美しい土地だと降臨した」と言われるているそうですが、映像がいまいちだったので、その美しさが伝わってきませんでした。ストーリーも前半は良かったのですが、後半が感動を強要するようでがっかり、ですが主演のアリソン・エリオットがとても良かったので、許してあげましょう。

03年10月19日(日)

 戌井さんと奥村君とDJ子供くんと山形へ行ってきました。

 在住のたかおさんの案内で、朝日岳連峰の向かいに位置する天狗角力取山という素敵な名前の山を登り、一面の紅葉を満喫しました。標高1376mの低い山なので、軽いハイキングのつもりで登り始めたのですが、思ったよりも傾斜が急で、なかなか登りごたえがありました。

 山形の山は、当然ですが北アルプスの様子とは異なり、標高が低いためか頂上でも草木が覆い茂げり、山肌も柔らかく、空気もきれいで、なによりも人が少なくてとても素敵な場所でした。山小屋も大仰ではなく、寝るためだけのこじんまりとしたかわいらしいもので、ごはんなどは出るはずもなく、たかおさんの持参した枝豆でまめごはんを作って(というか作ってもらって)、ベーコンと卵を焼いて食べました。そうこうしているうちに、夕焼けの光に覆われて、紅葉がさらに美しく映え、紅茶にラム酒をたらして飲みながら、緩やかな山登りもなかなかいいじゃないと口々に。

こうよう

 山小屋は、今の時期だと平日はほとんどがらがらで、上手くいけばほとんど貸し切り状態になるそうです。男三人、女三人ぐらいで来て、ここでコンパを開いたら楽しいかもしれない、と思いました。絆も深まるし。

03年10月20日(月)

 山形二日目です。

 帰りは、行きとは別のコースを選び、障子ガ岳を経由して出発地点であるバカ平を目指しました。前半はほぼずっと稜線歩き、絶景と紅葉に囲まれながら、それぞれのペースでゆっくりと。昭人さんはたばこを吸いたい、うんこしたい、虫に刺されたと大騒ぎ、奥村君はオナニーしたい、登山は装備だ、エフェクター欲しいと大騒ぎ、はて、このような状況は以前にもありました、そうだ、三年前に軽井沢で。

 下山後、汗を流しましょうということで古寺鉱泉へ。その道中、道を間違えて約三十分ほど山道を迂回してドライブ、走る車の周りには秋に色付く山の風景のみ、曲がり道ひとつなく延々と続く山道に、これまでの人生で経験をしたことがないような至福、このドライブが今回の旅行で一番心に残っております。

 古寺鉱泉は、朝陽館という朝日連峰登山口にある旅館で、駐車場から渓流に沿ってしばらく歩くと、森の中にぽつねんと、とても良い雰囲気で建っており、入り口には元ヤンキーと思しきあんちゃんが玄関を掃掃除、鉱泉に浸かりたいと声をかけると、一度に五人は入れないので、交代で入ってくれとのこと。茶褐色の鉱泉に登山の疲れを癒します、紅葉の思い出にひたります、このままここで眠りたい。

こでら

 早くに隠居して、このような場所で時を過ごしている自分を想像して、にやにやとしているとお腹が減ってきました。空には地面に一直線の飛行機雲、墜落かアクロバットかと騒ぎながら蕎麦屋さんへ、出てきたのは馬鹿でかい板に蕎麦、日本酒の一杯も飲みたいなあと思いつつ、今飲んだらそのまま眠ってしまうことは必至ですから、お茶で我慢して板蕎麦を堪能。

 幸せな気分のまま、車の運転は人に任せて東京へ。なんとまあ、長閑な旅行だったことでしょう。また近いうちに行きましょう、山形。少人数で。

03年10月21日(火)

 なにやら空がどんよりと。

 図書館で、文學界やら群像やら新潮やらを読んで過ごす夕方、今月号の文學界は内田百けんさんを特集している。しかも、大好きな松山巌さんが百けんさんについて座談してるし。わお。

