
05年05月12日(木)
吉本隆明著『読書の方法』を読み始めました。冒頭でいきなりこんな文章が。
自分の周囲を見わたしても、同類はまったくいないようにおもわれたのに、書物のなかでは、たくさんの同類がみつけられた。そこで、書物を読むことに病みつきになった。深入りするにつれて、読書の毒は全身を侵しはじめた、といまでもおもっている。
ところで、そういうある時期に、わたしはふと気がついた。じぶんの周囲には、あまりじぶんの同類はみつからないのに、書物のなかにはたくさんの同類がみつけられるというのはなぜだろうか。
ひとつの答えは、書物の書き手になった人間は、じぶんとおなじように周囲に同類はみつからず、また、喋言ることでは他者に通じないという思いになやまされた人たちではないのだろうか、ということである。もうひとつの答えは、自分の周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされているのではないか、ということである。
後者の答えに思いいたったとき、わたしは、はっとした。わたしもまた、周囲の人たちからみると思いの通じない人間に視えているにちがいない。
うかつにも、わたしは、この時期にはじめて、じぶんの姿をじぶんの外で視るとどう視えるか、を知った。わたしはわたしが判ったと思った。もっとおおげさにいうと、人間が判ったような気がした。
吉本さんの言うとおりに、「自分の周囲にいる人たちもみな、じつは喋言ることでは他者と疎通しないという思いに悩まされている」のだとしたら、どうして、人は他者に対してそのような思いを抱くのだろう。書物には共感しながらも、まわりにいる人に共感を抱かないのは、どうしてなのでしょう。それが気になる。
そして、このような「喋言ることで他者と疎通することの難しさ」を人に喋言っても、それを疎通するのはとても難しいのです。
05年05月11日(水)
05年05月10日(火)
夜、ふとんに入って夏目漱石先生の『私の個人主義』を読みました。個人と国家について述べたこの講演の記録は、ぼくにはまた違った意味で刺激的です。
私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
(中略)
私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新しく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。今は時勢が違いますから、この辺の事は多少頭のある人には能く解せられているはずですが、その頃は私が幼稚な上に、世間がまだそれほど進んでいなかったので、私の遣り方は実際已を得なかったのです。
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指示してくれたものは実にこの自我本位の四字なのです。
この部分だけを引用すると、非常に誤解をされそうなので、こちらをどうぞ。
この本を始めて読んだのは、たしか大学に入ったばかりの頃だったと思います。それから十数年を経て、未だこの「自己本位」に辿り着くことができないでいる自分を反省しながら、おやすみなさい。