05年05月25日(水)

昨日の続きです。

N あなたの考え方は、個人というものが基本になっています。しかし人間の生命は人とのつながり、自分ができなかったら子供が、というようなことがあると思うのですが、そのことについてはどう思いますか?

M 個人を越えて生きるものは何でしょうか?それは文化です。都市の中で人々は電話等で意志のやりとりをしています。都市も脳と同じように、何千ものネットワークであり、ひとつの有機体です。そのネットワークの中で、言葉をやりとりしているのです。では、言葉とはなにか?昔は人々は言葉を物ごとを伝達するための道具であると考えていました。しかし、コンピュータの見方でいうと、言葉とはあるアイデアをコピーするためのものです。私が何かを思い付く。これはコンピュータの考え方では、メモリの集合であるわけだから、このメモリをコピーして、他の人々に伝えるためのソフトウェアだというわけです。
ドーキンスという生物学者は、文化も進化すると考えています。動物は生殖の時に遺伝子を交換することによって進化します。遺伝子によって引き起こされる脳や細胞の進化があるように、言葉によって引き起こされる文化の進化があると考えました。
大きな文化の中では、考え方は人々のネットワークの中で進化し、その中では、ある意味で、個人は重要ではないのです。
(中略)
そこで、人間特有の進化のこつが挙げられます。ひとつは、個人の進化で、ある脳が他の脳よりも学習能力が高い時に起こります。しかしもうひとつ、社会の中である考えが他の考えを駆逐したり入れ替わっていく進化もあります。
人間は一人一人が個性をもった存在ですが、見方を変えれば、脳から脳へ考えを伝えるための一員であり、文化の担い手でもあります。文化は生き残りをかけて、助け合い、殺しあいながら個人を越えて進化して行くのです。

 ね、ちょーマッドな考え方でしょ。

 昔の日記でもとりあげていますが、ビル・ジョイというとても偉いコンピュータオタクは、『Why the future doesn't need us』というエッセイを書いて、歯止めがきかなくなりつつある科学の進化と生命倫理の崩壊に警鐘を鳴らしています。けれども、いくら警鐘を鳴らしたって、はげミンスキーには届かないのでしょうね。

 やっぱり、さっさと山に籠るに限ります。

 最後にひとつだけ。勘違いしてほしくないのですが、ぼくは脳の機能的側面を否定するつもりはありません。けれども、それらの「機能性」はあくまでも脳をモノとして考えた場合の脳の作用です。人が何かを視覚的に認識する場合にも、聴覚的に意識する場合にも、言語を使用する場合にも、体を動かす場合にも、脳はその機能を駆使して「意識」への働きかけを行います。しかし、これらの機能が働きかけを行うもの、あるいは逆に、脳の「機能」を使用する主体としての「意識」に関しては、脳科学の研究で解明されているわけではないと思います。そもそも、意識とは一体なんなのか。そもそも、それはモノとしての脳から「のみ」誕生するものなのか。ぼくの知っている限りでは、モノとしてのの脳の研究は、その機能性を解明することに大きく貢献しましたが、コトとしての脳の研究は、まだまだこれからです。PCに脳のネットワークをダウンロードするという行為は、モノとしての脳の研究の成果としては結果を出すかもしれませんが、そこに「意識」が誕生するという意見に対しては、感情的にも倫理的にも、とても強い反発を感じてしまうのです。

物に接するといふ方を申さうならば、一体この物といふのは事と違つて死物である。事の方は事情であるから、千差万別が限りなく、変化百端動いて止まざるものであるが、物の方は、これも万物と云つて際限なく数多いものであるが、はるかに静的である。
幸田露伴『些細なやうで重大な事』

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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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