
本日よりお仕事始め。もちろん身に入りません。ああ、休みぼけ。。
夜、『竜馬の妻とその夫と愛人』を観ました。
いやー、泣きました。典型的な日本人男子の意見で申し訳ありませんが、わたくし、坂本龍馬を心の底から尊敬しておりまして、そのような人間の常ではありますが、大抵の映画や小説や漫画で描かれる坂本龍馬像がどうにも赦せません。それは、自分の中で思い描く坂本龍馬というものが余りにも具体的すぎるのと思い入れが強いせいなのでしょうけれど、そのような理由から龍馬さんに関連するものは出来るだけ観ないようにしています。
『竜馬の妻とその夫と愛人』がとても良かったのは、龍馬さんが一度も登場しないところでして、映画の中で龍馬さんは、人々の思い出の中にだけ登場します。龍馬さん以外の人物がどのように描かれていようとそんなの知ったこっちゃないのでどうでも良いのですが、彼らのひとりひとりが、彼らの中の龍馬さんの思い出を語るのを聞いていると、共通の好きの人の話を友達としているような、そんな幸せな気持ちになってしまうのです。会ったことないのですけど、ぼくの中ではとても大事な人ですから。
物語は、はっきり言ってしまえばただの恋愛コメディ映画なのですけれど、坂本龍馬というとんでもない男の女房だった女に惚れた西村松兵衛がとてもおかしくて、とても悲しくて、死んだ夫を絶対に忘れることのない女性を愛するなんて、考えただけでも辛いじゃないですか。でも松兵衛さんは、夫をないがしろにして、勝手気ままに生きるおりょうさんに対して、「あいつは布団の中でいい匂いがするんだよねえ。だから好き」みたいなことを言うのです。これってすごくわかります。人を好きになるって、こういうことなんですよねえ。
とても幸せな夢をみた。ここ数年の間にみた夢の中で、もっとも幸せな夢だった。目を覚まして、あうーなどと感涙の声をあげたのも久しぶり。ああ、覚めてうつつに悲しむならば、一時の幸福なんていらないのにい。
昼、ナット・ヘントフの『アメリカ、自由の名のもとに』を読んでいたら、新生児の安楽死の問題に関するコラムがあった。タイトルは「新生児の安楽死——ベイビー・ドゥー事件、何も言えず静かに死ぬことが権利か?」。安楽死といっても、このコラムではそれを一貫して嬰児殺し(あるいは殺人)と呼び、障害を持って生まれた子供が、簡単な延命処置すら両親に拒否されて死亡していく事件についてレポートしている。ついこの間、『BJによろしく』でも同じようなテーマが取り上げられていたけれど、このコラムが書かれたのは1985年であり、このような事件がそれほど昔から問題視されていたことを初めて知った。このような事件は、当事者の告発が無い限り表立つことはない。ヘントフがこのエッセイで言及するいくつかの事件も、事件に携わった看護婦や医者による告発によって発覚したものがほとんどである。
もちろん、新生児の両親がなんの苦悩もなく自分たちの子供を見殺しにしているとは思わない。背景には様々な事情があり、想像を絶する苦しみと悲しみを乗り越えて、自分たちの子供の延命処置を拒否する決断をするのだろう。ヘントフが問題にしているのも、新生児の両親ではなく、彼らがそのような選択をせざるを得ない社会と、新生児に対してそのような判断を簡単に下してしまう病院の在り方について。健常者とほぼ同様の生活ができる可能性があるにも関わらず、障害をもっていたりダウン症というだけで「生命の質」が低いと判断され、生きる権利が無効になってしまうような社会。そのような社会では、「生命の質」はQL=NEx(H+S)という公式で表現される。
1962年にノーベル生理医学賞を受賞したフランシス・クリックは、次のように述べている。「新生児は遺伝病にかんする検査に合格しなくてはならず、その検査に合格して初めて、人間としての権利を得るのである。検査に不合格ならば、その新生児に生きる権利はない」。なんの意志を持つこともできない新生児が、この世界に生きる権利を得るには、ある一定の条件をクリアしなくてはいけない。そのようにクリックは言う。
ソンドラ・ダイアモンドというある女性は、先天性の脳障害をもっており、ひとりでは服を着ることも、トイレに行くことも、ものを書くこともできなかった。二十代前半に事故に巻き込まれ、全身の60パーセントを火傷したとき、医者は彼女に治療を施す価値がないと両親に告げた。両親の根気強い交渉の結果、彼女はどうにか治療を受けることができ、以前と同様の生活を送ることができるようになった。彼女は次のように書いている。
「障害をもった人間に医者が自分のもつ知識や能力を行使し、エネルギーと時間を使うことは、医療のプロにとってみれば徒労であるように思えるのです。(中略)たとえそうだとしても、わたしにはあと一杯のコーヒーを楽しむ時間、あともう一本もタバコを楽しむ時間、さらにわたしが愛する人々と交流を楽しむ時間、こんなほんのわずかな時間を、ただ黙って諦めるわけにはいかないのです」
正直なところ、なにが正しいのかぼくにはわからない。どの程度の障害なら問題がないと考えるかは、人それぞれに異なるだろう。生が絶対的な正義だとは思わないし、死が絶対的な悪だとも思わない。けれども、自分の意志を持たない、生まれたばかりの新生児に対して、こちら側の判断で彼らの「生命の質」を推し量り「生きる権利」を奪うことが、正義であるとはどうしても思えない。そもそも「生命の質」なんて、そんなもの自体が存在しないのだから。
夜、全然観る気はなかったのだけれど、始皇帝の描き方が波紋を呼んでいるとの噂を聞いて、『Hero 英雄』を観に大泉へ。「十歩必殺」というネーミングで嫌な予感はしていたけれど、ほとんどギャグとしか思えないシーン満載で、なかなか面白かった。色彩は極端だし。音はうるさいし。始皇帝がばりばり剣を持って戦っているのにびっくりした。
この過剰なワイヤーアクションによるギャグ紙一重はどこまで続くのか。