

人間は、先にもいったように、天地の心のなんらの障礙なくて自然に循環し、自然に運転してゆくのに対して、反省と意識というものを起こしてきた。神ながらの動きをちょっと停めたとでも言うか、そういうものを人間がこしらえたのであるから、人間は一種の謀叛児である。この謀叛気は動物にない、もちろん物質界にもない。謀叛は「我」の意識から出るのである。この「我」の意識というのは人間だけにあるのであって、そうしてこれが矛盾の世界、悩みの世界なのであるから、人間である限り、これをなくするという訳にはゆかないのである。なくすれば人間はなくなるということになる。人間が天地のほかに出るということになり、いわゆる無、無存在になるというのだから、それは一種の夢だにも見ることのできない世界なのである。
それで人間はこのままの世界を肯定する、すなわち「我」を立てるが、その肯定、その「我」の真正中から、いわゆる無我無心の世界にはいらなければならぬのである。
(鈴木大拙著『無心ということ』から「第五講 無心の生活—矛盾のままの無心」の一部を引用)
八ケ岳の天狗岳に登りました。初の雪山登山です。
あまりにも天気と場所が素晴らしすぎて、死ぬにはとても良い日だと思いましたが、死ぬにはまだまだまだ早過ぎるので、また今日のような死ぬのにとても良い日が来るまで、死ぬのはやめておこうと思いました。
とてもとても具合が悪かったので、早めに床に就いたのですが、胃の上のほうがごろごろして心臓の下のあたりがぼこぼこして夜中に目が覚めてしまいました。水を飲んで、落ち着け落ち着けと胃と心臓に言い聞かせてしばらく様子をみたのですが、一向にごろごろぼこぼこが治まらずに眠ることができないので、そのまま横になってテレビをつけたら映画『風花』が放映していました。
胃と心臓の調子がおかしかったせいか、映画の映像をびんびんに感じてしまい、真夜中にテレビの前に座って映画を観ている状態もそこはかとなく気持ちが奇妙で、ほとんどまばたきをすることが出来ないぐらいに見入ってしまいました。明け方だったので、家の外からは新聞配達のバイクの音が聞こえてきて、それがテレビから流れ出る音と妙に絡み合って、なんとなく次元の縁をさまよっているような感じ。映画のラスト近く、小泉今日子が浅野忠信に抱きつくシーンでは、小泉今日子の腕のラインに泣きそうなくらい感動して、おそらくこの映画を他のどの時に観ても、こんなふうに感じることはないはずだと、映画館で観たとしても、ビデオを借りてきて観たとしても、こんなふうに感動することはなかったはずだと、この感動は、今この時間にこの場所でこの状況で観たからこそ得られたのだと思いました。
多分、今あらためてこの映画を観ても、あんなふうに感動はしないでしょうから、良い恋愛の想い出と同じように、良い錯覚は錯覚のまま、今後の一生にかけて二度と『風花』を観ないようにしようと思います。自分の心の中の素晴らしい映画と現実の作品のギャップに落胆するだけですから。
そのまま映画の余韻にぼんやりとしていたら、いつの間にか眠ってしまいました。