02年08月10日(土)
In the street the Thai criers wore suits and ties. They looked at me in contempt or else they said: Japanese only! or they shouted: Members only!
How can I become a memeber? I said. How can I become Japanese?
But to this they had no answer.
Willian T. Vollmann,THE ATLAS

 朝、眠い目をこすりながら六時に起床し、成田へ向かう。チェック・インして搭乗券を受け取ると、なぜか名前がインド人に、行き先はデリーになっている。インドに行けという何らかの啓示なのだろうかと思いつつ、カウンターに戻って事情を話し、正しい搭乗券を受け取る。

 ほぼ定刻通り日本を発つ。航空会社がエア・インディアのため、乗客の半分以上がインド人。うるさい。何かにつけて文句を言っている。インド人は、人の文句は聞かないくせに他人に対してはどんな些細なことでもクレームをつける。ぼくの隣には、チェック・インカウンターで、すべての荷物を機内に持ち込みたいと騒いで注目を集めていたインド人が座った。こいつ、絶対テロリストだよなー、と思いつつ、テロリストがナイフを出した瞬間にそれをたたき落として乗客を救う自分を想像する。ニッポンさようなら。

 今回の旅行の目的は、ラオスのワット・プーというクメールの遺跡を訪れるということ。しかし、目的と行っても便宜上のもので、ワット・プーは長い間放置され、遺跡としての損傷が激しく、現在日本の某大学が援助をして遺跡の復旧を行っているという話を聞き、復旧があまり進んでいない今を見ておきたいと思っただけだった。もちろん、クメールの遺跡には興味があるし、ヒンドゥーの寺院に、後から持ち込まれたという仏像にも興味がある。けれども、それは後付けの理由であって、この旅行自体の目的ではない。本当の目的は、歩くことだった。

 バンコクからラオスへ入国するには、タイの北部のノーンカイという町を中継することになる。飛行機で直接ラオスの首都ヴィエンチャンに入国することもできるけれど、予算のことを考えてノーンカイまで寝台電車で行くことにした。ドン・ムアン空港から、タクシーでファランポーン駅へ向かう。ところが、間違ってちょっぴり豪華なタクシーに乗ってしまい、ファランポーン駅まで650バーツかかった。ファランポーン駅までなら、300バーツもあればいけたよなー、としばし後悔。アホみたいに貧乏旅行をするつもりは毛頭ないけれど、使う必要の金を使うつもりもさらさらない。まあ、これから気をつけましょう。

 初めて来たファランポーン駅は、おもったよりもきれいで、整然としている。早速外国人専用カウンターに並ぶ。恰幅の良い無愛想な係員が、こちらを一瞥もせずに事務的に対応する。今晩のチケットは完売していたので、仕方なしに明日のチケットを購入する。ファーストクラスで548バーツ。ここに来るまでのタクシー代より安いというのは、いまいち釈然としない。

 トゥクトゥクでカオサンロードに向かいながら、道々を記憶する。決して歩けない距離ではない。明日はここまで歩いてこよう、と思う。トゥクトゥクに乗っても微々たる金額ではあるけれど、とにかく歩きたい。

 カオサンロードで適当なゲストハウスにチェックインし、水のシャワーを浴びて、こちら用の服に着替える。ぼろぼろの汚い服だけど、これでやっと旅行をしているという気持ちになった。旅行者で賑やかなカオサンロードにいると寂しくなるので、少し離れたタナオロードへ行く。

 三年前にこのタナオロードを訪れたとき、欧米の観光客はほとんどおらず、タイの少し裕福な育ちの若者たちが集まって騒いでいて、夜中を過ぎるぐらいまでそうとう盛り上がっていた記憶があるのだけど、今来てみると、とても閑散としている。あれれ、道を間違えたのかな、と思って周りを見回すと、景色に見覚えがある。とりあえず先に進んでみると、やはり見覚えのある店を発見したが、名前が違っている。中をのぞくと、なにやら怖い人たちがたむろっている。ああ、怖い。旅行初日で殺されてはたまりません。そそくさと店の前を通り過ぎる。

