
02年07月25日(木)
古本屋で山折哲雄さんの『神秘体験』という本を50円で買いました。
「神秘体験」と聞くと、どうしてもオカルト的に考えてしまいがちですが、この本はそういった類のものではなく、文化人類学的に「神秘体験」を検証したものです。最後まで読んでも、さしたる結論に達するわけではないのですが、歴史に登場する神秘体験や、文学や音楽における神秘体験などエピソードが満載で、とても興味深いものでした。
山折哲雄は、「神秘体験」の種類を「空間」「エクスタシーとカタルシス」「音」「聖なるキノコ(ドラッグ)」「死」などいくつかの要素に章分けしています。そのなかで、各要素における神秘体験のエピソードを紹介していきます。
たとえば「空間」の章では、著者のチベットでの経験から初めて、風土と自然による精神状態への影響を説き、ユダヤ教やキリスト教が砂漠で誕生したことに触れています。また、「エクスタシーとカタルシス」では、マルチン・ルターが肛門の汚れたところに悪魔が姿を現すと信じていたことや、ラブレーの『ガルガンチュア物語』ではうんこに「自然的な宇宙」を見いだしていたことに言及しています。
また、「神秘主義の諸潮流」という章では、各宗教(キリスト教、イスラム教、グノーシス主義、ユダヤ教、インド思想、チベット密教などなど)による神秘体験の違いを説明しています。
この本では「神秘体験」の定義を「神もしくは超越的世界との直接交渉」と定めています。神秘体験から神という概念が生まれたのか?神という概念から神秘体験が生まれのか?ということは難しい問題ですが、この本のなかでは、以下のように書かれています。
宇宙遊泳中の彼を撮影しようとしたとき、突然カメラが故障してしまい、パートナーがそれを修理している間、彼はひとりで宇宙の完全な静寂の中に取り残されました。すべての音が遮断され、すべての視野は際限がなく、彼自身の肉体は地に足をつけるでもなく、空に飛んでいくでもなく、ただそこに浮かんでいました。それは、ほんの五分程度の時間でした。そして、その五分間に彼は突然思います。
(このラッセル・シュワイカートさんの詳しい話は、『地球交響曲』のほかにも、立花隆著『宇宙からの帰還』などでも読むことができます。っていうか、あっちこっちで同じ話をしているので、この人。)
『神秘体験』では、「聖なるキノコ」の章で、ベニテングダケからLSDまでの幻覚剤と神秘体験についても言及しています。
ベニテングダケは、古代インドにおいてシャーマンがトランス状態になるために飲むお酒「ソーマ」に使われていました。このような幻覚作用のあるきのこに関しては、世界中の宗教に記録が残っています。たとえば、マヤ文明では「神の肉」と呼ばれ呪術師に珍重されていたし、インディアンのシャーマンなんかも幻覚作用のあるマッシュルームを使用していました。
おもしろいのは、民族的に「キノコ好き」と「キノコ嫌い」があって、ロシアの民族や南ヨーロッパの人々は「キノコ好き」で、古代ギリシア人、ケルト人。スカンジナビア人、アングロ・サクソン民族は「キノコ嫌い」だそうです。
「聖なるキノコ」の章では、LSDに関して、その発見者であるアルベルト・ホフマンの発見に言及し、以下のように書いてあります。
最近Salon.comで書評がアップされた『Zig Zag Zen』という研究書があります。
この本は、仏教と幻覚剤の関係の論考集のようなものでして、仏教も幻覚剤も「the liberation of the mind(精神の開放)」と目的は同じなのに、何で幻覚剤は影に隠れているのさ、そもそも仏教と幻覚剤の関係ってなんなの?みたいなことを、いろいろな方々が真面目に論じている本です。
この本の序文で、スティーブン・バッチローは以下のように書いています。
仏教の側面からではありませんが、日本でも最近『サイケデリックスと文化—臨床とフィールドから』が出版されてます。この本もとても興味深いのですが、しばし後回しに。
ところで、「宗教と幻覚剤による神秘体験」というテーマからは少し離れますが、精神と物質(宗教と科学)に関しては、HotWiredに次のような記事が掲載されていました。
■チベット仏教と神経科学の融合は可能か
西洋科学(特に脳科学や精神科学など)がチベット式東洋の瞑想法と融合すれば、これまでの西洋医学では解決できなかった問題が解決し、さらなり発展が望めるのではないか、と言う記事です。
