
所用のため、バイクで新橋まで行ったのですが、余りの暑さと排気ガスのせいで完全に気持ちを打ちのめされてしまいました。帰りは時間に余裕があったので、出来るだけ裏道を通って走ったのですが、本日はお祭り日和らしく、あちらこちらでお祭りの準備の光景や、浴衣で歩く人々を見かけたりして、なにやら良い心持ちに。
裏道を移動する楽しさを感じるには、バイクで移動するのが一番です。次から次へと風景が変わり、人が変わり、匂いが変わります。路地を一本それただけで、それまでの生活が別の生活に変わり、決して終わることのない情景が延々と続きます。徒歩で裏道に入るのもゆったりとして良いかもしれませんが、この走馬灯のような風景の変化を味わうことはできないでしょう。車で裏道に入るのも良いかもしれませんが、生活の匂いと裏道の空気を肌に感じることはできないでしょう。やはり裏道を走るには、バイク、特に原ちゃのような小型のものが適しております。
夕方に、そのような裏道を通って川に沿って移動すると、遠くにお祭りの音が聞こえ、浴衣を着た人と人がまばらに歩き、遊んでいる子供たちの声、走り逃げる猫、恋人と思しき二人の男女は、道の端に取り付けられている地図で現在の場所を確認し、犬の散歩をしている女の子は息急き切って走り、時の折には夕食の香りがどこからか漂ってきます。夕の空に染まって風景の色は一変し、木々はオレンジ色に照映し、川面は夕焼けに映え輝き、なんとも言えず気持ちが良いのは、子供の頃の情景がそのままここには残っているからでして、世間では夏の終わりと秋の始まりを謳っておりますが、わたくしの夏はいつ間に失われてしまったのか、そのような物思いに耽り、途中に少しだけお祭りにの喧騒に参加するためにバイクを降りたところ、思い掛けない狐の嫁入りもまた心地よく。
焼きそばを食べながら、俳句詠み。
お祭りの
見せ物小屋に
奥村氏
ちんでか男と
看板にあり
ここしばらくの切迫した事情により、ほとんど友人に会うことなく過ごしているのですが、そのような生活が寂しいと思わないので、このままだと本当にすべての友人を失ってしまうのではないか、などと多少危惧はするものの、朝起きて、仕事に行って、帰宅して、事情のための本を読んだり映画を観たりという今の生活はある意味で理想でありまして、あと一週間でこのような生活も終わり、その後は自由の身になるわけですが、果たしてぼくはこの辛いながらも楽しい日々に区切りをつけることができるのか、っていうかつけるに決まっているのですが、嬉しいような寂しいような、微妙な心持ちでございます。
『クリスティーナの好きなコト』という映画を観たのですが、くだらな過ぎて面白かったですけれど、この種のギャグ映画って、えろネタ入れれば何でもそれなりに面白くなってしまうものです。脚本家の方には、是非とも安野モヨコさんの作品を読んで、面白い女の子の物語というものを勉強をしていただきたい。
あっぢー日々が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。こんな日には外に出ずに、アルカリイオン水でも飲みながら家で読書をするに限ります。ぼくは本日、「チェーホフの明晰なリアリズムを、フランツ・カフカの謎めいた表現主義に融合させている(By春樹)」といわれる、レイモンド・カーヴァーさんなどを読んで日を過ごしております。
改めてこの方の作品を読む返すと、とにかく感心感動感銘一入、つくづく偉い方だなあと感心し、ひとつひとつの作品に新たな感動を発見し、書かれている風景に心の底より感銘し、読みに耽るまさしく至福の時間、中でも特に感涙したのが『Fires』というエッセイです。
このエッセイは、カーヴァーさんが「影響」について書いたもので、村上春樹氏の翻訳で『ファイアズ(炎)』という全集の四巻に収録されておりますが、ぼくが読んだのは越川芳明氏の訳で、ユリイカの一九八七年十月号に掲載されていたものです。とにかく感動してしまい、すべてを読まないとこの良さは伝わらないと思いつつも、以下にそのほんの一部を引用します。
一九六十年代の半ばに、わたしはアイオワ・シティの混み合ったコイン・ランドリーにいた。五つも六つもある衣類の山—ほとんどが子供たちのだが、わたしたち夫婦の衣類もいくらかあった—を洗濯しようとしていた。妻は、その土曜日の午後、大学のアスレチック・クラブでウェイトレスの仕事をしていた。わたしは家事をしたり、子供の世話をしていた。子供たちは、その日の午後、たぶん誕生日パーティーか何かで、どこか友達のところにいっていたのだろう。ちょうどそのとき、わたしは洗濯をしていた。わたしはすでに意地の悪そうな老婆と、わたしが使わねばならない洗濯機の数をめぐって、くち汚く口論したばかりだった。わたしはいま彼女と、あるいは彼女に似たほかの人とともに、次の番をまっている。いらいらしながら、満員のコイン・ランドリーで、稼働している乾燥機から目を離さずに。乾燥機の一つが止まったら、湿った衣類の入った買い物籠を持ったまま、そこまでダッシュしよう。わたしはこのランドリーで、籠いっぱいの衣類を持って、チャンスを待ちながら三十分かそこら、ただぶらぶらしていたというわけなのだ。すでに乾燥機二つを見逃してしまっていた—ほかの誰かにとられてしまったのである。わたしはやっきになっていた。承知のように、子どもたちがどこにいるのか、わたしにははっきり分からない。どこかに迎えに行かなければならないかもしれない。もう遅くなりかけている。こうしたことが、わたしの精神状態にいいはずがない。わたしには分かっていたが、喩え衣類を乾燥機のなかにいれることができたにしても、乾くまでに—それを籠に詰め込んで、学生夫婦用のアパートに帰るまでに—もう一時間以上はかかるだろう。ついに乾燥機の一つが止まった。止まったとき、わたしはその真ん中にいた。なかの衣類は回るのを止め、動かない。三十秒かそこらで、もし誰も取りに現れなければ、その洗濯物を取り出し、自分のを代わりに入れるつもりでいた。それが、コイン・ランドリーのしきたりなのだ。しかし、そのときひとりの女がやってきて、乾燥機の扉を開けた。わたしは立ったまま、待っていた。この女は片手を乾燥機のなかに突っ込み、いくつかの洗濯物に触ってみる。まだ十分に乾いていない、そう女は判断したらしい。扉を閉め、十セント硬貨をもう二枚投入したのだった。呆然としたまま、わたしは買物車とともにその場を離れ、ふたたび待つはめになった。しかし、いまでも覚えているが、そのように涙も出んばかりの、どうしようもない欲求不満を感じている最中に、わたしは思ったのである。自分に二人の子がいるという事実に比べれば、この世でわたしの身に降りかかることなど、何一つ—ほんとうに何一つ—深刻でも、重要でも、大切でもない、と。つねに子どもたちから逃れられないし、つねに免れるころのない責任と果てしない苦労につきまとわれるのだ、と。
ふうう、とため息をひとつ。
現在、ぼくが所有するカーヴァー氏の書籍は昔に中央公論社から出版された短編集が二冊、それと傑作選が一冊だけで、全集が出てはいるのですが、どうにも高価で手が届きません。図書館で借りても良いのですが、ぼくは図書館でフィクションを借りるのがとても嫌いなので、出来れば自分で購入をしたいのですが、さっさと安価な文庫判が出ないかしら。