04年02月11日(水)
人間は、先にもいったように、天地の心のなんらの障礙なくて自然に循環し、自然に運転してゆくのに対して、反省と意識というものを起こしてきた。神ながらの動きをちょっと停めたとでも言うか、そういうものを人間がこしらえたのであるから、人間は一種の謀叛児である。この謀叛気は動物にない、もちろん物質界にもない。謀叛は「我」の意識から出るのである。この「我」の意識というのは人間だけにあるのであって、そうしてこれが矛盾の世界、悩みの世界なのであるから、人間である限り、これをなくするという訳にはゆかないのである。なくすれば人間はなくなるということになる。人間が天地のほかに出るということになり、いわゆる無、無存在になるというのだから、それは一種の夢だにも見ることのできない世界なのである。
それで人間はこのままの世界を肯定する、すなわち「我」を立てるが、その肯定、その「我」の真正中から、いわゆる無我無心の世界にはいらなければならぬのである。
(鈴木大拙著『無心ということ』から「第五講 無心の生活—矛盾のままの無心」の一部を引用)