チベットに限らず、東洋の内観法と西洋的科学は、これまではある意味で対立とまではいかなくても、それに近い状態にあったと言えます。歴史的にそれぞれの立場を概観すると、東洋は精神的なアプローチをとり、西洋は物質的なアプローチをとってきました。2002年6月に行われた『科学と精神についての国際会議(a Science and the Mind conference)』では、そのような過去をふまえて、今後の科学と東洋的瞑想法のあり方を議論しています。この会議には、ダライ・ラマも出席しました。
このダライラマの言葉を会議に出席していた西洋の科学者たちがどのように受け止めているのかにとても興味があるのですが、記事の中ではその辺にはあまり触れていません。記事は、ペティグリュー教授の以下の言葉で締めくくられています。
まあ、このあたりのことはまたそのうちに。

「神秘体験」と聞くと、どうしてもオカルト的に考えてしまいがちですが、この本はそういった類のものではなく、文化人類学的に「神秘体験」を検証したものです。最後まで読んでも、さしたる結論に達するわけではないのですが、歴史に登場する神秘体験や、文学や音楽における神秘体験などエピソードが満載で、とても興味深いものでした。
山折哲雄は、「神秘体験」の種類を「空間」「エクスタシーとカタルシス」「音」「聖なるキノコ(ドラッグ)」「死」などいくつかの要素に章分けしています。そのなかで、各要素における神秘体験のエピソードを紹介していきます。
たとえば「空間」の章では、著者のチベットでの経験から初めて、風土と自然による精神状態への影響を説き、ユダヤ教やキリスト教が砂漠で誕生したことに触れています。また、「エクスタシーとカタルシス」では、マルチン・ルターが肛門の汚れたところに悪魔が姿を現すと信じていたことや、ラブレーの『ガルガンチュア物語』ではうんこに「自然的な宇宙」を見いだしていたことに言及しています。
また、「神秘主義の諸潮流」という章では、各宗教(キリスト教、イスラム教、グノーシス主義、ユダヤ教、インド思想、チベット密教などなど)による神秘体験の違いを説明しています。
この本では「神秘体験」の定義を「神もしくは超越的世界との直接交渉」と定めています。神秘体験から神という概念が生まれたのか?神という概念から神秘体験が生まれのか?ということは難しい問題ですが、この本のなかでは、以下のように書かれています。
神秘体験はイメージの所産であるといってもいい。神との精神的合一という体験も、「神」というイメージを回路にしてはじめて可能になる体験であるといわなければならない。それらの神秘体験を、哲学的、神学的に人間存在に意味づけをするものとして「思想的な言語」で語られると、それは「神秘主義」になります。
神秘主義は英語でmysticismという。これは一口にいって、神との直接的な交流や神的な合一を説く宗教思想である。自己が、神のような超越的存在や宇宙の根源と一体になる内面的な体験をえようとする立場であるといってもよい。そのような体験をラテン語では、ウニオ・ミスティカunio mystica(神秘的合一)といった。そのウニオ・ミスティカをうるために、純粋な瞑想、禁欲による特殊な心身訓練など、さまざまな実践形態が生み出された。たとえば、法皇に異端者と宣告されたキリスト教神学者であるエックスハルト(1260?〜1327)は以下のように言っています。
自己の内部に神の子が出現するのだ。自己の根底をつき破って神がみずからを開示してくるのであって、そのとき自我は根元的に滅却する。そしてその自己を開示する神の内奥は、「無」そのものなのだ。自己の根底がつき破られるこの「突破」の神秘体験は、「無」につつまれている。そこに人間における真の生の弁証法が存在するのではないか。この本を読んだ時にすぐに思い出したのが、『地球交響曲(ガイヤシンフォニー)』の第一番に出演していたラッセル・シュワイカートさんの話です。アポロ9号の乗組員だったラッセル・シュワイカートさんは、月着陸船のテスト中に次のような経験をしています。
宇宙遊泳中の彼を撮影しようとしたとき、突然カメラが故障してしまい、パートナーがそれを修理している間、彼はひとりで宇宙の完全な静寂の中に取り残されました。すべての音が遮断され、すべての視野は際限がなく、彼自身の肉体は地に足をつけるでもなく、空に飛んでいくでもなく、ただそこに浮かんでいました。それは、ほんの五分程度の時間でした。そして、その五分間に彼は突然思います。
