
お店の中はほとんど満席です。テーブル席で箱もり蕎麦を食していると、向かいには一組の恋人たち。焼味噌をおつまみにして、日本酒を飲んでいます。とはいっても、飲んでいるのはほとんど男性の方。話をしているのもほとんど男性の方。女性は静かな佇い。
お酒が一本飲み終わると、男性は女性に「もう一本飲む?」と尋ねます。女性はちょっと笑って、首を少し傾げます。「もう一本だけ頼んじゃおう。俺が飲むから」と言って、男性はもう一本注文をします。店員さんが「お蕎麦はどうしますか?」と聞くと、「もう少ししてから注文します」。
ふたりは、会話をしています。女性の口数は少ないものの、とても楽しそうに男性の話を聞いています。
お酒がきて、男性が手酌で自分のコップにつぐと、女性はちょっと恥ずかしそうにはにかみながら、人差指と中指で自分のコップを男性の方へつつっと押しやります。男性はそれに気づくと、笑って日本酒をついであげました。
ああ、ぼくが人生に求めているのは、こんな風なちょっとした幸せなんだよなあ、休日の昼下がりに、好きな人と日本酒を飲みながら蕎麦屋でゆっくりと過ごす、そんな幸せなんだよなあ、などと思いながら、まばたきもせずにふたりをずっと凝視していました。ほとんど、メンチ切っていたといっても過言ではありません。けれども、ふたりはぼくの視線になんかまったく気づきません。ふたりにとって、ぼくの存在は無も同然なのです。店員さんは気づいていたと思います。蕎麦を食べながら、素敵な恋人たちにガンつけているぼくに。
蕎麦屋をでて、善福寺公園へ行きました。桜はまだ咲いていなかったけれど、かすかに新緑の香りがしてとても気持ちが良かったです。家に帰ったら、たくさん読書をしようと思いました。

のら猫日記
全身で警戒をしながらも、もしかしたらエサをくれるかもしれないという期待から逃げ出さないでじっとしているのら猫の顔は、本当に良いものです。
最近のぼくの猫ブームは、大佛さんの『猫のいる日々』を読んだことから火がついてしまったことは間違いないのですが、火の付き方が尋常でありません。ワンルームだというのに、一人暮しだというのに、留守がちだというのに、猫と一緒に住みたくて仕方がありません。生き物を世話するということは、そんなに甘いものではないのだよと自分に言い聞かせて、ぐっと堪えています。
もしぼくが本当に猫と一緒に暮らすとしたら、とりあえず引っ越して、生活が落ちついてからと考えています。ということは、早くても半年後か、一年後か。そうなると、ぼくが将来、一緒に暮らす猫は、まだこの世には生まれていない可能性が高いです。その子の親だって、生まれているかどうか怪しいものです。つまり、どんなに猫と暮らしたくても、それは不可能だということです。だって、まだ生まれていないのですから。この世に存在しない猫をいくら追い求めても、白馬の王子様を待っているブスと一緒で、無駄なことでしょう。その猫が生まれてくるその日まで、じっと我慢して耐えましょう。そしてその日まで、引っ越しができるようにお金を貯めましょう。
子猫で鈴をつけて、よく庭に遊びに来るのがあった。時間が来ると、いつの間にか帰ったと見えて姿を隠し、また明日、やって来る。かわいらしい。どこから遊びに来るのかと思って、ある日、
「君ハドコノネコデスカ」
と、荷札に書いて付けてやった。三日ほどたって、遊びに来ているのを見ると、まだ札をさげているから、かわいそうにと思って、取ってやると、思いきや、ちゃんと返事が書いてあった。
「カドノ湯屋ノタマデス、ドウゾ、ヨロシク」
君子の交わり、いや、この世に生きる人間の作法、かくありたい。私はインテリ家庭の人道主義を信用しない。猫を捨てるなら、こそこそしないで名前を名乗る勇気をお持ちなさい。大佛次郎「ここに人あり」より