
■原因は鉄分不足! ベジタリアン食が、子供のIQ発達にブレーキ
知ってますか?草食だとうんこが臭くないのですよ。なのでベジタリアンの方はうんこが臭くないのです。
IQ高いけどうんこが臭い子供と、IQ低いけどうんこが臭くない子供、あなたならどちらを選びますか。ちなみに戌井さんはIQ低くてうんこが臭い子供だったそうです。
「ぼくはIQが高いのですよ」などと自慢気にいう方に毎年ひとりは必ず会いますが、それはつまり「ぼくはうんこが臭いのですよ」と鼻高々に自慢しているようなものです。気をつけませう。
雑誌『東京人』の今月号の特集は、「文士の食べ歩き」です。
殿山泰司から伊丹十三まで、いろいろな文士様のちょっとしたエピソードを交えながら、行きつけのお店などを紹介しております。ぼくは食には疎いほうなのですが、文士様にまつわる食べ物のお話がとても好きで、そのようなものを読んでいると味も良く判らないくせに文士様と同じものを食べたくなってしまいます。そんなに美味いものがあるのなら、食わねば損だわな、などと。
つい先日、内田百間先生の『御馳走帖』を購入しました。まだ半分程度しか読み終えていませんが、これがまたとても素敵な随筆で、戦争のためにまともに美味いものを食べることができなかった内田さんが、過去を振り返りながらしたためた、食べ物に関する文章を集めたものです。
どの文章もとても楽しく食指をそそるのですが、その中に『油揚』という段があります。『油揚』は、こんな感じに書き始まります。
志保屋の若様が、近所の子供と一緒に買ひ食ひをしてはいけないと、よく云われた。しかし古京の曲りの八百屋で、砂糖木を買ってかじつたり、後にその店に据ゑつけた硝子張りの箱の中に、砂糖醤油で煮つめた鯣がうまさうに濡れてゐるのを見て、我慢が出来ないから、内証で買つて食つた。
志保屋の裏には、三畳敷の部屋ひとつに三人で暮らす親子がおり、そこの子供と仲良しだった内田さん、ある日その家に遊びの誘いに行きます。すると、家の中から美味そうな匂いがして、「かかん、これん、一番うまいなう」というその子の声が聞えます。
内田さんが家の中を覗くと、その子は油揚げの焼いたのを食っていました。
内田さんは走って家に帰り、晩飯に油揚げを焼いてもらいます。
じゆん、じゆん、じゆんと焼けて、まだ煙の出てゐるのをお皿に移して、すぐに醤油をかけると、ばりばりと跳ねる。その味を、名前も顔も忘れた友達に教はつて、今でも私の御馳走の一つである。
ああ、美味そう。まじで油揚食いたい。頬張りたい。
その他にも、物心がついた頃からたばこを吸っていた内田さんが語る煙草遍歴『菊世界』とか、何も食べるものがなくなった戦時中に、自分の食いたいものをただ書き上げただけの『餓鬼道肴蔬目録』、教師をやめた後の生活を書いた『百鬼園日暦』など、本当にすべての文章がとても良くて、ぼくも今日からは、朝食は牛乳とABCクッキーと林檎、昼はもりざる蕎麦、夜は山海の珍味を肴に酒を飲むことにします。
最近、お酒は出来るだけ日本酒を飲むようにしているのですが、それは尊敬する吉田健一さんの『酒肴酒』を読んだ影響でして、とにかく酒のうまさを延々と語るこのエッセイ、日本酒をまったくおいしいと思わないぼくは、これを読んで以来、人生の半分を損しているような気がしてなりません。吉田さんは、日本酒を飲み始めると肴のことを忘れてしまうことに言及して、以下のように書いています。
日本酒にはまた、飲めば飲むほど、それだけでますますうまくなって行く性質があって、北条時頼が小皿に入れた味噌を肴に飲んだという話はその倹約をもの語るよりは、北条家にいい酒があったことを示すもののように思われる。つまり、日本酒に関する限り、肴のことをどうのこうのいうのは通振ることになるきらいがあって、その通人振っているのが飲む酒の質まで疑わしくする。
しかし、実はぼくは非常に日本酒下戸でありまして、本日も気が置けない友人たちと五合ばかり飲んできたのですが、もうまずくてまずくて何度吐き出してやろうかと思ったことか、おまけに頼んだ焼き魚の骨の多いこと、一口食ってやめてしまいました。ぼくの食通酒通への道のりは遠いようです。
