
すっかりはまってしまった『真・三國無双』シリーズですが、このゲームがどうしてこれほどまでに面白いのかといえば、尊敬する歴史上の人物になりきって名高い戦場で戦うことができるというなりきり自己満足の他に、敵兵をぐっちょんぐっちょんに滅多切りに出来るというストレス解消(むしろこちらの割合の方が大きい)という点があります。数十人に囲まれた時に、一気にぶち殺す快感はやってみたものにしかわからないと思います。
『真・三國無双』にはチャレンジモードというものがありまして、これは100人を斬り殺すのに何分かかるかとか、こちらが死ぬまでに何人殺せるかとかを競うもので、とにかく敵陣に突っ込んで滅多切り切り、やってることはほとんど津山三十人殺しの都井睦雄みたいなもので、ぶっ殺しては次の陣へ、ぶっ殺しては次の陣へと、殺人を繰り返していきます。これがまた気持ち良いのね。
それでふと思ったのですが、ゲームの中で人を殺すようになったのって、いつからなんでしょうね。ちなみに世界で最初に誕生したコンピュータゲームは、1952年にウィリアム・ヒギンボーサムが開発したテニスゲームで、世界で最初のアーケードゲームは ノーラン・ブッシュネルが1971年に開発した「スペースウォー」だそうです。この数年後には世界初のロールプレイングゲーム「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」が誕生し、その後コンピュータゲームの数は一気に増加します。
おそらく、日本人であるぼくたちが覚えている一番最初のコンピュータゲームは、「ブロック崩し」か「インベーダゲーム」ではないでしょうか。その数年後には「DIG DUG」とか、「パックマン」とか、「マリオブラザーズ」とか出ましたけど、そのいずれもがやっつける対象はエイリアンとか、動物とか、とりあえず人以外のものでした。その時点で人を殺すゲームってあったのかなあ。「ポートピア連続殺人事件」のファミコン版が出たときに、殺人をテーマにしたゲームはけしからんという運動がちょぴっとあったことは覚えているのですが、あれで問題になるぐらいですから、おそらく他に殺人ゲームは存在しなかったのではないかしら。
それから十数年経った現在では、ゲーム中の暴力的な表現に関する論争は、日常的に行われています。そしてそれらの論争の多くは、極めて短絡的に、偏見と決めつけと僻見に満ちた論者によって、「きっかけ」と「原因」を混同したまま行われているのが実情です。
■暴力的なゲーム、暴力的な子ども
■「暴力的なビデオゲーム」規制条例をめぐる争い
最近話題になっているのは、『GTA: Vice City』というゲームで、日本では未発売になっていますが、これはそうとうどぎついらしく。「『Vice City』は、プレイヤーが強盗や殺人を企てるゲームだ。売春婦を棍棒で殴り殺したり、パトカーを爆破したり、刑務所で暴動を起こしたり、麻薬の売人にサブマシンガンをぶっぱなしたりできる。」
■過激ゲーム『GTA: Vice City』、英デザイナー賞にノミネート
なんかねえ、なんでもかんでも問題の矛先をゲームやエロ本やその他サブカルチャーに押し付けるのって、大人としての責任を放棄した、卑怯なやり方だと思うのですけどねえ。自分たちの教育やしつけには問題ありましぇん、悪いのはゲームの中の暴力表現でちゅ!って言っているわけでしょう。今大人がやらなくてはいけないことは、ゲームやエロ本の排斥運動ではなくて、顔面シャワーはAVの世界の話なのだよということを、子供にきちんと教えてあげることなのではないでしょうか。あと、三國無双のキャラクターはそーとーかっこよく描かれているので、実際の三国志の皆さんはとてもぶさいくだったのだよということも、きっちり教え込むべきです。三国志のゲームって、みんなファイナルファンタジーみたいになっているの。あれは勘弁して欲しい。横山光輝のキャラクターを、そのまま3Dポリゴンにしてくれれば良かったのに。

ちなみに『三國無双』には「このゲームには残酷な表現が含まれています」という注意書きはありません。確かに表現は残酷ではありませんから。
舞城王太郎氏の期待の新作『阿修羅ガール』を読みました。
はー、なんでしょう、もう死ぬほど面白かった。やばいくらい。今までの舞城氏の作品のなかで、一番おもしろかったですよ。まじで。それにしても、いくらここで舞城王太郎はおもしろいと書いても、まったく誰からも反応がないのですが、みなさん一度読んでみてくださいよ。はまるひとは本当にはまりますから。
舞城さんのの小説は、あちらこちらで相当にめちゃくちゃな小説のように書かれておりますが、お話の構造はとてもオーソドックスで、起承転結の形式で書かれています。舞城氏のすごいところは、これは特に『阿修羅ガール』に顕著な特徴なのですが、起はめちゃくちゃ起で、承はびっくりするぐらい承で、転はすがすがしいくらい転で、結は感動的に結なのです。今時いませんよ、あそこまで起承転結をきちんと書く人。
お話の内容は、80年代ポストモダンじゃないんだからと突っ込みたくなるような内容で、これまた今の時代を考えれば、逆にとても礼儀正しいのではないでしょうか?もし今の時代に太宰並の私小説とか書く作家がいたら、それこそアバンギャルドでしょう。そういえば太宰で思いだしたけど、『阿修羅ガール』のカバーは佐内正史さんの『女生徒』の中の写真を使用しています。それはまあいいとして、『阿修羅ガール』は女子高生の一人称でしかもめちゃくちゃ口語文で書かれているので、読んでいて気持ちいいのです。これ、ぼくだけかもしれないけど、リズムっていうか、語りの口調のリズムがとても良くわかるし、そのリズムにのってすいすい読むことができるのです。むしろ、今どきの女子高生でこんなふうにリズムに乗った口調で話す女の子っているのかしら、と思うくらい。前にも雑記で書きましたが、この人、本当に小説を書くのが上手だなあと、つくづく感心してしまいました。
以下、軽くネタバレがありますが、ネタがばれたからってこの小説の面白さはたいして変わりません。
物語は、主人公のアイコが、本当は陽治のことが好きなのに、好きでもないクラスメートの佐野とセックスして自己嫌悪になるところから始まります。次の日学校に行くと、昨日セックスした佐野が誘拐されていて、その嫌疑をかけられたアイコが同級生のマキたちに呼びだしくらい、なんとなく焦ったアイコは、やられる前にマキをボコっちまいます。ところでそんなアイコの住む町は、幼い三つ子をバラバラにして多摩川の河川敷に放置したグルグル魔神を捕まえようと、ネットの匿名掲示板に煽られた中高生が暴動(ハルマゲドン)を起こして大騒動になっていて、アイコはそれを口実に陽治を自宅に呼びだします。玄関のチャイムがなって玄関を開けると、そこにはマキが立っていて、金槌で殴られたアイコはあの世へ行ってしまいます。
そんでそこからがとてもとてもとてもおもしろくなります。本当に、感動的に面白くなります。好みがあるので誰でも必ず楽しめると断言をすることはできませんが、世の中に生きる人々の四分の一ぐらいには面白いと思います。だから、騙されたと思って読んで。で、つまらなかったら教えて下さい。あやまります。

