
以前から個人のサイトを開きたいと思っていたのですが、それはちょっと大変そうなので、この雑記をそのままウェブログの形式にしてみようかと思い、さっそくちょっと作ってみました。
内容は鉄割の雑記そのままですが、個人的に使いやすいリンク集のようなものにしようかと思っています。どこまで続くかはわかりませんが。
おまけ。
ちょっと最初は怖いのですが、途中から素敵なメーティング・ダンス
■get your freak on
早速ですが、明日からしばらくは更新がなくなります。ぼくのことを忘れないで。
楽しみにしていたダニエル・クロウズ原作の『ゴースト・ワールド』をようやく観ました。
映画『ゴースト・ワールド』は、アメリカのオルタナティブコミック作家ダニエル・クロウズの作品が原作の、イーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカ(スカーレット・ヨハンスン)という性格の悪いふたりのハイティーンの女の子を描いた青春映画?です。
性格の悪いイーニドとレベッカは、文句と愚痴の日々を過ごしています。町を歩いて見かけのおかしいカップルを見つければ悪魔主義者呼ばわりをしたり、出会い系雑誌でおもしろそうな記事をみつければ、いたずら電話したりと、十代の皆さんが過ごしているであろう日常をこのふたりも過ごしています。この映画が普通の青春ものと違うのは、出てくるキャラクターがみんなとても面白くて、その面白さもなんといいましょうか、微妙な面白さなのです。行き過ぎていないのに、十分奇妙、という感じの人々がイーニドとレベッカのまわりにたくさん現れて、見ていてとても楽しかった。
数年前に、日本で女子高生ブームのようなものが起こって、村上龍が『ラブ&ポップ』を書いたり、知識人はこぞって女子高生論を書いたり、朝まで生テレビでは「女子高生」そのものがテーマになったりした時期があったじゃないですか。その頃にトゥナイトで、ある女子高生が日常の不満を書きつづったエッセイが発売されて、それがたいそうな売れ行きを見せているという特集がやっていました。さっそく本屋でその本をぱらぱらとめくってみると、なんだかよくわからないけど、なんだかんだと大人に対する文句ばかりが書かれていて、これはぼくが読んでもおもしろくないのではないかと思い購入するのをやめたのですが、結局のところイーニドが『ゴースト・ワールド』の中で言っていることも、その女子高生がエッセイの中で言っていることも、その内容にたいした差はないように思います。けれどもどうしてぼくがこんなにも『ゴーストワールド』を楽しめるのかといえば、そこにある差は、原作のダニエル・クロウズあるいは監督のテリー・ツワイゴフの手腕による語り口であり、それがたんなる文句で終わるか、作品として人を楽しませられるかの違いなのでしょう。優れた作品を評価する際に、「面白さに気づかされた」なんてことを言いますし。
原作を書いたダニエル・クロウズは、1961年シカゴ生まれ。86年に「Lioyd Llewallyn」でデビュー、その後「Eight Ball」を中心に、「Like A Velvet Glove Cast In Iron」「Caricature」「Devid Boring」などを発表。「クロウズが性を描写すると途端にしがらみめいた空気が発生するのは不思議な現象だが、垂れた乳首を描くのも上手だ。郊外生活の、退屈きわまりない日常の中にひそむ狂気や、強迫観念めいた不安感、ファインアートに対するフクザツな思い、悪夢のような不条理、孤独、暴力・・などのネガティブなキーワードでクロウズを読み解くのは誤解を招くであろう。『ゴースト・ワールド』の中で主人公のイーニドがはくこんなセリフに、以外とクロウズの本質があるように思えるのだ。『ねえ、ぶさいくなカップルが愛し合っているのを見るとこの世も捨てたもんじゃないってきぶんにならない?』(スタジオボイス2002年1月号より)」