鉄割のみなさんは、特に男性の方々は食通の方が多くて、日頃みなさんの手作りの料理などをよく食べさせていただいております。また、舌の方も下の方も大変こえているので、いろいろとおいしいものを教えていただいたりもするのですが、いかんせんぼくは食に疎いため、いまいち話題についていけておりません。残りの人生、存分に食を楽しめるようになりたいと、心より願う次第でございます。
今年のクリスマスは食通のお友達の家ですき焼きです。今から楽しみ。
せっかくのお休みですから、お友達を強引に連れ出して『アイリス』を観てきました。
はー、良い映画でした。不覚にも泣いてしまいましたよ。この映画は、マードック・アイリスという実在の小説家がアルツハイマーに侵されていく姿を描いた作品で、観る前に想像していたのは、「言葉」をもって世界を描く小説家が、武器である「言葉」をどんどん失っていくという苦悩を描いた映画だったのですが、いざ観てみるとそうではなくて、アルツハイマーの妻と彼女を愛する夫の、愛と苦悩の物語でした。身につまされる思いで映画に見入ってしまいまして。
マードック・アイリスという作家は、日本ではそれほど有名ではないので、その名前を初めて聞いた方も多いと思います。ぼくもこの映画で初めてその存在を知りました。文学だけではなく、哲学や戯曲にも優れた作品を多く残している方で、映画の中のほんの少しの発言からでも、彼女の造詣の深さを窺い知ることができます。
■Iris Murdoch Internet Resources
青山南さんがすばる文学カフェで連載している「ロスト・オン・ザ・ネット」の中で、彼女と映画のことが詳しく書いてあります。
■すうっと消えた作家の肖像(ロスト・オン・ザ・ネット)
このエッセイを読むと、光り輝いていた若い時代と、アルツハイマーに苦しむ年老いた時代にのみ焦点をあててアイリスを描いたこの映画に対して、文学者としての彼女のファンが戸惑っていることがわかります。先にも書いた通り、この映画は「マードック・アイリス」という一人の偉大な女性の生涯を描いた映画ではなく、あくまでも生涯を共に過ごしてきたある老夫婦の物語とみるべきなのでしょう。
自身もアルツハイマー病の母親を持つ監督のリチャード・エアは、「アルツハイマーの最も辛いところは、その人から本人自身や性格を奪い去ってしまうところです」と言っています。
今の僕の考えでは、個人という存在を規定するものは記憶であるということになるのですが、そうであるならば、記憶を失った個人は、もはや以前の個人ではないのだろうかという疑問が生じます。アルツハイマー病によって、過去の記憶と言葉のほとんどを失ったアイリスは、以前の「マードック・アイリス」とは別の個人になるのだろうか。答えはもちろん否です。
アイリスがたとえ記憶を失っていても、夫であるジョン・ベイリーが彼女と過ごした記憶を維持し、その記憶を愛し、彼女のことを愛している限りは、アイリスはマードック・アイリスであるし、記憶を失ってなお、アイリスがジョン・ベイリーを愛していたということは間違いありません。映画の中で現在と交互に映し出される若き日のアイリスは、単なる回想としてのフラッシュバックではなく、ジョン・ベイリーの記憶そのものなのです。マードック・アイリスがマードック・アイリスであるのは、彼女自身の記憶だけによるものではなく、彼女を愛するジョン・ベイリーという存在によってなのではないでしょうか。愛する人が自分を失ってしまったとき、その人をその人たらしめるのは、その人を愛する人だけなのです。
男友達が多く、性的に奔放な若き日のアイリスに対して、ジョン・ベイリーが自分への愛を詰め寄るシーンがあります。そのとき、アイリスはジョン・ベイリーに「You know me more than anyone. You are my world.」と言います。ぼくにはこの最後の「You are my world」が「You are my word.」に聞えて、なんとなく感動をしたのですが、「You are my world」だったのね。ちぇ。
良い映画を観たあとは、長い時間散歩するに限ります。ゆっくりと、頭の中で、映画を反芻いたしましょう