
昨日の雑記でも少し触れましたが、禅を世界に伝えた宗教家である鈴木大拙と絶対矛盾的自己同一という概念を確立した哲学者である西田幾多郎は同じ金沢の出身で、生涯を通してお互いに親友として交友しました。
森清さんの書いた『大拙と幾多郎』は、鈴木大拙と西田幾多郎という二人の思想家を中心に、明治時代以降、東洋の文化を世界に伝えようと奮闘した彼らと彼らの友人を描いた作品です。
鈴木大拙、西田幾多郎、安宅弥吉、和辻哲郎、岩波茂雄、安倍能成、野村洋三、野上豊一郎、釈宗演。明治から太平洋戦争までの動乱の時代を共に生きた彼らは、全員が今では鎌倉の東慶寺に眠っています。
文明開化以降の日本の文化は、西洋の文化をいかにして日本に消化するか、あるいは融合するかということへの試行錯誤だったようなイメージがあります。それはおそらく、絵画や文学における西洋的技巧の浸透が影響しているのかもしれません。そのような時代背景のなか、東慶寺に眠る彼らは、東洋の文化、ひいては日本の文化をいかにして海外へ伝え、理解してもらうかということに奮闘しました。日本は三流国であるという海外の評価、そして日本国内の評価をものともせず、どうどうと日本の文化を世界に広めたのです。
『大拙と幾多郎』は、大拙と幾多郎が生まれた明治三年から、昭和四十一年までを描いています。彼らがどれだけお互いに尊敬しあっていたか、影響しあっていたか、作者がそうあって欲しいと願う理想的な書き方が気になる点も多少ありますが、全編を通してその友情と信仰の深さに驚かされます。
読み進めていくうちに気づくのは、大拙と幾多郎がそれぞれ送った人生間の大きな相違です。大拙は若いうちからアメリカに渡り、アメリカ人の妻をもらい、日本に帰国後も多くの講演や執筆活動を行い、松ケ岡文庫という文庫をつくり禅と思想の普及に努めます。一方幾多郎はと言えば、若いうちより身内の不幸が続き、学問の道も思うままにならず、海外に行くことは生涯一度もなく、講演や執筆活動に関しては、そのようなことをするのであれば、その時間を自身で思索に使ったほうが良い、という性格でした。
久松真一さんは、その違いをこんなふうに書いています。
鈴木先生と西田先生とは、先に見た如くだと、相似どころか、返って性格的に相反するとさえ憶え、また真理探究のアプローチにしても、一は無分別知より分別知へ、直感より論理へ、平等より差別へであり、他はその逆である。さらに東西文化の架橋という世界文化史的寄与にしても、一は東洋独特のさまざまな具象的資料を、西洋に初めて投入することによって、東洋の神髄を広く西洋に知らしめて、画期的な新風を吹き込み、他は西洋古今の哲学を自家薬籠中のものとして自由に駆使し、東洋文化の独自性を哲学的に表詮することによって、西洋文化の真只中に東洋的なものを基礎づけるという内面的根本的な架橋を創めて起工したのである。
それでもそのような性格の違いはお互いを尊敬するのになんの障壁にもなりませんでした。
あるとき幾多郎は、主治医に聞かれます。
「先生はむつかしい顔をして何を考えていなさるのか」
すると幾多郎は答えます。
「わしは円いものをかんがえているのだ。これが見つかると、いろいろの学説が、種々の宗教が、みなうまく説明出来るのだ。その円いものを考えているのだ」
この話を、幾多郎の弟子の森本省念が大拙に伝えると、大拙はとても喜びました。幾多郎の気持ちがよくわかり、自分の考えにもよくにているので喜んだのでしょう。省念は「その円いものを大拙全集も説いているのだ。その円い奴を西田全集が評唱している、といってはどうか」と書いています。(「大拙全集の読み方」)
幾多郎は、大拙より先に昭和二十年六月七日に七十五歳で亡くなります。高齢とは言え、やり残したことはまだまだたくさんありました。
石井光男が知人と鎌倉の自宅で昼食をとっていると、そこへ大拙がきました。石井が玄関にでると、大拙はそこに座り込んで泣いています。大拙は、「とうとう西田が死んだ」といってまた激しく泣きました。
電車の中でこのエピソードを読んだとき、不覚にもぼくも泣いてしまいました。文章を読んで泣いたことなんてほとんどないのに、『大拙と幾多郎』でふたりの人生を追っていくうちに、彼らの人生がぼくのなかでどんどんリアリティを増していき、幼なじみを失った老人の気持ちが、痛いほどわかるような気がして泣いてしまいました。そんなもの、わかるはずがないのに。