次の新作は三月下旬とか。うー、たーのーしーみー。
最近ちまたで何かと話題のレッシグさんでありますが、去年の末に翻訳された『コモンズ』に関する記事がHotWiredにアップされています。
■レッシング教授の『コモンズ』を読む ー日本社会に投げかける問題
レッシグさんの主張を簡単に要約すると、「著作権至上主義は文化の衰退をもたらす(Hotwired)」ということで、インターネットの世界的な普及に伴い、より拡大していく著作権産業と著作権法に対して、「アイデアは人類の共有財産」という立場から警鐘を鳴らし続けています。
アメリカの著作権法は、「ミッキーマウス保護法」と呼ばれています。アメリカが建国した当時、著作権法は14年(17年?)年でした。この法律の当初の目的は、著作権を所有者に保護するというよりはむしろ、著作権を個人あるいは企業に独占させないことで、そこにあったのはギブアンドテイクの精神でした。その後、著作権産業の運動により保護期間の延長が何度か行われ、ミッキーマウスが誕生した1928年、著作権の保護期間は56年間になっていました。ですから本来であれば、1984年にはミッキー・マウスの著作権は切れるはずだったのですが、1976年に再び期間が75年間に延長され、しかもその時点で保護下にあった著作権にもその変更が適応されたために、ミッキーマウスの著作権が切れるのは、2003年に延長になりました。さらに1998年、再び著作権の保護期間は延長され、今度は95年間にまで期間が延びました。つまりミッキーマウスの著作権が切れるのは、2023年ということになります。そのような経緯から、ミッキーマウスの著作権が切れそうになる度に延長されるこの著作権保護法は、一般に「ミッキーマウス保護法」と呼ばれています。
ここでレッシグさんが問題としているのは、このように保護期間の延長を繰り返していては、著作権は永遠に法律の保護下にあり、そのように保護されたモノは、人類の共有財産に成り得ないということで、この問題に関して、NHKで去年放送した『変革の時代』の第三回「”知”は誰のものかーインタネット時代の大論争」という番組の中で、レッシグさんは全米映画協会の会長であるジャック・バレンティさんと討論をしています。「人類の共有財産」という立場から話をするレッシグさんに対して、バレンティさんは次のように答えます。
ミッキーマウスの著作権を千年間に延長したとして、それがなぜ、文化の進歩を抑制することになるんですか。逆にハリーポッターの著作権をなくして、世界中の人に無料で提供すれば、民主主義が広まるとでもいうのですか。
1928年に誕生して散々稼ぎまくったミッキーマウスと、ここ数年に誕生したハリーポッターを同じレベルで語るのは論点がずれているような気もしますが、バレンティの主張にみられるように、著作権主義者の主張は一貫しています。著作権は、芸術家や創作家が安定して作品を作り続けるために必要な法律であり、著作権なくして作品の創造は有り得ない。著作権に守られて初めて作家は作品を生み出せるのであり、もしもそのような法律的保護なくなれば、世界中に海賊版が横行し、クリエーターの将来は危ういものとなり、誰も作品を生み出そうとは思わなくなるだろう。
この種に議論は難しいもので、自分の利益のことしか考えない消費者と、自分の利益のことしか考えない生産者の詭弁合戦になりがちです。個人的な意見を言わせてもらえれば、現状の著作権法が定める期間は長すぎると思うし、ディズニーの厳しすぎる版権管理にはうんざりさせられますけれど、だからと言って何も知らずにへえこらとレッシグ万歳とも言い兼ねます。ひとつだけはっきりしているのは、鉄割のちらしやサイトでは人の著作物を勝手に使用したりしているので、いつか訴えられるのではないかとびくびくとしているということで、そのときは土下座をして謝る所存でございます。リスペクトということで。サンプリングということで。

『コモンズ』という書籍に関して興味はあるのですが、読んでもおそらくほとんど理解できそうにないので立ち読みすらしていません。あちらこちらで掲載されているレッシグさんの記事なんかを読んで、ほえーとかふえーとかため息をもらして鵜呑みにしているだけです。とても重要な提言をしているのだろうということは理解できるのですけどねえ。もし『コモンズ』を読もうと思われる方がいらっしゃいましたら、上の記事を書いた方のこちらの解説がとても有用だと思います。