
深夜二時に東京を出て、朝六時過ぎに一ノ沢登山口到着。天気は曇り、時々晴れ。山登りに最適な天候。
一ノ沢から常念岳へ続く登山道は、沢あり滝あり雪渓あり、歩いていてとても楽しかった。もちろん死ぬほど疲れたけど。
山ノ神でお祈りをして
沢で一休みして
初めての雪渓体験
水場で一休み
コースタイムはだいたい以下の通り。
一ノ沢登山口 --(0:20)-- 山ノ神 --(1:00)-- 王滝ベンチ --(2:00)--(一部登山道が途切れて雪渓に)-- 高巻き道 --(0:30)-- 最後の水場 --(0:40)-- 常念小屋
実は王滝ベンチや高巻き道がどこだったのかいまいちよくわかっていない。だから、アバウトなコースタイムだと思ってください。
常念小屋でビールを飲んで、一時間ほど眠って常念岳へ。何度かのフェイントの後、頂上へ。
コースタイムはだいたい以下の通り。
常念小屋 --(1:00)-- 常念岳 --(0:45)-- 常念小屋
標高2800mの頂上からの展望は、まさしく絶景。槍ケ岳が遠方よりぼくたちを誘う。
頂上から蝶ヶ岳に稜線が続くが、ガスが視界を遮る。明日、晴れたらこの稜線を歩くことになる。お願いだから晴れてくれ。
六時夕食。生ビールを飲んで今日の疲れを癒す。昨日ほとんど寝ていないために、八時を過ぎたぐらいで目を開けていることができず、八時半就寝。満月なのに、星は出ず。
明日は登山。深夜に東京を発つので、今日は早く眠らなくちゃなどと思いつつ、ついつい雑誌や本やWebを見たり。
雑誌「エンタクシー」第二号を購入。大竹伸朗氏の『ネオン星』というエッセイが素晴らしい。宇和島の大竹氏の家の近くにある高野長英の隠れ家跡の石碑、その石碑の道を挟んだ向こう側にある「ジャングル」というカラオケランド、ある雨の晩、大竹氏はそのカラオケランドのネオンの色が石碑の表面で踊っているのを発見する。大竹氏は思う。「確かに高野長英という名の日本人天才蘭学者がココにいて息をし生活をしていた」。その彼が、必死の思いで書いた「夢物語」のために幕府に追われ、155年前にこの「ジャングル」の前にやってきた。「『ジャングル』・・・この曲がりくねった時空間因果は一体何だ」。ほんの六ページほどの短いエッセイだけど、これだけでもこの雑誌を買う価値があると思う。読んでいたら、その文章の展開に松山巌の『闇のなかの石』を思い出した。この『ネオン星』に感じるところがある人は、おそらく『闇のなかの石』にも何かを見つけることが出来ると思う。
Salon.comで『千と千尋の神隠し(Spirited Away)』が取り上げられている。宮崎駿の作品は、登場人物の感情を表情の変化であらわすのではなく、画面の色調を駆使して情景を描くのがすごい!みたいなことが書かれているのだけど、そりゃあなた、アメリカのアニメの不自然な表情描写と比べたら、千尋の表情もimpassiveに見えるかもしれないけどねえ。
華倫変著『高速回線は光うさぎの夢を見るか?』を読む。知らなかったのだけど、華倫変氏は今年の三月に心不全といういかにも怪しい死因で亡くなったそうだ。おそらく最後の短編集になったであろう本書に収められている作品は、すべてがとんでもなく素晴らしい。それだけに、若すぎる死が悲しすぎる。「私は眠る、日々眠る」という書き出しで始まる『忘れる』という作品は、とにかく眠り、そして忘れていく女の子の話。とにかく眠る。そして忘れる。「記憶なんてなんの役にも立たないから、それでいいのかもしれないと、真昼の太陽を見て思う」。この作品の素晴らしさを伝えるには、実際に読んでもらうしかないのだけど、最後のページの指を噛む女の子の表情が、たまらなく悲しくて、たまらなく美しい。女の子は言う。「どんなにいろんなことをわすれてしまっても、いくらすべて消えてしまっても、せつないと思う気持ちだけは、忘れないのだと思うと涙が出た」。
夜、明日の登山の準備をして、洗濯をして、掃除をしていたらあっという間に深夜になってしまった。午前一時、家を出て待ち合わせ場所へ。
散歩しながら考えたことなどを少し書きたいと思う。
ぼくは無前提的な「AはB、だからC」という式を嫌悪する。そのような式を盲信する輩を軽蔑する。宗教は、神という絶対的な価値観を前提としているため、実証を必要としなかった。そこに必要なのは、言葉による理解可能な物語と実感としての世界観だけである。近代において、世界は神という絶対的価値観をはるかに凌駕するほどにそのシステムを進化させた。結果、世界を語るには物語を越えた実証が必要となり、科学が生まれた。科学は絶対的な価値観を持たない。科学における価値観は、実証によって初めて生まれる。科学に絶対的な価値観があるとしたら、それは「世界は実証されなくてはならない」ということだろう。人々は科学によって実証的な世界を得たかのように思えた。しかし実際に人々が得たのは、「実証主義」を前提とした科学という新しい物語に過ぎず、「実証された世界」ではなかった。科学自体は実証的であっても、人々が得た科学の語る物語は、結局のところ無前提的な「AはB、だからC」に過ぎなかった。
結果は原因を伴うと考える人がいる。結論は根拠を伴うと考える人がいる。現象は過程を伴うと考る人がいる。理解を超えた事件が起きれば、その事件が起きた背景を考え、自分たちが納得することのできる原因をでっちあげて安心する。すべての結果を原因で消化しようとする。そうしないと、存在が不安定になるかのように。人類は、常に理由を求めてきた。常に原因を探ってきた。言葉を使用して、物語を生み出してきた。否、物語をこじつけてきた。
想像を超えた事件の原因をこじつけるのは簡単だ。加害者の幼児期の体験、受けた教育、社会の歪み、インターネットの普及、ゲームや漫画の暴力性、分かりやすい理由をでっちあげて、加害者は加害者であると同時にそれらの犠牲者でもある、と考えれば、誰もが納得して安心することができる。分かりやすい原因を想定することによって、理解できないことを理解しようとする。確かにそれらは、事件が起きた背景の一因であったかもしれないけれども、だからといって事件を理解したと考えることは非常に危険である。理解できないものを、理解できるかたちでのみ理解しようとしている限り、また別の想像を超えた悲劇は起きる。世界はぼくたちの理解の中に存在する。けれども、事件はぼくたちの理解の中で起きているわけではない。
理解できないものは理解できないままに放置しておけと言いたいわけではもちろんない。理解できないことを、都合のよい形で理解してしまう危険性について考えているのだ。
そしてもうひとつ付け加えると、実は人が求めるのは「理解」ではない。理解しているという安心感である。だから科学的に実証されたとする「AはB、だからC」という式をなんの疑いもなく受け入れ、その命題に合せて世界を変更する。たとえその式に、実感がなくとも。
ぼくが聞きたいのは「なぜぼくたちは、実感なしに確信することができるのだろう?」ということだ。他人から与えられた「AはB、だからC」という式に制御された世界に生きて、なぜそれが正しいと確信することができるのか。実感とは、前提である。実感の伴わない確信を、ぼくは嫌悪する。