大拙は、この前年に『日本的霊性』を著しています。太平洋戦争において大和魂が叫ばれる中、大拙はあえて「霊性」という言葉を使いました。
大拙は、この中で日本の霊性を鎌倉時代まで遡り、妙好人を例に出して説明します。
妙好人というのは、浄土系の信者のうち、ことに信仰が厚く、実世間での日常生活で徳があるひとをいう。妙好人は、学者や学僧にはいない。(中略)浄土系の思想をおのずからに体得して、その体得したものに生きている、そういうひとが妙好人なのだ。(中略)阿弥陀仏が自分で、自分が阿弥陀仏だ。そんな風に妙好人は考える。妙好人浅原才市を例にして、大拙はこう説く。何をいっても「あみだぶつ」になってしまうのが才市の世界だ。「有り難い、なむあみだぶつ」、「あさましい、なむあみだぶつ」、「弥陀の親さまがなむあみだぶつ」、「下さるお慈悲がなむあみだぶつ」、「出入りの息がなむあみだぶつ」、「夜があけてなむあみだぶつ」、「日がくれてなむあみだぶつ」すべて才市の言葉である。
太平洋戦争が終わると、「大拙はいよいよ『日本的霊性』が大事になる」と信じ、その必要性を説きました。しかし、大和魂が崩れ落ちた日本は、「それまでとはまるで反対の方向へ走ろうとして科学、技術を第一とし、その上に何よりも物質的能力の拡大を銃挺とする考えが」主流になりました。大拙は、このような考え方を、日本を再び戦争へといざなう考え方だといって非難します。「日本的霊性」は、敗戦で打ちひしがれた日本で、すんなりと受け入れられはしませんでした。
鈴木大拙は、その後も精力的に講演や執筆活動を行います。むしろ、これ以降の彼の活動は、より活発になっていくといっても良いでしょう。
そして昭和四十一年七月十七日、前日に飲んだミルクが原因で、大拙は九十六歳の生涯を閉じます。
『大拙と幾多郎』は、たんなる青春群像記としてもとても面白く読めると思います。興味のある方は、ぜひ読んでみて下さい。
それから、大拙さんの猫好きに関しては、以前の雑記でちょこっとだけ書いています。
億劫相別れて須弥も離れず(大燈国師)
旅行の準備をするのは楽しいものですが、一番楽しいのは持っていく本を選ぶことです。
今回持っていこうと思っている本は、アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』、ラテンアメリカ文学のアンソロジー『美しい水死人』、川端康成『掌の小説』、ウィリアム・ギブソン『ニューロマンサー』、鈴木大拙『日本的霊性』、それとこの間Amazonから届いたばかりのジョン・リドリーの『愛はいかがわしく』などなど。ちょっと多いかしら。
アントニオ・タブッキの『夢のなかの夢』は、タブッキ自身が尊敬する、多くの芸術家のひとりひとりが見たであろう夢を、タブッキが想像して書き綴った短編集です。彼が夢を想像した芸術家は、ダイダロスからラブレー、チェーホフ、フロイトなど、さまざま。
最初に引用されている中国古謡がとても素敵で。
恋人の胡蝶の木の下に立ち、
八月の新月が家の裏手からのぼるとき、
もし神々が微笑んでくれるなら、
きみは他人の見た夢を
夢に見ることができるだろう。
『美しい水死人』というアンソロジーは、最近某友人からいただいたもので、収録されている作家のうちガルシア=マルケスやオクタビオ・パスなどはさすがに知っていますが、他の作家はほとんど知りません。かなりの絶賛とともに譲り受けた本なので、丁寧に読みたいと思っています。
川端康成の『掌の小説』は、以前にも日記に書きましたが、ウィリアム・T・ヴォルマンが強く影響を受けた作品です。ヴォルマンはこの小説にインスパイアされ、同じ手法を用いて「The Atlas」を書き上げました。ぼくはお恥ずかしながら未読なので、これを機に読んでみたいと思っています。かるくぺらぺらページをめくってみると、なかなかいい感じ。独立した短いお話が集合して、ひとつ世界を作り出す。ポール・オースターが同じ手法で小説を書いたら、すごく面白くなりそうだと思いませんか。
ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』は、なんで今更と思われるでしょうが、先日本屋さんで『90年代SF傑作集』を立ち読みしたところ、やたらと面白かったので、そこらへんの作品を読んでみようかと思っているのですが、実はぼくは80年代のサイバーパンクを全く経験していないので、せめて『ニューロマンサー』ぐらいは読んでおかなくてはいけないかな、と思いまして。ラオスで読むサイバー・パンクはなかなかおつなものではないでしょうか。
