
せっかくのお休みですから、お友達を強引に連れ出して『アイリス』を観てきました。
はー、良い映画でした。不覚にも泣いてしまいましたよ。この映画は、マードック・アイリスという実在の小説家がアルツハイマーに侵されていく姿を描いた作品で、観る前に想像していたのは、「言葉」をもって世界を描く小説家が、武器である「言葉」をどんどん失っていくという苦悩を描いた映画だったのですが、いざ観てみるとそうではなくて、アルツハイマーの妻と彼女を愛する夫の、愛と苦悩の物語でした。身につまされる思いで映画に見入ってしまいまして。
マードック・アイリスという作家は、日本ではそれほど有名ではないので、その名前を初めて聞いた方も多いと思います。ぼくもこの映画で初めてその存在を知りました。文学だけではなく、哲学や戯曲にも優れた作品を多く残している方で、映画の中のほんの少しの発言からでも、彼女の造詣の深さを窺い知ることができます。
■Iris Murdoch Internet Resources
青山南さんがすばる文学カフェで連載している「ロスト・オン・ザ・ネット」の中で、彼女と映画のことが詳しく書いてあります。
■すうっと消えた作家の肖像(ロスト・オン・ザ・ネット)
このエッセイを読むと、光り輝いていた若い時代と、アルツハイマーに苦しむ年老いた時代にのみ焦点をあててアイリスを描いたこの映画に対して、文学者としての彼女のファンが戸惑っていることがわかります。先にも書いた通り、この映画は「マードック・アイリス」という一人の偉大な女性の生涯を描いた映画ではなく、あくまでも生涯を共に過ごしてきたある老夫婦の物語とみるべきなのでしょう。
自身もアルツハイマー病の母親を持つ監督のリチャード・エアは、「アルツハイマーの最も辛いところは、その人から本人自身や性格を奪い去ってしまうところです」と言っています。
今の僕の考えでは、個人という存在を規定するものは記憶であるということになるのですが、そうであるならば、記憶を失った個人は、もはや以前の個人ではないのだろうかという疑問が生じます。アルツハイマー病によって、過去の記憶と言葉のほとんどを失ったアイリスは、以前の「マードック・アイリス」とは別の個人になるのだろうか。答えはもちろん否です。
アイリスがたとえ記憶を失っていても、夫であるジョン・ベイリーが彼女と過ごした記憶を維持し、その記憶を愛し、彼女のことを愛している限りは、アイリスはマードック・アイリスであるし、記憶を失ってなお、アイリスがジョン・ベイリーを愛していたということは間違いありません。映画の中で現在と交互に映し出される若き日のアイリスは、単なる回想としてのフラッシュバックではなく、ジョン・ベイリーの記憶そのものなのです。マードック・アイリスがマードック・アイリスであるのは、彼女自身の記憶だけによるものではなく、彼女を愛するジョン・ベイリーという存在によってなのではないでしょうか。愛する人が自分を失ってしまったとき、その人をその人たらしめるのは、その人を愛する人だけなのです。
男友達が多く、性的に奔放な若き日のアイリスに対して、ジョン・ベイリーが自分への愛を詰め寄るシーンがあります。そのとき、アイリスはジョン・ベイリーに「You know me more than anyone. You are my world.」と言います。ぼくにはこの最後の「You are my world」が「You are my word.」に聞えて、なんとなく感動をしたのですが、「You are my world」だったのね。ちぇ。
良い映画を観たあとは、長い時間散歩するに限ります。ゆっくりと、頭の中で、映画を反芻いたしましょう