03年07月10日(木)

 散歩しながら考えたことなどを少し書きたいと思う。

 ぼくは無前提的な「AはB、だからC」という式を嫌悪する。そのような式を盲信する輩を軽蔑する。宗教は、神という絶対的な価値観を前提としているため、実証を必要としなかった。そこに必要なのは、言葉による理解可能な物語と実感としての世界観だけである。近代において、世界は神という絶対的価値観をはるかに凌駕するほどにそのシステムを進化させた。結果、世界を語るには物語を越えた実証が必要となり、科学が生まれた。科学は絶対的な価値観を持たない。科学における価値観は、実証によって初めて生まれる。科学に絶対的な価値観があるとしたら、それは「世界は実証されなくてはならない」ということだろう。人々は科学によって実証的な世界を得たかのように思えた。しかし実際に人々が得たのは、「実証主義」を前提とした科学という新しい物語に過ぎず、「実証された世界」ではなかった。科学自体は実証的であっても、人々が得た科学の語る物語は、結局のところ無前提的な「AはB、だからC」に過ぎなかった。

 結果は原因を伴うと考える人がいる。結論は根拠を伴うと考える人がいる。現象は過程を伴うと考る人がいる。理解を超えた事件が起きれば、その事件が起きた背景を考え、自分たちが納得することのできる原因をでっちあげて安心する。すべての結果を原因で消化しようとする。そうしないと、存在が不安定になるかのように。人類は、常に理由を求めてきた。常に原因を探ってきた。言葉を使用して、物語を生み出してきた。否、物語をこじつけてきた。

 想像を超えた事件の原因をこじつけるのは簡単だ。加害者の幼児期の体験、受けた教育、社会の歪み、インターネットの普及、ゲームや漫画の暴力性、分かりやすい理由をでっちあげて、加害者は加害者であると同時にそれらの犠牲者でもある、と考えれば、誰もが納得して安心することができる。分かりやすい原因を想定することによって、理解できないことを理解しようとする。確かにそれらは、事件が起きた背景の一因であったかもしれないけれども、だからといって事件を理解したと考えることは非常に危険である。理解できないものを、理解できるかたちでのみ理解しようとしている限り、また別の想像を超えた悲劇は起きる。世界はぼくたちの理解の中に存在する。けれども、事件はぼくたちの理解の中で起きているわけではない。

 理解できないものは理解できないままに放置しておけと言いたいわけではもちろんない。理解できないことを、都合のよい形で理解してしまう危険性について考えているのだ。

 そしてもうひとつ付け加えると、実は人が求めるのは「理解」ではない。理解しているという安心感である。だから科学的に実証されたとする「AはB、だからC」という式をなんの疑いもなく受け入れ、その命題に合せて世界を変更する。たとえその式に、実感がなくとも。

 ぼくが聞きたいのは「なぜぼくたちは、実感なしに確信することができるのだろう?」ということだ。他人から与えられた「AはB、だからC」という式に制御された世界に生きて、なぜそれが正しいと確信することができるのか。実感とは、前提である。実感の伴わない確信を、ぼくは嫌悪する。


Sub Content

雑記書手紹介

大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

最近の日記

過去の日記

鉄割アルバトロスケットへの問い合わせはこちらのフォームからお願いします

Latest Update

  • 更新はありません

お知らせ

主催の戌井昭人がこれまで発表してきた作品が単行本で出版されました。

About The Site

このサイトは、Firefox3とIE7以上で確認しています。
このサイトと鉄割アルバトロスケットに関するお問い合わせは、お問い合わせフォームまでお願いします。
現在、リニューアル作業中のため、見苦しい点とか不具合等あると思います。大目にみてください。

User Login

Links