ここにいるのは私であって私でなく、眼下に拡がる地球の全ての生命、そして地球そのものをも含めた我々なんだここで彼が感じたのは、宗教における神秘体験である「神聖なるもの、神的なものとの合一」ではなくて、むしろウパニシャッド哲学における「梵我一如」に近いもの、自己(我)と宇宙(梵)の融合に近いものでしょう。また、さらに言うなれば、『みんなのトニオちゃん』の「アルバイト」の章で、スネ郎が五億年の時を考え抜いて悟りを開き、空間に調和したということに近いものがあると思います。いずれにしても、シュワイカートさんの経験した神秘体験は「超越的なものとの合一」という意味で、人類が普遍的に経験してきた神秘体験と、なにも変わるところがありません。
(このラッセル・シュワイカートさんの詳しい話は、『地球交響曲』のほかにも、立花隆著『宇宙からの帰還』などでも読むことができます。っていうか、あっちこっちで同じ話をしているので、この人。)
『神秘体験』では、「聖なるキノコ」の章で、ベニテングダケからLSDまでの幻覚剤と神秘体験についても言及しています。
ベニテングダケは、古代インドにおいてシャーマンがトランス状態になるために飲むお酒「ソーマ」に使われていました。このような幻覚作用のあるきのこに関しては、世界中の宗教に記録が残っています。たとえば、マヤ文明では「神の肉」と呼ばれ呪術師に珍重されていたし、インディアンのシャーマンなんかも幻覚作用のあるマッシュルームを使用していました。
おもしろいのは、民族的に「キノコ好き」と「キノコ嫌い」があって、ロシアの民族や南ヨーロッパの人々は「キノコ好き」で、古代ギリシア人、ケルト人。スカンジナビア人、アングロ・サクソン民族は「キノコ嫌い」だそうです。
「聖なるキノコ」の章では、LSDに関して、その発見者であるアルベルト・ホフマンの発見に言及し、以下のように書いてあります。
LSDの発見による衝撃的な波紋は、しだいに各方面にひろがっていった。なかでも驚異とされたのは、この特殊な幻覚剤を飲むと、正常な人間のうちにも終末論的な錯乱のヴィジョンや神秘的で宗教的な深い意識がつくりだされるということであった。幻覚剤は、人間の心にたいして増幅効果と触媒効果をおよぼすことがわかったのである。しかもそのような経験の母胎が、正常な人間の無意識領域のなかに存するということまでが明らかにされた。人間の精神の無意識領域には、「終末論的な錯乱のヴィジョンや神秘的で宗教的な深い意識」が存在している、と『神秘体験』には書かれています。僕が今一番興味があるのは、精神とはなにか?意識とはなにか?無意識とはなにか?意識と無意識の差異とはいったい何なのか?ということです。人間の精神は、状況に応じていかなる状態にも変化します。中世時代に、天国が物理的に存在すると考えていた人々と、科学の時代に生きている僕たちとでは、その精神の働きが同じだとはとても思えません。僕は無神論者ではありませんが、人類が語ってきた「神」という概念には疑問を感じる点が多々あります。そのことを詳しく語るには、ぼくの思想はあまりにも未熟過ぎるので控えますが、もしも人類の意識に共通した「終末論的な錯乱のヴィジョンや神秘的で宗教的な深い意識」が存在するとしたら、その意識とはいったい何を意味するのでしょう。もっと煎じ詰めて言えば、人が、そして僕が「考える」ということは、いったいどういうことなのか。幻覚剤を使用しなければ到達できない意識があるとしたら、その意識はいったい何を意味しているのでしょうか。
最近Salon.comで書評がアップされた『Zig Zag Zen』という研究書があります。
この本は、仏教と幻覚剤の関係の論考集のようなものでして、仏教も幻覚剤も「the liberation of the mind(精神の開放)」と目的は同じなのに、何で幻覚剤は影に隠れているのさ、そもそも仏教と幻覚剤の関係ってなんなの?みたいなことを、いろいろな方々が真面目に論じている本です。
この本の序文で、スティーブン・バッチローは以下のように書いています。
1960年代に起こった仏教やその他の東洋的伝統へ引き寄せられた人々のかなりの割合は、(著者も含めて)彼らの宗教的態度に、マリファナやLSDのような、精神に作用を及ぼす薬物の経験が影響していたことは明らかだ。早速Amazonで取り寄せてみたのですが、読むのには相当時間がかかりそうです。読み終えたら、また感想を書きたいと思います。
