02年09月01日(日)

 京極夏彦の『魍魎の匣』読了。『姑獲鳥の夏』とはまた違ったおもしろさで、後半はぐいーぐいーと引き込まれて一気に読んでしまいました。

 小説を読みながら、登場人物のあるひとりが抱いていた夢、というか取り憑かれていた恐ろしい妄想と同じことを考えている実在の科学者のことを思い出しました。この種の小説は、下手なことを書くと犯人やトリック(?)がばれてしまう恐れがあるので、内容に関してはあまり触れることができません。気をつけて書くつもりではありますが、『魍魎の匣』をまだ読んでいなくて、これから読もうと思っている人で、且つ勘の良い方は此処から先は読まないほうが良いかも知れません。もしかしたら、物語の中のトリックがわかってしまうかもしれませんから。

 何年前か前に、NHKで『自分とは何か?生命哲学が問い掛けるもの』という番組が放映されました。ホストは哲学者の中村雄二郎さんで、最先端の科学技術と科学者にインタビューをして、現代科学から人間という存在、延いては自分という存在について考える、という内容でした。
 こうやって文字にして読むと、くそつまらねーとか思うでしょう?けれど、科学という観点からだけではなく、哲学の観点からも考えるという点で、なかなか刺激的で面白い番組でした。

 その中で登場する科学者一人に、ロボット工学や人工知能技術の権威であるマーヴィン・ミンスキーがいます。彼は「心を持つ機械」について、熱く語ります。

 ここで言う「心を持つ機械」とは、文字通りの機械、つまり人工知能とそれに付随する工学を意味しますが、ミンスキーはそれとは別に、もう一つの可能性を語ります。それは、人間の脳を生物学的にではなく、工学的に理解し、脳のニューロンとシナプスのネットワークをすべて解析して、それをコンピュータ上に復元し、人間の意識をコンピュータ上に再現するということです。思考の速度を上げたければCPUを高速なものにすればよいし、記憶力を上げたければメモリーを買い足せば良いのだ、肉体的な制限からも放たれ、寿命も数百年、数千年になると彼は言います。

人間の脳というのは、なにも奇跡なんかではありません。人間の心は、何か別の次元のものであると考える必要はないのです。脳は、膨大なコネクションを持った一個の機械で、それが心を生みだしているのです。

 アメリカには、事故や病気で死亡した場合に、再び復活する技術が確立するまで、遺体や脳味噌を冷凍保存しておくための企業が多数存在します。彼らが将来復活する際に、生身の肉体を持った人間として復活するという選択肢のほかに、脳の神経細胞が作り上げるネットワークをスキャンして、コンピュータ上に意識として復活するという選択肢もある、とミンスキーは言います。

 以前の日記でビル・ジョイのエッセイを紹介したときも書きましたが、このような人間の意識と肉体をコンピュータで再現するという技術は、今日では決して夢物語でも、不可能な話でもありません。世界は、クローン技術のような問題には過敏なほど倫理的に反応するのに、この手の問題にはあまり反応しません。人間が自らの手で人間という物質的な存在を作り上げることが罪であるならば、人間が人間の意識をゼロから作り上げるということもまた罪であるということにはならないのかな。

 『魍魎の匣』の中で、京極堂は以下のように言っています。

「意識は脳だけで造り出されるものじゃない。人間は人間全部で人間なんだ。脳髄はただの器官だ。部分的に欠損した場合は幾らだって補えるが、脳だけ取ったって何も残らない。体と魂は不可分なんだ。脳髄は部分だ。脳が人間の本体だなんて考えは、魂が人間の中に入っていると云うのと変わりのない馬鹿馬鹿しい考えだ。この世がなければあの世があり得ないように、肉体がなければ心もない。」

 ミンスキーはさらに、宗教が科学の進歩を妨げた、と言って宗教に対する嫌悪感を露にします。古代ギリシアの自然哲学者達は、十分に現代の科学を理解する能力があったが、それを妨げたのが宗教であり、その支配が無ければ、西暦500年には人類は現代の科学技術にまで達していただろう、と言うのです。

宗教は、人々に永遠の生を約束しました。しかし皮肉なことに、科学の発展を阻害し、批判させないようにすることによって、実際には私たちが永遠の生を得ることを妨げ、私たちを早死にさせているのが実情です。人々は、もっと宗教に憤りを感じるべきであり、生きること、死ぬことが自然のサイクルであるという古くさくてばかばかしいアイデアを受け入れるべきではないと思います。

