02年12月01日(日)

 西にはよく行くけど東にあまり行く機会がないので、本州の一番端へ行ってみようかと思い、いざ青森へ。一泊二日の短い旅ですから、手荷物は最小限に。本を三冊とウォークマン、日記帳。以上。

 最初は小泊崎へ行くつもりだったので、弘前に宿泊したのですが、やはり気が変わって竜飛崎へ行くことにしました。早朝七時過ぎに宿を出発。弘前駅から青森へ、約一時間で到着。青森駅は思ったよりも小さな駅で、まだ冬というには早すぎるため雪も降っておらず、ちょっぴり拍子抜け。

 竜飛崎へ行くには、津軽線で蟹田まで行き、そこで乗り換えて三厩(みんまや)村へ、さらにそこでバスに乗り換えなくてはなりません。時刻表を見ると、蟹田行きの次の電車は10時57分発になっています。二時間以上待つのかよお。さすがにそれは厳しいと思い、500円高い特急券を購入しました。特急であれば、一時間後に出ます。時間がないのです、今回の旅行は。

 特急列車に乗って10時半少し前に蟹田に到着。駅で三厩行きの電車の時刻表を確認すると、11時55分発。一時間以上近く待つことになりますが、蟹田は歩きたい町なので、丁度良いです。駅を出て、海岸線に沿ってお散歩をしました。

かにた

 太宰治は、彼の故郷である津軽を三週間にわたって歩いた時の記録を『津軽』という旅行記に著わしています。その中で、蟹田の町を訪れた大宰は、友人N君の家で酒をたらふく飲んだ次の日に、観瀾山を登ります。

観瀾山。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。

かにた 蟹田の駅から寄り道をしつつ三十分ほど歩くと、観瀾山が現れました。本当に小さな山で、山というよりは丘という風でしたが、登ってみると大宰が書いていたように、見晴らしは悪くありませんでした。悪くないというか、とても良かった。天気が良かったせいもあると思いますが、太陽の光が海に、家々の屋根に反射して、とても気持ちがいい。遠くに見えるあれが下北半島かしら。ああ、光がとても気持ちいい。

 ふと気付くと、12時30分を過ぎています。やばいやばい。電車に乗り遅れると、また二時間待たなくてはいけません。急いで駅に戻り、ぎりぎりセーフで三厩行きの津軽線に乗り込みます。客はほとんど乗っておらず、乗っているのは、カメラを持ったおやじばかり。

ふうけー 電車はゆっくりと進み、ぼくは旅行の定番Bomb The Bassの『Clear』を聞きながら、窓外の風景に心を落ち着けます。此処まで来ると、さすがに青森に来たという気がします。うふ。

 12時半過ぎに三厩に到着。売店もないこじんまりとした駅。外でおばさんがつけものを売っていますが、一日に数本しか電車が来ない、降り立つ客もまばらなこの駅で、果たして商売は成り立つのだろうかと余計なことを考えながら外に出ると、バスが待っています。10分後に出発するとのことですが、『津軽』によれば、三厩から竜飛先まで歩いていけるらしいので、バスの運転手さんに「竜飛崎まで歩いて行くとどれぐらいかかりますか?」と聞くと、20キロ近くあるので、今から歩いたら到着するのは夕方になってしまうよ、と言われました。一時間で五キロ歩いたとして、四時間。『津軽』には海岸線に沿って三時間ほど、と書かれていたけど、それでもちょっと辛いので、大人しくバスに乗り込みました。

 バスが出発。帰りは歩けるだけ歩いてみようと思い、バスの走る道順を記憶しようしましたが、海岸沿いを走るバスの窓の外に広がる景色が素晴らしすぎて、途中から道がわからなくなってしまいましたが、まあ、海岸沿いに歩けばいいのだろうなどと軽く考えて、なにも考えずに風景を楽しみましょう。もう一生来ない町かもしれませんから。窓の外に広がる東北の漁村に、なにげに感動。