 そのまま、カオサンロードへは戻らずに適当に歩く。チャイナタウンへでも行ってみようか。歩いていると、トゥクトゥクがぼくに向かって叫んでいる。「ヘイ!マンコ!マンコ!アタミ!マンコ!」ぼくは「マンコ、ノーサンキュー」と応えて、歩く。狭い道路を挟むようにして伸びている狭い歩道を挟むようにして乱立している商店群をながめながら、歩く。少しでもお金を稼ごうと笛を吹いたり歌を歌ったり子供を抱いたり泣きまねをしたり一点を凝視したり地面に思いっきり寝転がったりしている浮浪者たちに挨拶をしながら、歩く。日本の歌舞伎町並にあるいは日本の歌舞伎町以上に混雑して雑然とした交通渋滞の車の間をぎりぎりの間隔で猛スピードで通り抜けていくモータバイクを眺めながら、歩く。一時間も歩くと、チャイナタウンに入る。チャイナタウンは、道路にはみ出るほどに屋台で溢れている。少し奥に入ると、おばあさんが座って地面に何かを並べている。並べているのは人形やらお守りやらがらくたやらで、どうやら売り物らしい。おばあさんはぼくを一瞥もしないが、「サワッディー・クラップ」と挨拶をすると、笑顔で応えてくれた。

 一時間ほどチャイナタウンをぶらぶらしたあと、屋台で食事をとる。炒めたご飯に、鳥の唐揚げのようなものを刻んで載せたシンプルなものと、香草のスープ。うまい。けど辛い。

 深夜、ゲストハウスに戻る。一階がディスコのため、夜中二時にもかかわらず大音量でダンスミュージックが流れている。前回泊まったときには、ディスコはなかった。あまりの騒音に、眠ることが出来ず、持ってきた『日本的霊性』を読む。西田幾多郎の著作と比べて、鈴木大拙の文章はとても分かりやすく、且つ面白い。「なにか二つのものを包んで、二つのものがひっきょうずるに二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である。」なんていう文章を読むと、わくわくしてしまう。大拙は書く。「霊性は民族が或る程度の文化段階に進まぬと覚醒せられぬ。」或る程度の文化段階とは、いったいどういうことなのだろう、と思って読み進める。大拙は書く。「原始民族の意識には精練せられた霊性そのものはない」「ある段階に向上した民族でも、その民族に属するすべての人間が霊性を有するものではない」この「或る程度の文化段階」という表現にいやな引っ掛かりを感じながら読み進めると、日本が「或る程度の文化段階」に達したのは、禅と浄土系思想が確立した鎌倉時代であるという。そうしてさらに、禅と浄土系思想に関する説明が続く。ちょっと疲れたので『日本的霊性』を閉じて、京極夏彦の『姑獲鳥の夏』を開く。京極夏彦の作品は、以前からぼくの尊敬する複数の友人に勧められてはいたのだけど、その分厚さに気圧されてどうしても読むことが出来なかった。ところが、読み始めたら死ぬほど面白い。びっくりするぐらい面白い。結局明け方まで読んでしまい、いつの間にかディスコの音楽も消えていた。

ながし

 明日はなにをしようかしら。考えながら眠る。

02年08月09日(金)

recoreco』という雑誌に池袋の書店ガイドが掲載されていると聞いて、早速買って読んでみました。この雑誌は先日創刊されたばかりらしく、以前から此処其所の本屋で見かけてはいたのですが、似たような雑誌がまた創刊したなあと思って立ち読みもしませんでした。けれども、いざ読んでみるとこれがなかなかおもしろくて。