 座談会の中で松山氏は、百けんさんの文章について、少なくとも二十代を過ぎて暇にならないと分からない面白さ、と言っている。それを読んで思ったのだけど、例えばぼくが今、百けんさんの文章、特に随筆などを読んで面白いと感じるのは、奇妙なおやじがいるなあという風な、いわば百けんさんとその文章を外から眺めたような、少し距離を置いた楽しみ方で、その奇妙な面白さを楽しんではいるけれども、それは身に染むような楽しみ方ではなくて、例えば漱石の小説や随筆を読んだ時のような体が震えるほどに身に染む感じを、百けんさんの文章から感じることはあまりない。それを感じるには、松山氏の言うように、ぼくはあまりにも(精神的に)若過ぎるのかもしれない。この距離を隔てた楽しみ方が嫌かと聞かれればそんなことは全然ないし、あと何年かしてあらためて百けんさんの文章を読んだ時に、それまでと異なる面白さに気付いたとしたら、ああわたしもとうとうこの面白さが身に染む歳になったのかとしみじみ実感するのでしょうから、それはそれで楽しみだし、若合春侑さんも今回の特集で書いておりますが、百けんさんの作品のすべてを老後にゆっくりと読みたいと思っているわけです。そんなわけで少しでもひねくれた翁になるべく、日々を精進。

 ニキ・カーロ監督『クジラの島の少女』を観ました。伝説と伝統に生きる、マオリ族の一家に生まれた少女のお話。物語もキャストも演出も、最高に良い映画でした。こういうほのぼのとした映画、大好き。おじいちゃんの大人げない振る舞いがむかつきを通り越してかわいい。良い映画を観ると、帰りの電車まで楽しくなる。

03年10月22日(水)

 新しく創刊した雑誌『Ku:nel』を立ち読みしていたら、武田泰淳・百合子夫妻の娘である武田花さんが両親のことを語っている記事を発見。子供の頃、花さんは母親である百合子さんに「すぐに迎えに来るからここで待ってて」と言われてそのまま忘れられてしまい、周りになにもない石切り場で数時間ひとりきりで放置されたことがあるそうです。現在写真家として活躍する花さんですが、今の彼女が撮る写真の風景は、その時に母親を待ってひとりで見ていた風景と似ているような気がする、と記事の中で言っています。なんとなく心に残るお話。

 戦場カメラマンであるジェームズ・ナクトウェイを追ったドキュメンタリー映画『戦場のフォトグラファー』を恵比寿の写真美術館で観てきました。映画自体は面白かったし、ナクトウェイの写真もさすがに衝撃的でしたが、ナクトウェイ氏の姿勢や発言が、最初から最後までなんとなく釈然せず、うーん、頭がごちゃごちゃしているので、このことについてはまた後ほど。

 写真美術館で現在開催中の『〜士(さむらい)〜日本のダンディズム』展がめちゃくちゃ観たい。今日は時間がなくて観ることができなかったので、また今度ゆっくりと観に来ることにしましょう。11月15日は、普段は高知でしか見ることができない「坂本龍馬像(一番有名な龍馬の写真)」が写真美術館にやってくるらしいので、その日に行こうかな。

03年10月23日(木)

 本屋さんを徘徊。昨日、『戦場のフォトグラファー』を観て、未読だったスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を思い出し、購入。ついでに文庫になった関川夏央著『二葉亭四迷の明治四十一年』も購入。二葉亭という明治の文人を中心に描いた、明治の群像物語。こちらも読むのが非常に楽しみ。

 夜は三軒茶屋で、いわしを食す。がぶりがぶりとお酒と共に。

 会に来ていたある方が、なんと雪山を経験しているということで、それならば是非にということで、今年の春先ぐらいに、雪山をご同伴していただくことを確約いたしました。まだ二年ぐらい先になる予定だった雪山登山、思いがけず早速に挑戦することに。酒の席での話などとは言わせません。冬山をなめていては殺されます、毎日の踏み台昇降運動の時間を、明日から倍にしましょう。内と戌も、さっそくトレーニングを始めてください。

 アイゼンやらピッケルだの、冬山登山の用具を買わなくてはいけません。

03年10月24日(金)

 雲ひとつない青空!