仏教の側面からではありませんが、日本でも最近『サイケデリックスと文化—臨床とフィールドから』が出版されてます。この本もとても興味深いのですが、しばし後回しに。
ところで、「宗教と幻覚剤による神秘体験」というテーマからは少し離れますが、精神と物質(宗教と科学)に関しては、HotWiredに次のような記事が掲載されていました。
■チベット仏教と神経科学の融合は可能か
西洋科学(特に脳科学や精神科学など)がチベット式東洋の瞑想法と融合すれば、これまでの西洋医学では解決できなかった問題が解決し、さらなり発展が望めるのではないか、と言う記事です。
チベットに限らず、東洋の内観法と西洋的科学は、これまではある意味で対立とまではいかなくても、それに近い状態にあったと言えます。歴史的にそれぞれの立場を概観すると、東洋は精神的なアプローチをとり、西洋は物質的なアプローチをとってきました。2002年6月に行われた『科学と精神についての国際会議(a Science and the Mind conference)』では、そのような過去をふまえて、今後の科学と東洋的瞑想法のあり方を議論しています。この会議には、ダライ・ラマも出席しました。
さまざまな分野で、チベット人が実践してきたことの有効性が続々と明らかになっている。科学がやっと、検証できるだけの高度なテクノロジーを開発したわけだ。会議の中で、「急進的物質主義者を否定した」ことに関しての説明を求められたダライ・ラマは、以下のように述べています。
(中略)
問題は、現代科学が劣っていて、チベット的技法が優れているということではない。ただ、チベット人は経験的観察に基づいた科学的真理を数多く発見してきたということなのだ。
われわれが精神として体験することの本質は、より広い世界、宇宙、また宇宙の起源と進化といった事項に対するわれわれの理解と、直接かつ密接に結びつく言葉で理解しなければならないと私は考えている「われわれが精神として体験することの本質」を言葉で理解する。
このダライラマの言葉を会議に出席していた西洋の科学者たちがどのように受け止めているのかにとても興味があるのですが、記事の中ではその辺にはあまり触れていません。記事は、ペティグリュー教授の以下の言葉で締めくくられています。
われわれがチベット人から学べるものがあるのは明らかだ。薬剤に頼るだけが答えではない。こういった技法から学べるものは確かにある。将来、世界はチベット仏教と科学の融合に向かうだろうこの雑記でぼくが書きたかったのは、LSDのことでも宗教のことでも神様のことでもオカルトのことでも西洋科学と東洋の瞑想法のことでもなくて、人間の「精神」のことです。上の記事では、以下のようなダライラマの言葉を引用しています。
意識や精神について語ろうとすると、概念的に非常に難しい問題になる。この2つを明確に区別することはとても難しい。だが、個人レベルでは、日々の生活で皆実体験としてこの区別をつけているぼくは「意識」ということについてまともな勉強なんてしたこともないし、本を読んだこともありません。ですから、僕が言っていることは、哲学やあるいは心理学などに詳しい人たちから見れば、あまりにも幼稚に思えるかもしれません。そこらへんはごめんなさい。
まあ、このあたりのことはまたそのうちに。

02年07月24日(水)
あるお友達から、暇だから遊びましょうと電話が来たので、『ルーブルの怪人』を観に行ってきました。
久しぶりに映画館で気持ち良く眠りました。
何となく消化不良で、同じソフィー・マルソーが出演しているミケランジェロ・アントニオーニ監督の『愛のめぐりあい』をビデオレンタルで借りて観ました。
この映画は、映画監督である主人公(ジョン・マルコビッチ)を軸として、複数の愛の不毛をオムニバス風に描いている作品なのですが、いやあ、何度観ても素晴らしい。
男性が女性の肌に触れないようにして、体の線を撫でるようにぎりぎりのところをたどっていくシーンがあるのですが、そのシーンがとても良かったので、一度個人的なセックスでまねをしてみたことがあるのですが、僕がやるとただのこっけいな変態になってしまいました。映画ではとても美しいのに。
僕の一番好きなエピソードは、映画の中で一番最後に登場する、以下のようなお話です。