 キャッチフレーズが「本と書店で遊ぶレコメンデーションブック」ということからもわかる通り、ミュージックマガジンの「本」バージョンのようなものでして、東京や大阪、京都の本屋に関するガイドや、大量の(短い)書評、微妙に豪華な執筆陣による連載で構成されています。書評好き、ブックガイド好きのぼくにとっては、なかなか嬉しい内容でした。これで「本を読む場所」について言及している記事があればさらに楽しめたのですけど、残念。

 この種のブックガイドは、昔から多く出版されていますが、うざいのは『必読書 150』のように「これを読まなくては猿だ!」などと偉そうなことを言っているものとか、立花隆の『ぼくはこんな本を読んできた』の「小学生の時に漱石やディケンズにはまりまくってねえ、あっはっは」みたいな、だから何なの?的なもので、この種ブックガイドは、根底に「ぼくのように賢くなりたいだろう、きみい」といういやらしさが漂っていて、体中が痒くなってしまいます。ひねくれすぎ?子供のころの、課題図書のトラウマが未だに残っているのかしら。

 ではどのようなブックガイド、書評が好きなのかというと、たとえば『recoreco』に掲載されている記事で言えば、豊崎由美さんの『読点を打つ旅の記録』という書評のように、自慢でもなく、嫌みでもなく、その人がその本を愛する理由がのほほんと述べられているような、その書評を書いた人自体に共感してしまうような、そのような書評が好きです。

 豊崎さんは、『読点を打つ旅の記録』の冒頭で、作家の種類を「時代の気分を増幅させるタイプ(典型として村上龍)」と、「抵抗する炭坑のカナリア型というふたつのタイプ」のふたつに分けます。そして、後者のタイプは「素材やテーマに一直線には切り込んでいかない。むしろ迂回して迂回して、興味をひく虫か何かを見つけた時の仔猫のような身振りで時折飛び退ったり、近づいたり」する作家であると書き、そのたとえとして平出隆を紹介します。

 豊崎さんは、平出隆の『ベルリンの瞬間』を引用しながら書きます。

「日本にいながら、なぜ自分がこの土地において、この国語において、ある種致命的な欠落を抱え続けるか、ということを、ぼくは考えないでいられなくなっていた。」という一文を、つっかえるような読点と共に記さずにいられない作家は、「持て余すほどに巨き」くて、「歴史のあらゆる断絶が、あらゆる角度から襲いなおしてきて、感情の壁を逆立てるよう」な都市ベルリンを精力的に、しかし、つつましやかな足取りで歩きます。早々に結論づける安易な句点を許さない、自問に強いるがごとき独特の読点を打ちながら。

 書評の楽しみを知ったのはつい最近のことで、幾万とある書評の中に、時折それ自身に共感してしまうような書評があることに気付きました。「共感」という表現は適切ではないかもしれません。ぼく自身が経験したことのある素晴らしい読後感、あるいは経験してみたい読後感を連想させる感覚、とでもいいましょうか。その本を読むことによって感じたことを、その人の経験と知識を駆使して適切な言葉で表現してくれるような、そのような書評。書評自体で感動してしまうような書評のことです。

 そのような書評を読むと、紹介されている本自体に興味を持つというよりも、「そのような書評を書く人が推薦する(しない場合もあるけど)本」を読んでみたいという気持ちになります。この書評を書いた人が、このように感じた本を、ぼくはどのように読み、感じるのだろう、と。

 豊崎さんは書きます。

平出氏はそうやってたくさんの読点を踏み、自ら打ちながらも、しかし、大変な繊細さをもって句点を避けようとしているかのように、わたしには読めます。大勢の先達の思考や行動を自らのそれに重ねるように、ベルリンという謎に近づいては遠ざかりながら思索を深めるこの書物が持つ時空間の広がりに感嘆しながら、その奥行きの深さにも共感を覚えずにはいられません。

 読みながらぼくは想像します。たくさんの読点を踏み、句点を避けようとしているかのような文章が綴る旅の記録のことを。そして思います。ぼくは、『ベルリンの瞬間』を読んだときに、その奥行きの深さに共感を覚えることができるのだろうか、と。