 「新潮」のたしか十月号だったと思うのですが、釈迢空の特集で、川本喜八郎氏が釈迢空の『死者の書』をアニメーションにしていると書いてあったことを思い出して、ちょっと調べてみたところ、川本喜八郎氏のサイトで、大々的に『死者の書』のアニメーション化を宣伝しておりました。予定を見ると完成は来年の九月、ううむ、随分と先ですねえ。期待して待ちましょう。

 数年前に戌井宅から無断でお借りしたバリー・ユアグローの『セックスの哀しみ』という短編集があるのですが、先日、本棚の奥で眠っていたその本を発見し、うんこをしながら読んでいたところ、あまりに面白過ぎてうんこの時間が長引きました。それでうんこをするのをやめて、床に横になってさらに読み続け、半分ぐらい読み終えたところでこの短編集の原題が気になったので本の最初を開いたところ、かわいらしいAmazon.comのメモが貼り付けてあり、そこにはこの短編集を翻訳された方から戌井さんへの素敵なメッセージが記されておりました。どうやらこの本は、翻訳者さんからプレゼントされたものらしい。戌井という人に対して、悪いことをしたという気持ちを持つことはほとんどないのですが、さすがこのメモを見たら、この本を無断で拝借して少々悪いことをしたなと思いました。自分の好きな人や尊敬する人から送られた本というものは、とても大切ですから。ぼくも大好きな人からいただいた本を、今でも大事にしています。でもまあ、かわいい後輩のしたことですから、あまり気にはしていません。この本は、次の訪問の時にでも、こっそりと返しておきましょう。少し早いサンタさんからのプレゼントということで。

 夜、フランソワ ・オゾン監督『8人の女たち』を観ました。最初はどうなることかと思いましたけれど、かなり面白い映画でした。『ピアニスト』のイザベル・ユペールがとても良かった。最初は彼女だと気付かなかったけれど。

03年10月25日(土)

 英国図書館のサイトが、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の初版と第2版の全文を公開したそうです。ちなみにCaxtonというのは、William Caxtonというイギリスで最初に印刷を始めた方のことで、今回公開されている『カンタベリー物語』は彼によって印刷された版だそうです。

 クエンティン・タランティーノ監督『キル・ビル』をさっそく観てきました。映画の中で描かれている日本は、監督が青春時代にメディアを通して知った夢の日本の姿とのこと。いやー、おもしろかった。毎度のことながら、ルーシー・リュー最高。栗山千明もとても良かった。千葉真一、あそこまで素敵な演技をするとは思いませんでした。もう一回観に行っちゃおう。ちなみに、観賞後にトイレに行ったところ、映画の内容に激怒している二人の若者がおりました。

 種類は全然違うけれども、自分の好きな映画をパロディ的にオマージュしてしまったという点で、『8人の女たち』に通じる監督の映画への愛を感じました。両作品ともに、オマージュしている映画のことは何も知らないのですけれど、ぼく。

03年10月26日(日)

 昼過ぎ起床、本日は何も予定がないので読書を三昧いたしましょう。

 先にも書きましたが、ここのところずっと西田幾多郎の『善の研究』を一日に数ページという遅読しておりまして、併せて西田哲学に関連する書籍などにも目を通し、理解の助けにしようと思っているのですが、西田哲学を知ろうとすれば京都学派を無視するわけには行かず、調べるうちに田辺哲学というものにも興味がわき、田辺元という哲学者に関連する書籍などを探すも、本人の全集すらなかなか見つからない始末。それで思い出したのが、以前に読んだ保坂和志氏と中沢新一氏の対談で、中沢氏がちょうど田辺哲学を論じた書籍を上梓したばかりで、保坂氏の哲学と田辺哲学を比較していたように記憶していたので、調べてみるとやはり中沢新一著『フィロソフィア・ヤポニカ』という田辺哲学と西田哲学を扱った書籍がありました。即買い。