ある若者(ヴァンサン・ペレーズ)が、たまたま見かけた一人の女性(イレーヌ・ジャコブ)に一目ぼれをする。さりげなく話しかけると、女性はこれからミサへ行くという。男性は、なんとか女性と懇意になりたくて、歩きながらいろいろな話をするが、二人の会話はいまいちかみ合わない。二人はそのまま教会にはいる。若者は、女性から少し離れた席に座る。
教会を出て後、見失った女性を再び発見した若者は、噴水のところで話をする。「”生”が怖い」という女性に対し、「僕らにあるのは人生だけ。生しか確かなものはない。この世で生きて、あの世では死人。この世では笑えても、死人の笑いは無視される。」と若者は語る。女性は男性を見つめて一言、「その考えは意味がないわ。」と言って歩き出す。
徐々に心を開いていく彼女に、若者はどんどん惹かれていく。雨の中を二人で歩き、彼女のマンションに到着し、部屋の前まで行く。彼女が部屋に入ろうとする直前に、若者は「あしたもあえるかな」と聞く。彼女は暫し沈黙し、「あした、修道院に入るの」と言い、ドアを閉める。
この最後の部屋の前のシーンの感動とかは、それまでの二人の会話を聞いていないといまいち伝わりにくいと思いますが、僕は初めてこの映画を観たとき、この彼女の最後の一言に完全にやられてしまって、映画が終了したあとも、しばらく席から立ち上がることができませんでした。今回もやられてしまったので、多分十年後に観てもやられてしまうと思います。
このエピソードの中に、教会で祈りを捧げている女性を見て、若者が感動をしているシーンがあります。祈りを捧げるイレーヌ・ジャコブの美しさは、映画を観てもらうしかないのですが、この時の若者の心情を、原作では以下のように表現しています。
この小説を購入したのは、映画が公開した当時なので、もう七年ぐらい前になります。当時、映画に感動して小説を購入したのですが、小説の方はさっぱりわけがわかりませんでした。今回、何年かぶりに小説を開いてみたのですが、以前よりは面白かったけれど、それでもまだこの小説の「良さ」がわかっていません。
僕はまだまだ若造です。あと何年したらわかるようになるのかな。

「偉大な芸術家の作品をコピーすることは、芸術家の動きをなぞることだ。彼とまったく同じ動作をするチャンスがある。それが悪いか?天才の動作を再現するんだぞ。自分の絵なんか描くより、僕はずっと満足できる。」(通りすがりの夫人に、描いている絵を「セザンヌのコピー」と揶揄されたアマチュア画家が)
久しぶりに映画館で気持ち良く眠りました。
何となく消化不良で、同じソフィー・マルソーが出演しているミケランジェロ・アントニオーニ監督の『愛のめぐりあい』をビデオレンタルで借りて観ました。
この映画は、映画監督である主人公(ジョン・マルコビッチ)を軸として、複数の愛の不毛をオムニバス風に描いている作品なのですが、いやあ、何度観ても素晴らしい。
男性が女性の肌に触れないようにして、体の線を撫でるようにぎりぎりのところをたどっていくシーンがあるのですが、そのシーンがとても良かったので、一度個人的なセックスでまねをしてみたことがあるのですが、僕がやるとただのこっけいな変態になってしまいました。映画ではとても美しいのに。
僕の一番好きなエピソードは、映画の中で一番最後に登場する、以下のようなお話です。
ある若者(ヴァンサン・ペレーズ)が、たまたま見かけた一人の女性(イレーヌ・ジャコブ)に一目ぼれをする。さりげなく話しかけると、女性はこれからミサへ行くという。男性は、なんとか女性と懇意になりたくて、歩きながらいろいろな話をするが、二人の会話はいまいちかみ合わない。二人はそのまま教会にはいる。若者は、女性から少し離れた席に座る。
教会を出て後、見失った女性を再び発見した若者は、噴水のところで話をする。「”生”が怖い」という女性に対し、「僕らにあるのは人生だけ。生しか確かなものはない。この世で生きて、あの世では死人。この世では笑えても、死人の笑いは無視される。」と若者は語る。女性は男性を見つめて一言、「その考えは意味がないわ。」と言って歩き出す。
徐々に心を開いていく彼女に、若者はどんどん惹かれていく。雨の中を二人で歩き、彼女のマンションに到着し、部屋の前まで行く。彼女が部屋に入ろうとする直前に、若者は「あしたもあえるかな」と聞く。彼女は暫し沈黙し、「あした、修道院に入るの」と言い、ドアを閉める。
