03年08月07日(木)

 ねこぢるy(山野一)の『インドぢる』読了。予想していた百倍ぐらい素晴らしい旅行記だった。五年前に死去したねこぢるとの思い出を交えながら、義弟との新たなる旅が淡々とした文体で展開される。最初の方の文章は若干ぎこちなく感じるが、プリーで知り合いになったババたちとチャラスを回し吸いするあたりから、突然そのリズムとテンポが変化し、断片的な旅の記憶が走馬灯のように次から次へと展開されていく。舌、骨、少年、ポロ、桃源郷、雪、八瀬遊園、カラー、睡蓮鉢、竃、蒼穹、夜行列車、歯ぎしり、ツンドラ、夜明け等々。そのひとつひとつの記憶が、どうしようもなく切なく、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく楽しい。「舌」というエピソードでは、牛の舌の気持ち良さについて書かれている。路地を歩いている牛に出会うと、山野氏は板チョコを差し出す。

舌の感触がまたいい。乳房に吸い付く赤ん坊のように、なんのてらいもなく、ひたすら手のひらのチョコをなめしゃぶる。ずっしりした舌は人のふくらはぎ程もある。塩をふって、炭火で焼かれたのもいいが、生きているそれはまた格別の味わいだ。この鈍重な生き物は表情というものを持たない。しかしその部分はベロベログネグネせわしなくのたくり、くねり、甘味への渇望を教えてくれる。熱い唾液がみるみるチョコレートを溶かしていく。その感覚が直に手のひらに伝わる。溶けたチョコレートが、裏はヌロヌロ表はザラザラした舌にしみ込んでいく。大きな半閉じの目が細まる。今この生き物の脳が味わっている甘さが、黒い瞳の奥に見える。

 最終章の「ポカラ」では、今回の旅行の記憶よりも前回のねこぢるとの旅行の記述が多くを占める。最後の章にきてようやく、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ感傷的な文章が綴られる。読みながら、まるで自分がインドとネパールを旅したような、自殺した妻との旅の記憶をたどっているような、そんな錯覚にとらわれる。ねこぢるとの何ということない旅の記憶が、淡々とした文体で次々に綴られる。「ポカラ」の章で綴られる一番最後の記憶、この旅行記全体で一番最後になるねこぢるとの記憶の中で、山野氏とねこぢるはある湖でボートに乗っている。あまりにも平和で、あまりにものどかな記憶。

この湖は思いの外広い。ここに流れ込むパルパン・コーラという川を見てやろうと思うのだが、なまった腕ではなかなかこぎきれるものではない。湖の中程であきらめる。なんとも呆れたのどかさだ。パチョ、ドプ、ペチャ、タプ・・・。船縁を洗う波の音が気持ちいい。ねこぢると私は、眠たいカエルのような顔をしていつまでも漂っていた。川が流れ込むあたりは霞がかかっている。その上の渓谷は、あたたかな日を浴びてゆらゆら揺らめいている。

 旅行記全体を通して、ねこぢるに関する感傷らしき記述は、「まえがき」と「あとがき」を抜かせば、「ポカラ」の章を除いてはほとんど見当たらない。淡々と、今回の旅行と交差させるようにねこぢるとの記憶が語られているだけだ。その記憶が、勝手な感情移入を承知で言わせてもらえれば、とても悲しい。山野氏は、ねこぢるの骨の一部をインドの海に流すために日本から持って行った。しかし、結局流すことは出来なかった。その事実を描写する記述に、内面的なことはほとんど書かれていない。けれども、このシーンを読んで悲しさを感じない人はいないだろう。

 壺から骨のかけらを出し、手のひらに包んで海水につけた。日差しは強く首の後ろが焼けるようだが、海水は冷たい。波の力が強く、もろいかけらから小さな断片をさらって行く。波が引くとき手を開いて流してしまおうと思った。次こそと思うのだが、何度もやりすごしてしまう。結局手を引き上げ、もとの壺に納めてしまった。

 山野氏がどうして再びインドへ行ったのか、どうしてこの旅行記を書くことにしたのか、ぼくにはわからない。「あとがき」には、ねこぢるが死去してからの一年間、ねこぢるの骨が入った白い箱に向って自問したことが書かれている。「疑問はどんどん湧いてくるが、答えは何一つ与えられない。すべて憶測のまま放置される。考えは同じ所を堂々巡りして、そこから抜け出せない」。もしかしたら、その答えを見つけるために再びインドに旅立ったのかもしれないし、あるいはその答えを見つけることをあきらめるためだったのかもしれない。とにかく、山野氏はその疑問について、次のように書いている。「確かに自分がそんなにいい夫だったとは思わない。しかし、私が死ぬまで徹底的に無視され続けなければならない程ひどかったとも思えないのだ」。