 フランソワ・オゾン監督の『まぼろし』を観ました。主人公は、シャーロット・ランプリング演じる大学教授のマリー。冒頭、とても印象的な海のシーン。夫婦で訪れた先の海岸で、夫は突然に彼の肉体と共にその存在を消してしまう。その後に描かれるのはマリーのあまりにも危うい精神の状態、存在を失ってしまった夫のまぼろしを相手に、彼女は現実を忘れようとします。

 人が愛する人を失う場合、例えばそれが不慮の事故や病気によって亡くなったのであれば、埋葬という儀式によってその現実を理解し、乗り越えることができるかもしれないし、あるいは別れによって相手が自分の前から姿を消したのであれば、時間が忘れさせてくれるかもしれない(もちろんそれはとてつもなく長く、とてつもなく辛い時間になるだろうけれど)し、あるいはまた別の恋人を作ることによって忘れることができるかもしれません。『まぼろし』の主人公であるマリーは、この両方の可能性を抱いたまま、突然愛する人が自分の前から消えてしまったという現実だけが残った状態で、ひとりで生活をすることを強いられます。昨日までは一緒にいて、明日からも一緒にいるはずだった夫の存在が、ある日を境に突然消えてしまう。彼女にとっての不幸は、夫がいなくなったことでも、夫を喪失したことでもなく、夫の死体が存在しないこと、あるいは夫が失踪したという証拠がないこと。それは同時に救いなのかもしれないけれど、彼女は夫の記憶を思い出にすることも、あるいは忘れることもできないまま、ただまぼろしと会話し、まぼろしと共に生きる。

 印象的なシーンはあまりにもたくさんありすぎて、そのすべてを挙げることはできませんが、特に好きなのは、マリーが大学の講義で朗読をするシーン。彼女が読むのは、ヴァージニア・ウルフの『波』。シャーロット・ランプリングの美しい朗読が、とても哀しい。(知られていることですが、ウルフは1941年に入水自殺をしています)

 この監督の作品はまだ二作(『8人の女たち』)しかみていないし、その二作とも作風が異なるのでなんともいえないけれど、『まぼろし』のDVDに特典として収録されていた短編(これがまた良かった)なども併せてを観て思ったのは、ぼくはこの人の作品の映像の質感(『まぼろし』は前半は35ミリ、後半がスーパー16で撮られているらしい)がとても好きで、風景の切り取り方も、登場人物のセリフも動きも、すべてが完ぺきに近いほどにぼくの好みにフィットしているということで、この監督の作品を他にも観てみたいです。

03年10月27日(月)

 SWISS WATERは毎日飲むには少々高価なので、少し安めのULIVETOにしてみました。走った後に飲むと、なんでもおいしいのよね。

 岩波から出ている『日本近代思想案内』を購入。最初の数章を読む、面白い。明治の初頭、西洋の文化を積極的に取り込もうとした当時の啓蒙思想家たちが洋書に向かったとき、「個」という概念がなかった彼らの前に現れた「individual」や「individuality」という言葉は、独特の新鮮さと戸惑いを与えたようで、最初は「分タレヌ事」と訳され、西周が「人々」「個々人々」、中村正直が「独自一箇」「各自一己」「人民各箇」、福沢諭吉が「独一個人の気象」と翻訳し、少しずつその概念を明確にしていったそうです。ううむ、これはめちゃ興味があるぞ。