 最後に、豊崎さんはこう結論づけます。

ベルリンでの一年間が平出氏にとって切実なテーマを伴う経験である限り、読者も迂回し、近づいては飛び退る作家の精神の働きを共に経験し直すほかないのです。そして、そのひそやかな追走こそが読書という行為の歓びの確信なのではないか。短兵急を求めるときだからこそ、深く得心する次第です。

 この最後の文章を読んで、豊崎さんの書く「近づいては飛び退る作家の精神の働きの再体験」ということや、「ひそやかな追走こそが読書という行為の歓びの確信」であるということに、ぼくは強い共感を覚えます。そして同時に、いままさにぼく自身が、豊崎さんという書評家の読書体験を迂回しながら再体験し、そのひそやかな追走に歓びを感じているということを、強く確信するのです。

ベルリンの瞬間

 そして、本屋さんに『ベルリンの瞬間』を買いにダッシュ。

02年08月08日(木)

 本日八月八日は、日本を代表する民俗学者、柳田国男さんの命日でございます。

 柳田さんは、見かけによらず厳格な人でしたから、御年八十七歳になっても、食事をするときは正座をしてしっかりと御飯をいただきました。けれども、その日は少し様子が違いました。お食事をしていた柳田さんは、不意にパサッと倒れ込み、そのまま静かに息を引き取りました。享年八十七歳。大往生でございます。

燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保っているときがある。その灰が崩れるように床の上にパサッと倒れてしまった。
鎌田久子さんの回想より

 柳田さんは、皆さんもご存知の通り『遠野物語』を編纂したお方でして、民族学者として有名ですが、もともとは文学を志していて、花袋君や島崎君、独歩君や有明君などと「イプセン会」なるサロンを開いたりもしておりました。しかし、柳田さんが文学を志した明治時代は、自然主義が文学の主流になろうという時代でして、私小説という文学形態が、柳田さんの周辺をどんどんと埋め立てていきます。さて、困りました。柳田さんは、自然主義的な狭隘の世界ではなくて、もっともっと広々とした世界のことに興味があったのです。

 明治四十一年十一月四日。柳田さんは遠野出身のストーリーテーラー佐々木喜善君と出会います。佐々木君は、柳田さんに故郷の伝承を伝え聞かせます。柳田さんは興奮しました。佐々木君の語るお話には、柳田さんが当時唱えていた「山男=異人種説」を解明する鍵になるような山人伝説が多く含まれていたからです。

 それだけではありませんでした。佐々木君の語る物語群は、それがたとえ山人伝説に関係なくても、そのすべてが柳田さんの心を魅了するのに十分な力を持っているものだったのです。

 ザシキワラシ、河童、猿の経立、神女、デンデラ野とシルマシ、マヨイガ、山男、オシラサマ、オクナイサマ・・・。

 柳田さんは、佐々木君の口から発せられる言葉のひとことをも聞き漏らさないように集中して物語を聞き、遠野の村を夢想しました。そして、そのすべてを『遠野物語』に書き記すことを決心します。

此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。作明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。
『遠野物語』序文より

 柳田さんは、その生涯を通して多くの土地を旅しました。草鞋を履き、笠をかぶり、日本全国を歩き続けました。農道を歩き、農民たちを観察し、その風土の底にある「微妙なもの」を肌で感じようとしました。

 そんな柳田さんは、旅で農村を歩くことを「しんみり歩く」と表現しました。そして、旅そのものを「ういもの、つらいもの」であると言いました。柳田さんは、旅で何を見たのでしょう。旅で何を感じたのでしょう。

ヤナギダくん
旧家にはザシキワラシという神の住みたまふ家少なからず。此神は多くは十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎と云う人の家にては、近き頃高等女学校に居る娘の休暇にて帰りてありしが、或日廊下にてはたとザシキワラシに行き遭ひ大いに驚きしことあり・・・・
『遠野物語』「十七(ザシキワラシ)」より

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