鈴木大拙の『日本的霊性』は、かなり昔から我が家にあるのに読んでいない本の一冊で、なんども完読をとチャレンジはしているのですが、毎回挫折してしまっています。旅行先のような、邪魔をするものがまったく存在しない場所でないと、これを読むことは不可能です。
実は、ぼくは相当昔から西田幾多郎という人の思想に興味があるのですが、彼の著書を読んでも全く理解できません。本当であれば、彼の著作を持っていくべきなのでしょうが、彼の作品は、たとえ旅行先であっても、難解すぎて読むことはできないでしょう。そこで、替わりというわけではありませんが、彼の親友でもある鈴木大拙さんの本を読もうという思惑でもあるのです。
長々と書いてしまいましたが、実際に旅行に持っていく本は旅行当日の朝になるまで決定しません。とにかく、こんなふうに本を選ぶことが、とてもとても楽しいのです。
ぼくの甥である宇饗君は、毎年長期の休みになると、僕の両親、つまり宇饗君の祖父母の家で過ごします。ですから、夏休みなどに実家に帰ると、ずっと甥と遊ぶことになるのですが、いかんせん頼りがいのない伯父なものですから、男の子らしい遊びなどしてあげることができません。
今年も、キャッチボールをやりたがる甥に対して、散歩に行きましょうと無理やり散歩に連れ出し、ふたりでぼくの青春の土地を逍遥してまいりました。
ぼくの実家というところは、本当に田舎でありまして、ほんの数分も歩くとすぐに視界が開けてます。あたり一面田んぼだらけ!それにしても、このあたりを散歩するのは久しぶりです。ぼくのあまり好きではない映画に、「おもいでポロポロ」という作品があるのですが、その作品のなかで、田舎の風景を見て感動している主人公の女性に対して、その田舎で農業を行っている男性が、都会の人は田舎の風景を自然だ自然だというけれど、田舎の風景はすべて人間が作り出したものであり、自然からいろいろな恩恵を受けている百姓が自然に感謝したり、時には自然と戦ったりして作り上げた風景なのであり、自然ではないのだよ、などと講釈ぶるシーンがある(ちょっと記憶があいまい)のですが、そんなシーンを思い出します。
しばらく歩くと、大きな湖に出ます。実家にいた頃は、天気の良い日はここに来て読書をしたものです。エロ本なんかもよく拾いました。ぼくの友達がアオカンしていたのもこのあたりです。上野君に殴られたのもこのあたりだし、後輩の竹隅君が若いリビドーに苦しんで裸でうろうろしているのを発見したのもこの近くでした。なんだかんだで思い出の多い場所なのです。そういえば、酔っぱらったおやじが水死体で発見されたこともありました。夏の夜は、肝試しなんかを行なって、ヤンキーにからまれてボッコボコにされたこともありました。冬になると湖全体が凍りつくので、早朝にやってきて氷の上で遊んでいたらばりばりと氷が割れて肝を冷やしたこともありました。ああ、やはり懐かしい。
住んでいたころはなにも感じませんでしたが、今こうして歩いてみるとなかなか良い場所ですね。湖畔にたっている小さな家を見ると、H.D.ソローのことを考えます。アメリカの自然分学者であるH.D.ソローは、ウォールデン湖畔の森の中での自足の生活の様子を『森の生活』という随筆集に書いています。湖畔の森で、読書と思索の日々。
夏の朝など、いつものように水浴をすませると、よく日あたりのいい戸口に座り、マツやヒッコリーやウルシの木に囲まれて、かき乱すものとてない孤独と静寂にひたりながら、日の出から昼ごろまで、うっとり夢想にふけった。あたりでは鳥が歌い、家のなかをはばたきの音も立てずに通り抜けていった。やがて西側の窓にさしこむ日ざしや、遠くの街道をゆく旅びとの馬車のひびきでふとわれに返り、時間の経過に気づくのだった。(中略)私は東洋人の言う瞑想とか、無為という言葉の意味を悟った。(『森の生活』より)昔は、いやでいやでたまらなかった田舎ぐらしですが、最近ではさっさと隠居したくてたまりません。
午後は、甥が観たいというので『アイスエイジ』を観に行きました。この種の映画は、技術は進歩しても、内容は僕たちが子供のころに観た映画と全然変わらないのですね。甥がスクラッチの一挙一動に大笑いしていました。しかし、甥と一緒に観るのは楽しかったのですが、こんな映画を飛行機の中で見たくないな、と思いました。