
自費で購入している数少ない雑誌のうちの一冊、『本とコンピュータ』の2002年秋号を購入しました。
この雑誌は、四冊の雑誌が一冊になっているというとても素敵な雑誌で、しかもそのすべてが興味深く、面白い特集を組んでいます。
ほとんど一冊まるごと面白いのですが、その中でも特に良かったのが『Bocom!』で宮下志朗さんが訳したミシェル・トゥルニエの『イデーの鏡(The Mirror of Ideas)』の抄訳です。
ミシェル・トゥルニエという作家は、ノーベル賞を取ると言われているほど著名な作家らしいのですが、今回初めて知りました。『イデーの鏡』は、対立する概念(「男と女」「塩と砂糖」「愛情と友情」など)を題材とした短いエッセー集で、今回訳されているのはその内の三編、「文化と文明」「快楽と喜び」「話されたことばと書かれたことば」で、ページにしたら五ページほどの短い訳なのですが、とても面白かったです。
ラブレターを書く場合でもいいし、冒険小説を書く場合でもいい。なにかを書いている人間とは、孤独な読み手に訴えかけている孤独な存在なのである。これとは逆に、なにかを話している人間は、聞き手を必要とする。なぜならば、孤独な話し手は少しおかしいのだから。
訳されているエッセイのうちのひとつ、「話されたことばと書かれたことば」はこんな書き出しで始まり、話されたことば(パロール)と、書かれたことば(エクリチュール)の関係についての説明が滔々と続きます。パロールは生きていて、エクリチュールは死んでいる、エクリチュールが生きるためにはパロールが必要になる、はじめにパロールが誕生し、数千年あとにエクリチュールが生まれた、エクリチュールはパロールから生まれた、「偉大なる作家とは、その著作のひとつを聞いたとたんに、ああこれがあの人の声だと分かるような存在をいう」....
こんな感じでエッセイはどんどん続きます。そして最後はルイ・ラヴェルのこんな引用で終了します。
人間が話すことばは、動物の無言から、
神の沈黙に至る途中にある。
『イデーの鏡』、すげー読みてー!!誰か訳せ、バカ!
『マンガ★ホンコ』の「9-11とアメリカン・コミックス」という特集もなかなか興味深かったのですが、長くなりそうなのでまた今度。
最近、わたくしどうも恋に恋い焦がれているらしく、気がついたら大学生の頃によく聞いていた小沢健二の『ラブリー』なんかを口ずさんでいて、奥村君にぶっとばされたりしております。それでも懲りずに、レンタルCD屋さんに行って、小沢健二、略してオザケンのジャケットの色あせた『LIFE』なんかを借りて、バイクに乗るときは常に聞きながら大声で歌っていたりして、信号待ちなどでは注目の的でございます。
やはり冬はオザケンに限りますね!と書こうと思ったのですが、奥村君にさらにぶっとばされて顔がボコンボコンになるのは嫌だし、勉蔵君に唾を吐きかけられるのもいやなので、多くは書きません。でも、音楽を聞くこwu[xANBACオp
ここ数年、音楽から遠ざかった生活をしているために、音楽が恋しくなっても数年前の音楽しか聞くことができません。あー、音楽に満ちた生活を送りたい。
「やめようと百万回努力したが、そのたびに失敗した」
過去六十年間に百万回ということは、一日約四十五回努力したことになります。 と、つまらない計算をしてみたり。秋の夜って気怠いから。
ちなみに『江戸の性愛学』によると、日本では桓武天皇が四十人の側室に五十人の子供、嵯峨天皇は二十九人の側室に八十人以上の子供、醍醐天皇は十四人の側室に三十六人を生ませたということであります。天皇家、なかなかやるじゃん。