
『ラリー・フリント』に続き、同じミロシュ・フォアマン監督の『マン・オン・ザ・ムーン』を観ました。こちらは伝説のコメディアン、アンディ・カウフマン(字幕はカフマン)を描いた伝記映画。このアンディ・カウフマンという人のことは全く知らなかったのですが、なかなか面白かったです。『カッコーの巣の上で』や『ラリー・フリント』にはかなわないけれど。
でもぼく、認められない天才の映画というものは基本的に苦手なので(『バスキア』とか大嫌いだし)、そういう意味では、ミロシュ・フォアマンが監督じゃなかったらちょっと嫌だったかも(ラリー・フリントは「認められない天才」ではありません)。この、カウフマンという実在のコメディアンには非常に興味を魅かれましたが。
雑誌『エンタクシー』で亀和田武さんがポルノ王ラリー・フリントと自分の関係について書いたエッセイが面白かったので、さっそくフリントさんの若き姿を描いた映画『ラリー・フリント』を観ました。監督は『カッコーの巣の上で』のミロシュ・フォアマン。いやー、とても面白かった。
亀和田さんのエッセイは、フリントさんのドキュメンタリーをテレビで観るところから始まります。カジノのホテルで三千万円をあっというまに使い果たすフリントさん。車イスをフルスピードで走らせて、次のホテルへ。そこでもまた負けて、またまた次のホテルへ。そこでもまた負けて、またまた次のホテルへ。あっという間に七千万円の損失。さらに次のホテルへ。そこでいきなりツキの波に乗り、たちまち七千万円の負けを取り返し、さらに一千万円の勝ち。さすがはフリントさん、老いてはますます壮なるべし。ついこの間も、カリフォルニア州知事選に出馬を表明しておりましたし。元気なお方です。
映画で描かれているのでは、えろえろモード全開のフリント氏と、フリントってちょっとえろすぎない?と訴えるアメリカの良心たちの戦いでして、ぼくたちの世代(70年代以降生まれ)は、アメリカを性的に奔放な国と考えがちですが、そこはそれピューリタンによって建国された国だけに、性に対しては伝統的に厳しい国なのです。もともとヨーロッパでは、エロティシズムという美的感覚は古くから認められていて、さすがにまんこびろーんはまずかったと思いますが、それでも多くの絵画に裸婦が描かれ、多くの彫刻に裸体が刻まれたのは、ヨーロッパの芸術家がエロティシズムこそが芸術であると考えていた所以でありまして、女性を最高至上の存在と考えていた現れでもあります。反してアメリカでは、性はそのまま背徳として考えられており、例えば『緋文字』で有名なホーソンなどは、ローマの街頭をかざる裸体の彫刻像に激怒して、「こんなえろえろい町は消えてなくなれ!」と叫んだとか。極端な抑圧には極端な反発が起こるものでして、そのようなアメリカ的な性への抑圧にむかついたマーク・トウェーンなどは、『一六〇一年』という作品の中で、アメリカに渡来してきた白人のことを、「三十五歳までは男女関係をもたず、しかも、その後も七年に一回しか交わりをもたない」と表現しています。アメリカという国の性に対する抑圧と、それに対する反発は、ある意味においてアメリカの伝統とでも申しましょうか。二十世紀以降のアメリカ人の性的なものに対する奔放的な態度は、フリントさんも含めて、このような伝統的な性への無理解への反動が、大爆発した結果ともいえるのであります。
まあ、そんなことを考えなくても、とても面白い映画だと思うのですが、どうでしょう。欲を言わせてもらえば、フリントさんをもっともっとえろえろでパンクで諧謔的に描いても良かったのではないかな、などと思ったりもしますが。