02年05月20日(月)
5月20日はフランスの文豪オノレ・ド・バルザックさんの誕生日でございます。

バルザックさんはずんぐりむっくり、もっそもっそと歩き、着ている服はしわしわで、口を開けばお下劣極まりない下ネタ話、あるいは誇大妄想的な法螺話、あるいは尽きることのない自慢話。
そんなバルザックさんでありますが、夜になり部屋に一人きりになると、途端言葉の波が頭に押し寄せ、信じられない集中力で一気に原稿用紙にペンを走らせます。
ことばがことばを生み、生まれたことばが物語を紡ぐ。

そしてお顔もなかなか良い顔をしている。

バルザック君

密かなヅラ疑惑がぼくの中に芽生えております。

バルザックさんの時代、小説家と小説を掲載する新聞社の間では、一行いくらという形で契約が行われていました。
書けば書くほどお金になるわけですから、バルザックさんは書いて書いて売って書いて書いて書きまくり、ケルアックもびっくりというぐらい書きまくり、寝る間を惜しんで書きまくり、書いては書いたで借金しまくり、中間搾取はいやだようと言っては自分で印刷会社を作り、書いて書いて書きまくり、完全なノベルライターマシーンと化して書きまくります。
書けば書くほどお金になるわけですから、情景描写がながーく、ながーくなり、舞台設定もくどーく、くどーくなってしまいます。
眠ってはいけないから、一日に五十杯のコーヒーを飲みまくります。
一杯のコーヒーが200mLとすると、10Lのコーヒーを毎日飲んでいたことになります。

そんな彼の書いたそんな作品に登場する人物は2300人を越え、今なお全世界の人々に読まれつづけているとさ。

ぼくはバルザックを読んだことがありましぇん。
02年05月19日(日)
石川淳の「紫苑物語」を読む。
守もようやく弓矢の道を知るに至ったらしいな。矢はもっぱら生きものを殺すためのものじゃ。たかが鳥けものなんぞのたぐいではなくて、この世に生けるひとをこそ、生きものとはいう。殺すものと知ったうえは、すなわち殺さなくてはならぬ。さらに多くを、いやさらに多くを、殺しつづけなくてはならぬ。おのれの手がすることに飽きるな。おのれに倦むな。おぼえたか。
石川淳という方は、作品が地味に受け取られるのか、作家としての派手なエピソードがないからか、最近すっかり忘れられているような気がしてならないのですが、このような素晴らしい人と作品が忘れられてはいけないのではないでしょうか。
この方は、大宰や安吾と並び評された無頼派の一人でして、その思想を思えば、おそらく一番無頼派らしい無頼派だったように思います。

この種の古典的幻想文学(とか書くとすごくつまらなそうに聞こえますけど)では、アホみたいに難しい漢字を使ったり、やたら冗長なうんこみたいな表現を使ったり、わけのわからない叙情性を延々と描いたりと、そんな作品が多いのも事実なのですが、石川淳はそんな陳腐な真似は一切していなくて、読んでびっくりひらがなだらけ、漢字の選択も絶妙、表現も簡潔にして美しく、読んでいて気持ちのよい日本語というのはかくあるものなのでしょう。

本の裏表紙などを見ると
優美かつ艶やかな文体と、爽やかで強靱きわまる精神。昭和30年代初頭の日本現代文学に鮮烈な光芒を放つ真の意味での現代文学の巨匠・石川淳の中期代表作——華麗な“精神の運動”と想像力の飛翔。
などと書かれておりますが、石川淳が書いた久保田万太郎への追悼文の中に以下のような文章があります。
ここで石川淳が久保田万太郎について書いていることは、そのまま彼自身にも当てはまるのではないでしょうか。ちょっと長くなりますが引用させていただきます。
みがき拔かれたことばの反射は作者の身に於てますますカンを研ぎすますことになつたやうである。久保田さんのカン。ことば一般について、ことばを手だてとする文学作品一般について、カンはこのひとをすぐれた無言の鑑定家に仕立てた。ことばの目きき。ただこの目ききは考の筋をおひつめ押しすすめて行くことばだけはしらなかつたようにおもはれる。したがつて、他人のためではなく、御當人のために、問題を作りだしていくといふ術はこのひとの幻術の中の缺けた部分と見るほかない。いいあんばい・・さう、この作者としては、いいあんばいといふべきだろう。
いいあんばい。「紫苑物語」は、まさに良い按配に書かれた物語であるように思います。
ぼくは、そんな良い按配の小説を読むと、ああ、きもちがよい、とつぶやいてしまいます。

ついでですので、久保田万太郎への追悼文の始まるの書き出しも引用します。
久保田万太郎は、赤貝を喉に詰まらせてお亡くなりになりました。
すききらひを押し通すにも、油断はいのちとりのやうである。好むものではないすしの、ふだん手を出さうともしないなんとか貝なんぞと、いかにその場の行がかりとはいへ、ウソにも付合はうといふ愛嬌を見せることはなかつた。いいえ、いただきません、きらひです。それで立派に通つたものを、うかうかと・・・このひとにして、魔がさしたとふのだろう。ぽつくり、じつにあつけなく、わたしにとってはただ一人の同郷浅草の先輩、久保田万太郎は地上から消えた。どうしたんです、久保田さん。久保勘さんのむすこの、ぶしつけながら、久保万さん。御当人のちかごろの句に、湯豆腐やいのちのはてのうすあかり。その豆腐に、これもお好みのトンカツ一丁。酒はけつかうそれでいける。もとより仕事はいける。ウニのコノワタのと小ざかしいやつの世話にはならない。元来そういふ気合のひとであつた。この気合すなはちエネルギーの使い方はハイカラというものである。
保坂和志はヴァージニア・ウルフに関して「とにかくいまウルフは不当に低く評価されている、というよりも無視されている」と書いていますが、それと同じことは石川淳にも言えないでしょうか。
とにかくいま石川淳は不当に低く評価されている。というよりも無視されている。

ちなみに、歌人の水原紫苑というお方は、この「紫苑物語」にちなんで名前を付けたそうです。
02年05月18日(土)
近所の古本屋さんで、ちくま文庫の「泉鏡花集成」全十四巻が9000円で売っているのを発見。
買おうか買うまいか、数時間迷った揚げ句、今回は見送り。
今度のお給料日まで残っていたら買ってしまうかもしれない。
ううう。金。

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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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