 異なる概念と異なる言語を有する他者・他民族同士の間での翻訳という問題については以前から興味があって、それはこの間お亡くなりになったドナルド・デヴィドソンのradical interpretationなんかを勉強したほうが良いのかもしれませんが、とりあえず、あらゆる概念を西洋と異にする開国直後の日本という文化が、西洋の言語と概念をどのように翻訳し、解釈し、咀嚼し、導入してきたのか、それを知りたいと思い、丸山真男・加藤周一共著『翻訳と日本の近代』を購入いたしました。これまた面白そう。

 夜、今週の土曜日の武蔵大学の学園祭で簡単な演目を行うというので、稽古場へ。その後、居酒屋へ。戌井さんは『8人の女』を観て眠り、内倉君は『まぼろし』がとてもつまらなかったらしく、本当にこの野郎どもとは趣味が合わないことをあらためて実感、仕方がないのでクンニの話などをしたところ、話が合いまくり、さらにうんこの話をしたところ、大盛りあがりましたので、めでたしめでたし。

 帰宅後、『X-MEN』と『X-MEN2』を連続で観賞。ううむ、まさしく猫目小僧だ。このような映画を、現在のアメリカの子どもたちは、どのような気持ちで観ているのだろう。

03年10月28日(火)

 さて、今月も月末となりまして、例のごとく金欠です。お給料日まで少し節約の生活を心がけましょうと思いながらも、古本屋さんで高坂正顕著『西田幾多郎と和辻哲郎(絶版)』を購入しました。西田幾多郎、明治3(1870)年生まれ。和辻哲郎、明治22(1889)年生まれ。明治を代表する哲学者(『善の研究』明治44年)と、大正を代表する思想家(『古寺巡礼』大正8年)の関係を、明治33年(1900)年生まれの高坂正顕が明治と大正という時代を比較しつつ描きます。

 高坂氏は和辻氏の個人主義を象徴するものとして、以下の言葉を挙げています(この言葉が自己の信念を持っていないことを意味するのではない、と断ってもいます)。

私は私の信条を持っていない。信仰個条の意味でも、また政治的立場の意味でも、総じて信条なるものを奉じていない。たといそれが絶大な権威によってであるにしても、他から信条を課せられるということは、私は欲しない。

 京都学派に対する興味は増すばかり。一緒に、西田幾多郎に関する論文が収録されている同氏の著作集第八巻と、雑誌「太陽」の特集「禅のかたち」も購入。買いに読みが追いつかず。

03年10月29日(水)

 雨上がりの朝。空気が気持ちいい。

 学生の頃は良く読んでいた村上龍の小説ですが、ふと気付けばもう何年も新作を読んでいません。それ以前の作品の中で特に好きだったのは、『69』と『昭和歌謡大全集』の二作なのですが、その両作品とも映画化が決定していたのですね。全然知りませんでした。特に『昭和歌謡大全集』はもうすぐ公開とのこと、ちょっとだけ観てみたい。確か最後、核兵器かなんかで町を吹っ飛ばすんじゃありませんでしたっけ?

 カール・セーガン著『人はなぜエセ科学に騙されるのか』の上巻読了、めちゃくちゃおもしろい。簡単に言えば、『TRICK』の上田教授の『どんとこい超常現象』みたいなもので、巷間に流布するいわゆる「宇宙人による誘拐、交霊術、テレパシー、超能力」などの似非科学を、さまざま実例を挙げて徹底的に検証します。似非科学は厳密に検証されることを好みませんから、これはたまったものではありませんよ。どうする似非科学。どうする超常現象。

 セーガン氏が書の中でなんども強調するのは、人間がいかに間違いやすい生き物であるか、根拠も証拠もないでたらめを、実証も論証も検証もせずに信じ込み、歴史的にどれだけの過ちを犯してきたかということで、あらゆる似非科学はほとんどが人々の勘違いであるか、あるいはそれによって利益を得ることのできる一部の人々の謀略によって生み出されたものであると言います。ここまで言っていいのかしらと思うような過激な意見も多々あり、読んでいて気持ち良いやらはらはらするやら。