この最後の部屋の前のシーンの感動とかは、それまでの二人の会話を聞いていないといまいち伝わりにくいと思いますが、僕は初めてこの映画を観たとき、この彼女の最後の一言に完全にやられてしまって、映画が終了したあとも、しばらく席から立ち上がることができませんでした。今回もやられてしまったので、多分十年後に観てもやられてしまうと思います。
このエピソードの中に、教会で祈りを捧げている女性を見て、若者が感動をしているシーンがあります。祈りを捧げるイレーヌ・ジャコブの美しさは、映画を観てもらうしかないのですが、この時の若者の心情を、原作では以下のように表現しています。
それでもその長いうつむきに沈んだ彼女の姿は、彼の心をつかんだ。血が血管を押し上げ始めているのを感じる。以前にも、いくらか麻薬をやった身体で女の子たちを前にした時に、これと同じ、彼女たちと結ばれ、彼女たちと一つになりたいという衝動と、それとともに性交を通じて自己の存在の不思議で充実した意識を抱いたことがあった。情欲のない、しかしきわめて強烈な至福感である。上記で引用したのは、アントニオーニが書いた『愛のめぐりあい』という小説の中の章のひとつで、こちらも映画と同様に、短い断片を集めたオムニバスの形式で構成されています。映画『愛のめぐりあい』は、この小説の中から抜き出したいくつかの短編を映像にしたものです。
この小説を購入したのは、映画が公開した当時なので、もう七年ぐらい前になります。当時、映画に感動して小説を購入したのですが、小説の方はさっぱりわけがわかりませんでした。今回、何年かぶりに小説を開いてみたのですが、以前よりは面白かったけれど、それでもまだこの小説の「良さ」がわかっていません。
僕はまだまだ若造です。あと何年したらわかるようになるのかな。

「偉大な芸術家の作品をコピーすることは、芸術家の動きをなぞることだ。彼とまったく同じ動作をするチャンスがある。それが悪いか?天才の動作を再現するんだぞ。自分の絵なんか描くより、僕はずっと満足できる。」(通りすがりの夫人に、描いている絵を「セザンヌのコピー」と揶揄されたアマチュア画家が)
02年07月23日(火)
オリバー・ストーン監督の『U・ターン』を観ました。
リブ・タイラーが目当てで観たのですが、観終えたときにはそんなことはすっかり忘れていました。友達が「結構面白いよ」と言っていたのですが、結構どころか最高に面白かったです。始まりから終わりまで、全部面白かった。オリーバー・ストーン監督の作品って、正直あまり好きではないのですが、この映画は別です。とても満足してしまいました。けど、ビデオレンタルでこのビデオをリブ・タイラーの棚に置くのはやめて欲しい。五秒ぐらいしか出てないじゃん。
あまりにもストーリーが良かったので、この映画の原作は一体誰なのだろうと思いクレジットを観たところ、ジョン・リドリーという人で、一応肩書きは映画監督ということらしいのですが、実際に何を監督したのかは不明です。脚本なんかは結構書いているらしく、「U・ターン」の脚本も担当しているし、『スリー・キングス』の原案なんかも彼の作品だそうです。
それで、早速『U・ターン』の原作である『Stray Dogs』の邦訳『ネヴァダの犬たち』を古本屋で探して購入、読んでみたのですが、これが死ぬほどおもしろい。最初に『U・ターン』の脚本を書いて、その後にこの小説を書いたということなので、内容は映画にかなり忠実ですが、映画を観ないでこの小説を読んだとしても、十分に面白いと思います。
で、ストーリーですが、ぼくが説明するよりも、本のディスクリプションを読んだほうが分かりやすいと思いますので、下にそのまま引用します。
「ノアール(暗黒)」という言葉に関しては、山田宏一さんが詳しく説明しているので、孫引用になってしまいますが、下に引用します。
ジョン・リドリーのその他の作品はというと、借金地獄の元脚本家志望ジェフティ・キトリッジが、どん底から這い出て真実の愛を見つけようとペテン計画を企てる『Love is Rocket(邦題:愛はいかがわしく)』、ジャッキー・マンという黒人のコメディアンが、人種差別の吹き荒れる公民権運動の揺籃期に、ハリウッドでスターダムへとのし上がる過程を描いた『A Conversation with the Mann: A Novel』、何をやっても長続きしないパリス・スコットという青年が、自殺したロックスターのテープと、盗んだドラッグから得たお金をもとに夢をかなえようとする『Everybody Smokes In Hell』などなど。さらに、来月には新作『The Drift』なんかも出るみたいです。
