03年04月19日(土)

 久しぶりにお会いしたお友達が、舞城王太郎氏の作品を全部読んでいるということを聞いてびっくり。初めてです、ぼくのまわりで舞城氏の作品を読んでいるという人。

 お話をしていてぼくが一番聞きたかったのは、『熊の場所』に収録された『ピコーン』のことで、あのフェラチオの描写は素晴らしいよねー、と言いたかったのですけど、下手なことをいうとセクハラになってしまうのかしらと危惧して聞くことが出来ませんでした。言いたいこともまともに言えない、世知辛い世の中です。

 それでその方とお話をしてたら、今読んでいる本の話になって、ぼくが舞城王太郎氏の最新作『九十九十九』を出したところ、その方は池谷裕二氏と糸井重里氏の『海馬』という本を教えてくれました。この池谷裕二というお方、どこかで聞いたことがある名前だと思っていたのですが、先日紀伊国屋で本を購入したときに、レジの横にこの方の著書が並べてあったのがこの方の別の著書でした。『海馬』の中身をちょこっと見せてもらったところ、なかなか面白そうな内容で、記憶力が人百倍悪いぼくには興味深いことがたくさん書かれていました。

 早速次の日に本屋に行って『海馬』と同じ池谷氏の著書である『記憶力を強くする』の二冊を購入して読んでみたのですけど、うーん、なんか、生きる希望が湧いてきます。最初はよくあるHow-To本かと思っていたのですがそんなことは全然なくて(HowToなんて全然書かれてないし)、脳というものは使えば使うほど鍛えられるものであり、年齢を重ねるごとに記憶力が悪くなるというのは、努力を怠っている人の言い訳に過ぎないとかいうことが科学的に書かれていて、脳という構造に興味はあるけど知識は全然ないぼくのような人間には、なかなか勉強になる本でした。ごめんなさい、まだ半分ぐらいしか読み終えていないので、あまり具体的なことは書けないのです。とにかく、脳は三十才を越えてからがいい感じらしいよ。

 この本を読んで初めて知ったのですが、「海馬」という大脳皮質は、記憶を貯蔵する場所ではなく、すべき記憶を取捨選択する場所なのだそうです。記憶は、一ヶ月ほどは海馬に留まりはするものの、その後は「側頭葉」に移動して貯蔵されるということです。ふへー、そうなんだ。てっきり、記憶はすべて海馬に貯蔵されているのだと思っていました。

 また、海馬を失った場合、エピソード記憶(個人の思い出など、出来事に関する記憶)に影響が出るけれど、手続き記憶(身体で覚える記憶)には影響しないとのことです。海馬を失ったある被験者に、鏡を見ながら文字や図形を書いてもらうテストを行ったところ、テストを行ったという記憶は失われるものの、文字や図形を書く技術は日々上がっていったというのです。「身体で覚える」記憶は、海馬を失っても正常に貯蓄されているのです。はー、すげー。

 とくに興味深かったのは、「海馬」と「感情」の関係で、これは個人的なことなのですが、何か出来事があったり、あるいは何かを思い出したりして、悲しくなったり嬉しくなったりしたあとに、その感情の原因である出来事や思い出が何であったのかを忘れてしまい、感情だけが残る場合があります。あれ、なんでぼく今嬉しいの?とか、なんで悲しいんだっけ?とか。でも感情だけは残っているから、妙にやきもきするの。おかしいでしょう。この話を人にすると、大抵おかしいと思われます。これに関連することが『海馬』の中に書かれていて、それによると、「感情」は「扁桃体」という皮質から生まれ、海馬はその「感情」の記憶とは関係がないらしいのです。ようするに、「エピソード記憶」と「感情」は別々に処理されているわけですね。そう考えると、何で嬉しいのかとか、なんで悲しいのかとか、その原因を忘れることがあっておかしくないわけです。まあそれでも、現在進行の感情に関する記憶を忘れてしまうというのは、ぼくはそうとう馬鹿ということになるのでしょうけど。えへへ。

 数年前にテレビで、病気で海馬を失った人を観たことがあります。(『記憶力を強くする』で少しだけ触れているRBという人がもしかしたらそうなのかもしれません)その人は熱病から回復した後に、海馬の神経細胞がすべて死んでしまい、それ以来記憶するということが出来なくなっていました。朝食を食べたかどうか忘れてしまうために、朝食を食べたらメモをする。昼食を食べたかどうか忘れてしまうために、昼食を食べたらメモをする。とにかくすべてを忘れてしまうために、片っ端からメモをする。そして、メモをしたことを忘れてしまうからまたメモをするという具合で、側頭葉に貯蓄されるべき記憶を取捨選択する海馬を失ったその人は、一切の記憶をすることが出来なくなり、インタビュー中に、自分がなにをしているのか忘れてしまうこともしばしばありました。記憶を貯蔵している側頭葉はダメージを受けていないので、ある期間以前の記憶はすべて残っているのに、海馬を失った以降の記憶は一切ないのです。

 脳に関するそのような症例は、たとえばオリヴァー・サックスの『妻を帽子と間違えた男』などで詳しく読むことが出来ます。「妻の頭を帽子とまちがえてかぶろうとする男。日々青春のただなかに生きる90歳のおばあさん。記憶が25年まえにぴたりと止まった船乗り。頭がオルゴールになった女性」など、いろいろな脳障害の症例が紹介されています。

 記憶というのは、個人のアイデンティティと強く関わってくると思います。映画『アイリス』を観たときにも感じたのですが、たとえばアルツハイマーで自分の記憶をすべて失ったとき、その人は、その人でいることができるのか。もしその人が記憶に関係なくその人であるとしたら、アイデンティティとは一体なんなのか。以前の雑記でも同じようなことを書いていますが、このことは脳死や臓器移植の問題にも深く関わってくるので、ここで短絡的なことを書くことは控えますが、今後も深く考えていきたいと思います。

 去年ぐらいから考えていることがあって、脳という構造、とりわけそこから生まれる「記憶」というもののことを考えるとき、記憶と歴史の関係というか、どうして動物には歴史がないのかとか、どうして人間は伝達された記録を記憶として認識し、歴史として記述できるのかとか、記憶と物語のこととか、物語と現実のこととか、延いては言えば記憶と歴史と物語の関連性とか、動物にとっての言語とか世界とか、動物が木を見るときのこととか、まとめて動物についてとか、そのようなことに興味があります。どうしてそんなことに興味を持ったのかといえば、『脳』の大家である養老猛司さんの『身体の文学史』を読んだからなのですが、本日の雑記はずいぶんと長くなったので、この件に関してはまた後ほど。

 それにしてもこのような脳に関する本を読むたびに感じるのは、たとえばぼくが今、脳の専門家に頭をぱかっと開けられて、ちょちょいといじくり回されたら、それだけで感情も記憶もこの世界も、すべてあっという間に消滅してしまうのかという恐怖心(殺されるよりもそちらのほうが怖い)と、結局のところ脳が生み出す世界以上を感じることは絶対にできないという複雑な感情で、とか書くと観念論的にものごとを考えているように思われるかもしれませんが、そんなことは全然なくて、とりあえず自分の中でも考えがまとまっていないのでこちらも後ほど。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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