
本日八月八日は、日本を代表する民俗学者、柳田国男さんの命日でございます。
柳田さんは、見かけによらず厳格な人でしたから、御年八十七歳になっても、食事をするときは正座をしてしっかりと御飯をいただきました。けれども、その日は少し様子が違いました。お食事をしていた柳田さんは、不意にパサッと倒れ込み、そのまま静かに息を引き取りました。享年八十七歳。大往生でございます。
燃えたものが灰になっても、灰のままその形を保っているときがある。その灰が崩れるように床の上にパサッと倒れてしまった。鎌田久子さんの回想より
柳田さんは、皆さんもご存知の通り『遠野物語』を編纂したお方でして、民族学者として有名ですが、もともとは文学を志していて、花袋君や島崎君、独歩君や有明君などと「イプセン会」なるサロンを開いたりもしておりました。しかし、柳田さんが文学を志した明治時代は、自然主義が文学の主流になろうという時代でして、私小説という文学形態が、柳田さんの周辺をどんどんと埋め立てていきます。さて、困りました。柳田さんは、自然主義的な狭隘の世界ではなくて、もっともっと広々とした世界のことに興味があったのです。
明治四十一年十一月四日。柳田さんは遠野出身のストーリーテーラー佐々木喜善君と出会います。佐々木君は、柳田さんに故郷の伝承を伝え聞かせます。柳田さんは興奮しました。佐々木君の語るお話には、柳田さんが当時唱えていた「山男=異人種説」を解明する鍵になるような山人伝説が多く含まれていたからです。
それだけではありませんでした。佐々木君の語る物語群は、それがたとえ山人伝説に関係なくても、そのすべてが柳田さんの心を魅了するのに十分な力を持っているものだったのです。
ザシキワラシ、河童、猿の経立、神女、デンデラ野とシルマシ、マヨイガ、山男、オシラサマ、オクナイサマ・・・。
柳田さんは、佐々木君の口から発せられる言葉のひとことをも聞き漏らさないように集中して物語を聞き、遠野の村を夢想しました。そして、そのすべてを『遠野物語』に書き記すことを決心します。
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。作明治四十二年の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。『遠野物語』序文より
柳田さんは、その生涯を通して多くの土地を旅しました。草鞋を履き、笠をかぶり、日本全国を歩き続けました。農道を歩き、農民たちを観察し、その風土の底にある「微妙なもの」を肌で感じようとしました。
そんな柳田さんは、旅で農村を歩くことを「しんみり歩く」と表現しました。そして、旅そのものを「ういもの、つらいもの」であると言いました。柳田さんは、旅で何を見たのでしょう。旅で何を感じたのでしょう。

旧家にはザシキワラシという神の住みたまふ家少なからず。此神は多くは十二三ばかりの童児なり。折々人に姿を見することあり。土淵村大字飯豊の今淵勘十郎と云う人の家にては、近き頃高等女学校に居る娘の休暇にて帰りてありしが、或日廊下にてはたとザシキワラシに行き遭ひ大いに驚きしことあり・・・・『遠野物語』「十七(ザシキワラシ)」より