 セーガン氏の主張のすべてを無条件に肯定するつもりはありませんが、それでも強く共感します。人が何か(宇宙人による誘拐、心霊現象、UMA、超能力、etc)を信じるのに、根拠なんて必要ありません。必要なのは、それを信じたいか信じたくないかという「気持ち」だけです(それは時には「霊感」などという便利な言葉で表現されます)。科学は反証されることによって展開し、超常現象と呼ばれる似非科学は反証されないことによって持続します。下巻を読むのがとても楽しみ。

03年10月30日(木)

 すっかり日が落ちるのが早くなりました。耳を澄ませばスイリリリンスイリリリンと鈴虫が鳴いております。

 古本屋さんの100円コーナーで蓮實重彦著『凡庸さについてお話させていただきます』を購入。『ボヴァリー夫人』のフローベール氏の友人であり、『悪の華』のボードレールから詩を捧げられているというだけで歴史に残っているマクシム・デュ・カンという、蓮實氏曰く、「冴えたところのまったくない、たぶん駄目な、また可愛いところはあったのかもしれないけれど、およそ、突出する部分というもののない凡庸な人」をとりあげて、蓮實先生が「凡庸さ」について語ります。ここで言う凡庸とは、才能の対極としての凡庸ではなく(蓮實氏によれば、そのような紋切型の構図そのものが凡庸ということ)、「愚鈍さ」に対立する関係としての「凡庸さ」のことであり、「愚鈍さ」とは「ものの感じられることのできないような何かまがまがしいもの、ただそこにあることでわれわれを脅えさせるようなもの」のこと。良く分からないでしょう。ぼくも良く分かっていませんけれど、ようするに、マクシム・デュ・カンさんは、なんの禍々しさもなく、そこにいてもじぇーんじぇん恐くもなければ気にもならない人物、ということでしょうか。

 このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。彼はその人生において、旅行記から小説、詩、文芸評論、美術評論、ルポタージュ、さらに写真まで発表しているのですが、現在、それらの彼の作品群は、歴史的資料としての価値以外には全く評価されず、図書館の資料室の奥の奥に眠っております(数年前、日本で「凡庸な人」としてのマクシム・デュ・カン展というものが行われたので、その時に持ち出されているかもしれませんが)。

 このマクシム・デュ・カンさんに関しては、蓮實重彦氏による『凡庸な芸術家の肖像』という別の著作でその生涯を詳しく読むことができます。蓮實氏が「凡庸さ」についてどのようなことを言いたいのか、ぼくにはいまいち良く分からないのですが、「才能がある」ということが、実際にどのようなことを差しているのか、そして「いったい何故、かくも多くの凡庸な人間たちが才能について語らなければいけないか」ということに関しては、少し深く考える必要があるかもしれません。ちなみに、「才能」とか「センス」とかいう言葉は馬鹿っぽくて大嫌いです。

 夜、京都の方と電話でお話、関西の人間は性欲が強いので三十過ぎても一日二回以上はオナニーをするのでありますということを、一時間以上にわたって伺いました。

03年10月31日(金)

 早くも今月最後の日です。人を待たない光陰には、どんどんと先に行ってもらいましょう。

 夜、自宅でお茶を飲みながらゆっくり読書。大好きな和辻哲郎の『古寺巡礼』と、堀辰雄の『大和路』を読み返してみました。まだ若い頃にこれらの随筆を読んだ時は、もう少し年を経れば彼らのようにものに接し、ものを感じることができるものだと思っていたけれど、数年を経て未だぼくの精神は熟さず、仏像に接して思うのは、乳首がでかいとかそのようなことばかり。数年前には、和辻さんの「不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている」なんていう一文を読んで、こんな人でも同じような悩みを抱えていたのだと安心したりもしたけれど、今では安心どころか心配すらしない始末、よくありません。とりあえずマラソンをして汗をかきましょう。

 来月もよろしくお願いします。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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