 今、こんな旅行記を書ける作家は日本には他にいないと思う。しかも、自殺した妻と一緒に旅した場所を再訪するなんて、一歩間違えればとんでもなくおさむいものになってしまうだろう。大抵の場合、旅行記は無駄な距離感に満ちている。あるいは気負いと言い換えてもよいけれど、異国にいる自分をやたらと意識しすぎて、その自意識が文章全体にいやらしさを醸し出す。山野氏の文章には、この気負いがない。距離感が丁度よい。残念なのは、ねこぢるとの思い出の文章が太字になっていることで、これは前回の旅行と今回の旅行の区別を分かりやすくする為の配慮らしいのだが、はっきりいって邪魔だった。文庫化する際には、この余計な配慮を是非とも改善して欲しいと思う。リズムに乗って読み進めているときに、そのノリをがくんと崩すような余計な配慮はいりません。

 ああ、無性にインドに行きたくなった。インドを歩きたくなった。そしてなぜかヘンリー・ミラーが読みたくなった。この興奮を、どうやって静めたらいいのだろう。とりあえず走ってきます。

03年08月06日(水)

 夜、鉄割の会合へ。まあ、いつもの感じでお酒を飲んで、奥村君は一日平均二回オナニーをするという話を聞いたり、月末に嬉しいイベントがあることを聞いたり、十月の登山のことを話したり。

 その時に「恐怖やストレスで、一晩で白髪になることは現実にあり得るのか?」ということが話題になりました。ぼくと奥村君は「ありえないらしい」、その他の何人かは「あり得るらしい」と主張し、その場は「らしい」の連発で具体的な真相を知る人はひとりもいませんでした。その話はそのままうやむやになったのですが、なんだか腑に落ちないので帰宅してからちょいと調べてみたところ、いくつかのサイトでこんな情報を発見しました。

■白髪にまつわる俗説/ウソ・ホント?
■髪の常識、うそ?ほんと?
■苦労すると増える?一晩で真っ白?
■教えて!ドクター常識・非常識 Q&A
■過度の恐怖や心労は「一夜にして白髪をつくる」というのは本当?
■大きいショックを受けると一夜にして白髪になる(下の方に書いてあります)

 探せばもっとたくさんあると思いますが、取りあえず「一晩で白髪になることはありえない」というのが一般的な意見のようです。中には「一晩で白髪になることもあるらしい」と書かれているサイトもいくつかありましたが、そのいずれもが伝聞形式(〜らしい、〜だそうだ)で書かれており(中にはマリー・アントワネットの話を事実として書いているサイトまでありました)、医学的・科学的に実例を挙げているサイトはひとつもありませんでした。(これらはあくまでもぼくがネットで調べた結果に過ぎませんので、もっと詳しく真実を知りたい人や納得がいかない人は、個人で調べてみてください)

 ただし、渡部さんも言っていたとおり、科学の常識というものは主張したもの勝ちのようなところがあります。客観的と思われている科学にも、様々な異なる「説」が存在するのがその証拠ですが、例えば携帯電話の電磁波の問題などは、あるグループが「携帯電話の電磁波は人体に悪影響がある」と発表すれば、別のグループが「携帯電話の電磁波は人体に悪影響はない」と反論し、しかもそのいずれもが具体的な実験結果やサンプルを提示したりして、決定的な結論は出ていない状態です。

「ある」ということを証明するのは簡単です。「ある」という研究結果を提示すればよいだけです。ただし「ない」ということを証明するのは非常に困難です。「ない」という結論を導き出した研究が、「ある」という結果を見逃しているだけの可能性は、決してゼロにはなりません。いくら実験結果から「携帯電話の電磁波は人体に悪影響を及ぼさない」と主張しても、それを完全に証明することはできません。例えば、電磁波問題市民研究会というサイトでは、以下のように書かれています。