 ミンスキーは、人間がほかの動物と異なるのは、文化というものを作り上げる点だ、と言います。しかし、ここで彼が言う「文化」は、「生きる」ということが前提になっています。「少しでも長く生きる」ことを懇願し、「少しでも多くのことを考える」ことを切望し、「すこしでも先へと進歩する」ことを目的として生きている人々による「文化」なのです。ミンスキーが求める科学は、そのような彼らにとっての科学であり、「死」という決して逃れることのできない運命を受け入れ、短い人生を少しでもより良く生きようとする人々にとっての科学ではないのではないか、などと思ってしまいました。

ごっど

「科学は技術であり、理論であって本質ではない。科学者が幸福を語る時は、科学者の貌をしていてはならないのです。至福の千年王国などと云う科白はーあなたが口にして良い言葉ではない。」
『魍魎の匣』で京極堂の決め科白。
02年08月24日(土)

昔作ったベンコラ(勉蔵コラージュ)が出てきたので、せっかくですのでアップします。

べん

べん

 彼が悪いことをするたびに、お仕置きとして作ったものです。故に、勉蔵の業の数だけベンコラがあるのです。

べん

02年08月23日(金)

 外出先でパソコンが使えたら便利だろうなと思い、ThinkPad535という古いノートパソコンを12000円で購入しました。Pentium150Mhzのメモリが40Mという代物です。

 辞書系のアプリケーションをインストールするために、ハードディスクを6.4G(それ以上だと認識しない場合があるらしい)に増設、さらにバッテリーのセルを新しいものに交換して、三時間ほどは持つようにしました。これでどうにか使い物になります。

 このパソコンは、『電脳売文党宣言』という座談会本で、ジョイスの翻訳で有名な柳瀬尚紀さんが使用していたのと同じものでして、この本が出版された1997年の当時は、結構なスペックの軽量ノートパソコンだったはずなのですが、5年経った現在では見る影もありません。それでも、柳瀬さんがこのパソコンを使っていろいろな翻訳や編集をしていたいということを考えれば、十分に使えるパソコンのはずなのです。と自分に言い聞かせているのです。軽いしね。

 この『電脳売文党宣言』は、コンピュータと本の関係を、書き手の側から語った座談会を収録したものです。読み手の側から、つまりコンピュータで読書をすることに関しては『本とコンピュータ』などでも昔から取り上げていますが、書き手の側からこの問題を取り上げた書籍は、これ以外にはないのではないでしょうか?ぼくが知らないだけかもしれませんが。

 座談会に出席しているのは、島田雅彦をホストとして、笠井潔井上夢人、柳瀬尚紀、加藤弘一といった錚々たる皆さんで、扱うテーマも再販制の問題から文字コードの問題まで、あっちへ飛びこっちへ飛びしながらかなり広い範囲で語られています。加藤弘一さんはUnicodeを利用することによって消えていく漢字に関して警鐘を鳴らしているし、柳瀬尚紀さんは内容の無いサイトはウィルスを使ってでも削除したほうが良いと冗談を言っているし、笠井潔さんはCD-ROMを利用することによって書籍の「原則絶版なし」を主張しているし、島田雅彦さんはバカみたいに自分が手書きであることを強調していたりします。今読むと少し古い話題もありますが、大半が現在でも問題のまま残っていることばかりです。

 先日テレビを観ていたところ、某文化人が「本が無くなる無くなると言われているけれど、コンピュータの解説書が爆発的に売れているおかげで発行部数が増えている。だから本は無くならない」などと非常に短絡的なことを言っていましたが、本はコンピュータに取って変わられるのか?という問題に関しては、世界中でいろいろと議論されておりますし、個人的にはいきなり本が無くなってしまうなんてことはあり得ないので、もし入れ替わるとしても50年から100年ぐらいは必要なのではないか、と思っております。コンピュータはハード的にはどんどん進化していますが、ソフトウェアの面では無駄な機能をつけてCPUのパワーを浪費しているだけで、全然進化していないし。

のーと

 それにしても、まだまだ使えるノートパソコンが12000円で買えるのですから、良い時代になったものです。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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