ふうけー 40分程で竜飛崎に到着。竜飛崎まで、有名な国道339号線を登ります。国道339号線は、国道であるにも関わらず階段なのであります。なんでも、村が単なる山道を国道として申請し、国の方も対して調べもせずに認可してしまったとのことで、やはりどんなことでも駄目元で挑戦してみるべきなだなと思います。段数が多く、しかも急なので、息急き切って登りますが、思ったよりも風は強くないし、寒くもありません。

 竜飛先に到着。わお!ここが日本の最北端なのね!津軽海峡なのね!石川さゆりなのね!と思いながら、海に望みます。さすがに此処まで来ると風が強いです。向こうに島が見えます。あの島はなんていう島だろうと思っていたら、隣にいたおばさんが「あれが北海道だよ」と教えてくれました。すげーな、なんか泳いでいけそうじゃん。源義経でなくとも、渡りたくなるわな、あれじゃ。などと思いながら、今度は逆の方へ行くと、吉田松陰の碑があります。僕の大好きな人がたくさん訪れているのです、この場所は。

ふうけー

 ぼくは海のない町に育ち、成人してからも海のある町や国へはほとんど旅行をしたことがないので、海と空のみで視界が広がる感覚というものにいまいち慣れていなくて、山に登ったときなんかに遭遇する視界の広がりとはまた異なる感覚に、しばし戸惑いを感じます。尊敬する坂本の龍馬っちなんかは、子供の頃から暇さえあれば海をぼーっと眺めていたと言いますが、今こうして海しか見えない視界を目の当たりにすると、お約束ではありますが、****になります。あまりにもお約束の意見なので恥ずかしくて書けません。でも、****なのです。

 そんな感じでしばらく逍遥し、再び339号線を下り帰りのバスに乗り込むと、乗っている客は行きのバスに乗っていた人とほとんど一緒。時計を見ると、まだ二時を過ぎたところで、こりゃ幾ら何でも帰るのには早すぎます。駅までちょうど半分ぐらいまで来たところで、バスを降りてそこから歩くことにしました。ここからなら、寄り道をしても三時間あれば駅までいけるでしょう。最終の電車が六時ぐらいだったから丁度良い感じです。今回の旅行はあまり歩いていないので、村々をたっぷり歩きましょう。

だざいっち

02年11月30日(土)

 祖母の三十五日忌で納骨のため、実家に帰省しました。

 祖母が亡くなったのは先月の終わりで、その時にも本家のまわりをぶらぶらと散歩したのですが、思えばこの辺りを散歩するのは十年以上振りで、幼い頃には嫌で嫌でたまらなかった田舎の風景が、今ではとても心の落ちつくものになってしまっている自分が嬉しくもあり悲しくもあり、複雑な気持ちを胸に、今回もしばし逍遥しました。

 山に囲まれた祖父母の家のまわりには、子供の頃には気付かなかった石仏などが多々点在していて、「穴不動」なるいやらしい名前の安産の守り神の不動明王蔵も発見しました。お産の時にはここに来て不動明王の剣を借りて行くと御利益があると書いてあり、おばあちゃんもここに剣を借りに来たのかしら、などと思ったのですが、よく考えてみれば祖父母には実子というものがおらず、ぼくの母もその兄弟姉妹もすべて養子ですから、祖母が剣を借りに来る必要はなかったのかも。しれないです。

じぞー

 人の死の悲しみは、如何なる手段をもってしても癒すことはできません。その人がいた世界が確かにあったのに、今ではもう、その人に会うことができないと思うとき、自分の中に悲しみ以外の感情が存在しないように感じます。癒すことの出来ない悲しみは、とことんまで悲しむしかなく、悲しみの後にぼくにできることといったら、祖母の記憶を永遠に忘れないでいることしかありません。