さて、スタジオボイスといえば、今月号のスタジオボイスの特集は『レッツ・ガールズ』でして、その特集で取り上げられていたガールズ系ウェブサイトで面白かったものをちょっとだけ引用させていただきます。
■SucideGirls
最近、Wiredでも取り上げられたゴス、パンク系の女の子のセルフヌードサイト。 この「ゴス系」という言葉をぼくはよく知らないのですが、このサイトを見たときはびびりました。サイトのデザインがすごくかわいいし、女の子たちの写真もとても素敵です。でも有料なのがちょっと悲しい。
■Dame Darcy
アルタナティブ系コミックアーティストのデイム・ダーシーのオフィシャルサイト。オフィシャルなだけコンテンツは豊富ですが、怖いです。
■less rain
イギリスのウェブサイト制作集団。だまされたと思って見てみて下さい。ウェブデザインの仕事をしている人であれば、びびると思います。
ちなみに、『ゴースト・ワールド』でとてもブシェミが演じていたシーモアという人物は、映画オリジナルのキャラクターで、原作には登場しません。
昨日の雑記でも少し触れましたが、禅を世界に伝えた宗教家である鈴木大拙と絶対矛盾的自己同一という概念を確立した哲学者である西田幾多郎は同じ金沢の出身で、生涯を通してお互いに親友として交友しました。
森清さんの書いた『大拙と幾多郎』は、鈴木大拙と西田幾多郎という二人の思想家を中心に、明治時代以降、東洋の文化を世界に伝えようと奮闘した彼らと彼らの友人を描いた作品です。
鈴木大拙、西田幾多郎、安宅弥吉、和辻哲郎、岩波茂雄、安倍能成、野村洋三、野上豊一郎、釈宗演。明治から太平洋戦争までの動乱の時代を共に生きた彼らは、全員が今では鎌倉の東慶寺に眠っています。
文明開化以降の日本の文化は、西洋の文化をいかにして日本に消化するか、あるいは融合するかということへの試行錯誤だったようなイメージがあります。それはおそらく、絵画や文学における西洋的技巧の浸透が影響しているのかもしれません。そのような時代背景のなか、東慶寺に眠る彼らは、東洋の文化、ひいては日本の文化をいかにして海外へ伝え、理解してもらうかということに奮闘しました。日本は三流国であるという海外の評価、そして日本国内の評価をものともせず、どうどうと日本の文化を世界に広めたのです。
『大拙と幾多郎』は、大拙と幾多郎が生まれた明治三年から、昭和四十一年までを描いています。彼らがどれだけお互いに尊敬しあっていたか、影響しあっていたか、作者がそうあって欲しいと願う理想的な書き方が気になる点も多少ありますが、全編を通してその友情と信仰の深さに驚かされます。
読み進めていくうちに気づくのは、大拙と幾多郎がそれぞれ送った人生間の大きな相違です。大拙は若いうちからアメリカに渡り、アメリカ人の妻をもらい、日本に帰国後も多くの講演や執筆活動を行い、松ケ岡文庫という文庫をつくり禅と思想の普及に努めます。一方幾多郎はと言えば、若いうちより身内の不幸が続き、学問の道も思うままにならず、海外に行くことは生涯一度もなく、講演や執筆活動に関しては、そのようなことをするのであれば、その時間を自身で思索に使ったほうが良い、という性格でした。
久松真一さんは、その違いをこんなふうに書いています。
鈴木先生と西田先生とは、先に見た如くだと、相似どころか、返って性格的に相反するとさえ憶え、また真理探究のアプローチにしても、一は無分別知より分別知へ、直感より論理へ、平等より差別へであり、他はその逆である。さらに東西文化の架橋という世界文化史的寄与にしても、一は東洋独特のさまざまな具象的資料を、西洋に初めて投入することによって、東洋の神髄を広く西洋に知らしめて、画期的な新風を吹き込み、他は西洋古今の哲学を自家薬籠中のものとして自由に駆使し、東洋文化の独自性を哲学的に表詮することによって、西洋文化の真只中に東洋的なものを基礎づけるという内面的根本的な架橋を創めて起工したのである。