(問)電磁波の健康被害は無いという報告も沢山あるのですが、どうしたわけでしょうか?
(答)ご質問のように、ハツカネズミを数世代にわたって電磁波を被ばくさせた環境で飼育し、被ばくさせなかったグループと比較して、その違いは無かったとの報告もあります。しかし、この結果から、電磁波被害は無いものと結論づけるのは誤りです。この実験モデルが実際の状況を模擬できているかどうかをさらに検討しなければなりません。言い変えれば、モデル実験によって最初の目的と違った結論が出たならば、モデルの設定が間違っているのでは無いかと、まず疑うのが正しいあり方と思います。

 極端に言えば、科学的な実験がある一部のサンプルを用いて行う以上、すべてのサンプル、つまりすべての対象に対して同じ結果が出なければ、完全に「ない」ということを証明することはできないということになります。

 ですから、科学的な論拠を提示して「一晩で白髪になることはない」ことを説明しても、「それは実例を見逃しているだけかもしれない。やはり一晩で白髪になることはあると思う」と主張されてしまえば、そこで話は終わってしまいます。科学は常に変革し、一時代前の常識は次世代の非常識であることは事実ですから、可能性で物事を語られては反論のしようがありませんし、そのことに関してはぼくも同意見ですから。あくまでも「現在の科学ではこういうことになっている」という形でしか、結論を出すことはできません。

 以前、七歳になる甥が「先生が言っていたんだけど、地球はあと百年ぐらいで滅亡するんだって」などととんでもないことを言い出したので、詳しく聞いてみると、どうやらオゾン層の破壊によって生じる地球温暖化のことを言っているらしく、学校の先生がどのように伝えたのかはわかりませんが、甥は完全に人類は滅亡すると信じていました。確かにオゾン層の破壊は深刻な問題だし、このまま放っておけば地球滅亡の可能性もゼロではありませんが、オゾン層破壊の脅威を教えるのであれば、それに取り組む各国の姿勢も一緒に教えて欲しかったと思います。小学生というのは、どんなことでも素直に吸収し、かつそれを糧として自己のアイデンティティーを形成します。だからこそ、小学生と接する大人には気をつけて情報を扱って欲しいと思います。「一晩で白髪になる」という情報が、嘘でも本当でもぼくにとってはどちらでもよいのですが、現在の世界で「本当とされていること」を知っておくことは、甥に対するぼくの責任です。ぼくにできることは、どの科学的根拠に依存するか自分の立場を決定し、それをぼくの真実として生きていくことだけです。もちろんすべての情報の真偽を確かめることは不可能ですから、できる限りの、という条件付きですが。

03年08月05日(火)

 ムーミン・コミックス全十四巻を購入。何年か前、トーベ・ヤンソンさんがお亡くなりになったときに、池袋リブロの特設コーナーで立ち読みをして、コミックスが小説の雰囲気と全然違うことに驚いた記憶がある。改めて読んでみると、やはり雰囲気はちょっと違うけれど、根底に流れているユーモアのセンスはやはりムーミンシリーズ独特のもので、ただ少しだけ小説より大人向けになっている感じだった。

 とにかくもう、最高に面白くて、法と秩序を完全に放棄したムーミン谷の生活が描かれている。例えば、第二巻の『ムーミン谷の気楽な生活』。義務と労働に目覚めたムーミンパパが、その第一歩として早起きをしたところ、物音に驚いたムーミントロールに射殺されそうになる。ムーミンパパは家族に労働と義務の話をし、感化されたムーミントロールはとりあえず仕事を得る為に、『磁石の世にひきつける個性を得る方法』というハウツー本を読むが、うまくいかない。ムーミンパパは、どの会社にも雇ってもらえないので自分で洞窟を改造してボートレンタルの会社を作るが、昔のボヘミアン仲間と再開し、トランプに打ち込む日々を送る。ある日、船乗りは危険な仕事なので生命保険に入れないという理由で、ムーミンパパは森番に転職する。ムーミントロールは警察署長から道をかざる貝殻を拾う仕事をもらう。しかし最後には、京極堂のごとき存在であるスナフキンの言葉によって、ムーミン一家は労働と義務から解放され、「どっさりワインときままな暮らし、やっぱりむりよね正しい生活!」という結論に至る。

 その他にも、黄金のしっぽが生えたムーミントロールが一躍メディアの寵児になったり、アメリカの西部開拓時代にタイムトラベルしたり、スノークのお嬢さんがやりまんみたいになっていたり、どのお話もとてもおもしろい。まだ三巻までしか読み終えていないので、あと十一巻も残っていると思うと嬉しくてわくわくする。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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