 死後の世界を信じないぼくは、祖母は往生することによって、生まれる以前の無に帰したと思っています。けれども、その「無」は唯物論的な「無」ではなく、無に帰することによって僕たちの中で仏となったわけで、仏教で言うところの輪廻を断って成仏するということと全く同じだと思います。祖母は、百年前の世界がそうであったように、世界の無となってしまいました。しかし百年前と違うのは、祖母の記憶を持つぼくたちがここに存在するということで、少なくとも祖母の記憶を持つぼくたち全員が無と帰するまでは、祖母は記憶として生きている、この世界に存在している、と思っています。祖母の記憶を持ち、それを保つということが、DNAによる肉体的連鎖以上の何かを、ぼくたちと祖母の間に与えてくれます。
 記憶。
 祖母を覚えているという、ただそれだけのことで、ぼくは祖母を弔おうと思います。

 兼好法師は『徒然草』の第三十段で、以下のような書いています。

年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽びし松も千年を待たで薪に摧かれ、古き墳は犂かれて田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

 『徒然草』の中でも特に心に残っている段です。以下に稚訳ではありますが、現代語訳を載せておきます。訳に間違いがあっても御勘弁。

 年月が経ったからといって、その人のことを完全に忘れてしまうということはないが、去る者は日々に疎しなどという諺にもあるように、亡くなった時の悲しみは徐々に薄れていくもので、そのうちに適当なことを言いながら笑い話をしたりできるようになる。亡骸は人気のない山中に埋められ、法事法要のときにしか御参りされなくなり、しばらくすると卒塔婆は苔むし、木の葉に埋もれ、夕の嵐や夜の月だけがそこを訪れることになる。
 その人を思い出して懐かしんでくれる人がいるうちはまだ良いが、そのような人もいつかは亡くなる。聞き伝えでしか知らない子孫達は、その人のことを思って偲んでくれるのだろうか。供養するための法事さえ行われなくなり、墓に眠る人の名前さえ知らずに、それでも年ごとの春の草をみれば、情趣がわかる人は想ってくれるかもしれないが、最後には嵐にむせぶ松も千年を待たずに薪にされ、古き墓も耕されて田となってしまうように、その跡さえ世界から消えてなくなる。悲しくとも。

 ぼくは、亡き人の跡(お墓)がいつかは形骸的な存在になることや、その人の死そのものが忘れ去られることに対して、兼好法師ほどには悲しみを感じません。そりゃまーしゃーないっしょ。さまざまな個性の記憶が生成消滅して世界は動いているのですから。けれども、少なくともぼくたちが生きている間、ぼくという記憶が存在している限りは、決して忘れませんから、ゆっくりと、お休みください、おばあちゃん。

どうそしん

 帰り際、祖父母と一緒に暮らしていた叔母に「出産の時に、穴不動にお参りしたの?」と聞いたところ、「なにそれ」と逆に聞き返されました。

 そしてそのまま津軽へ。

02年11月26日(火)

■「J2EEアプリの開発をもっと簡単にしたい」---Strutsの開発者McClanahan氏に聞く

 このページの一番下にも書いてありますが、鉄割のサイトにはJakartaプロジェクトStrutsというJ2EEフレームワークを使用させていただいております。そんで上の記事はそのフレームワークの大元を設計した方のインタビューなのですが、マクラナンさん、頭が光すぎではありますが、この方のおかげで受けた恩恵を考えると、頭の光の反射も後光に見えて思わず拝んでしまいます。なむー。

 この方、休暇で行った先のビーチにまでノートパソコンを持ち込んで、三日(一説には一週間)でStrutsを開発してしまったそうです。もちろん奥さんはオカンムリ。休暇先にまでノートパソコンを持ち込むような人生は送りたくないなと思いつつも、それが勝ち組の生き方なのでございまして、そんな方々のおかげでぼくなんかはとても楽をさせていただいておりますれば、心より敬意を払わなくてはいけません。

ごこう

 ちょいちょいパソコンのことなんかも少しは書きたいと思いながらも、書こうとするとどうにも手が震えてしまいます。どうしてでしょ。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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