それでもそのような性格の違いはお互いを尊敬するのになんの障壁にもなりませんでした。
あるとき幾多郎は、主治医に聞かれます。
「先生はむつかしい顔をして何を考えていなさるのか」
すると幾多郎は答えます。
「わしは円いものをかんがえているのだ。これが見つかると、いろいろの学説が、種々の宗教が、みなうまく説明出来るのだ。その円いものを考えているのだ」
この話を、幾多郎の弟子の森本省念が大拙に伝えると、大拙はとても喜びました。幾多郎の気持ちがよくわかり、自分の考えにもよくにているので喜んだのでしょう。省念は「その円いものを大拙全集も説いているのだ。その円い奴を西田全集が評唱している、といってはどうか」と書いています。(「大拙全集の読み方」)
幾多郎は、大拙より先に昭和二十年六月七日に七十五歳で亡くなります。高齢とは言え、やり残したことはまだまだたくさんありました。
石井光男が知人と鎌倉の自宅で昼食をとっていると、そこへ大拙がきました。石井が玄関にでると、大拙はそこに座り込んで泣いています。大拙は、「とうとう西田が死んだ」といってまた激しく泣きました。
電車の中でこのエピソードを読んだとき、不覚にもぼくも泣いてしまいました。文章を読んで泣いたことなんてほとんどないのに、『大拙と幾多郎』でふたりの人生を追っていくうちに、彼らの人生がぼくのなかでどんどんリアリティを増していき、幼なじみを失った老人の気持ちが、痛いほどわかるような気がして泣いてしまいました。そんなもの、わかるはずがないのに。
大拙は、この前年に『日本的霊性』を著しています。太平洋戦争において大和魂が叫ばれる中、大拙はあえて「霊性」という言葉を使いました。
大拙は、この中で日本の霊性を鎌倉時代まで遡り、妙好人を例に出して説明します。
妙好人というのは、浄土系の信者のうち、ことに信仰が厚く、実世間での日常生活で徳があるひとをいう。妙好人は、学者や学僧にはいない。(中略)浄土系の思想をおのずからに体得して、その体得したものに生きている、そういうひとが妙好人なのだ。(中略)阿弥陀仏が自分で、自分が阿弥陀仏だ。そんな風に妙好人は考える。妙好人浅原才市を例にして、大拙はこう説く。何をいっても「あみだぶつ」になってしまうのが才市の世界だ。「有り難い、なむあみだぶつ」、「あさましい、なむあみだぶつ」、「弥陀の親さまがなむあみだぶつ」、「下さるお慈悲がなむあみだぶつ」、「出入りの息がなむあみだぶつ」、「夜があけてなむあみだぶつ」、「日がくれてなむあみだぶつ」すべて才市の言葉である。
太平洋戦争が終わると、「大拙はいよいよ『日本的霊性』が大事になる」と信じ、その必要性を説きました。しかし、大和魂が崩れ落ちた日本は、「それまでとはまるで反対の方向へ走ろうとして科学、技術を第一とし、その上に何よりも物質的能力の拡大を銃挺とする考えが」主流になりました。大拙は、このような考え方を、日本を再び戦争へといざなう考え方だといって非難します。「日本的霊性」は、敗戦で打ちひしがれた日本で、すんなりと受け入れられはしませんでした。
鈴木大拙は、その後も精力的に講演や執筆活動を行います。むしろ、これ以降の彼の活動は、より活発になっていくといっても良いでしょう。
そして昭和四十一年七月十七日、前日に飲んだミルクが原因で、大拙は九十六歳の生涯を閉じます。
『大拙と幾多郎』は、たんなる青春群像記としてもとても面白く読めると思います。興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。
それから、大拙さんの猫好きに関しては、以前の雑記でちょこっとだけ書いています。
億劫相別れて須弥も離れず(大燈国師)