とりあえず、あと何冊か読んでみることにしましょう。
正直、ぼくはこの辺のジャンルにとても弱いので、もし詳しい人がいたらお勧めとかを教えて下さい。宗形君とかが詳しいのでしょうね。多分。

「計画?人間の計画はあてにならん。みんな計画外だ。俺の目も、お前がここに来たのも、こうしているのもな。」(盲目のインディアンが、ボブ・クーパに)
リブ・タイラーが目当てで観たのですが、観終えたときにはそんなことはすっかり忘れていました。友達が「結構面白いよ」と言っていたのですが、結構どころか最高に面白かったです。始まりから終わりまで、全部面白かった。オリーバー・ストーン監督の作品って、正直あまり好きではないのですが、この映画は別です。とても満足してしまいました。けど、ビデオレンタルでこのビデオをリブ・タイラーの棚に置くのはやめて欲しい。五秒ぐらいしか出てないじゃん。
あまりにもストーリーが良かったので、この映画の原作は一体誰なのだろうと思いクレジットを観たところ、ジョン・リドリーという人で、一応肩書きは映画監督ということらしいのですが、実際に何を監督したのかは不明です。脚本なんかは結構書いているらしく、「U・ターン」の脚本も担当しているし、『スリー・キングス』の原案なんかも彼の作品だそうです。
それで、早速『U・ターン』の原作である『Stray Dogs』の邦訳『ネヴァダの犬たち』を古本屋で探して購入、読んでみたのですが、これが死ぬほどおもしろい。最初に『U・ターン』の脚本を書いて、その後にこの小説を書いたということなので、内容は映画にかなり忠実ですが、映画を観ないでこの小説を読んだとしても、十分に面白いと思います。
で、ストーリーですが、ぼくが説明するよりも、本のディスクリプションを読んだほうが分かりやすいと思いますので、下にそのまま引用します。
「この世には神も、仏も、ロン・ハバードもいないのか!?」とジョンは天を仰いだ。愛車’64年型マスタングがネヴァダ砂漠でオーバーヒートしてしまったのだ。明日の午前0時までに、ラスベガスのギャングのところまで借金1万3千ドルを返しに行かなければならないというのに。身から出たサビ、八百長カードゲームでこしらえた借りだが、返さないことにはこの身が危ない。マスタングをなだめすかし、ようやくちっぽけな町、シエラにたどりついたが…熱さにさらされた町の住人は、どこかが変だ。鄙には稀な美貌の人妻グレースはいきなりジョンを誘惑し、冷たい飲み物を飲みに入った店では強盗に大事な1万3千ドルを奪われ、そのためにマスタングの修理代も払えず町を出ることすらできない。ギャングとの約束の時間は刻々と近づいてくる。そして、ジョンの運命は際限なく悪い方へ転がり落ちていった。『ネヴァダの犬たち』の巻末の解説によると、この小説は「新しいパルプ・ノアール(B級暗黒もの)」と呼ばれているそうです。「パルプ・ノアール」というのは、「ザラ紙に刷られた大衆雑誌(パルプ)の持つ雰囲気を、トンプスンらクライム・ノヴェル作家によるペイパーバック作品の暗黒(ノワール)性と重ね合わせた」作風のことです。
「ノアール(暗黒)」という言葉に関しては、山田宏一さんが詳しく説明しているので、孫引用になってしまいますが、下に引用します。
山田宏一『映画的なあまりに映画的な美女と犯罪』よりクライム・フィクションというジャンルは、ジェイムズ・エルロイぐらいしかきちんと読んだことがないのですが、なんだかとてもおもしろそうです。どうしてもタランティーノを思い出してしまいますけど。
<フィルム・ノワール>とは何かー「アメリカ映画序説」の著者スティーブン・C・アーリーによれば、「戦前のギャング映画に飽き始めた大衆を惹きつけるために、ハリウッドが1940年代に、暗いペシミズムのムードで味付けして生み出した新しいタイプの犯罪スリラー」である。それを<フィルム・ノワール>と呼んだのは、(中略)<アメリカン・スタイル>に魅惑されたフランスの映画狂たちで、1945年にマルセル・デュアメル監修でパリのガリマール社から発売されるやブームを巻き起こした有名な犯罪推理小説叢書<セリ・ノワール>(暗黒叢書)もあやかって、暗黒(ノワール)の形容がアメリカの犯罪映画に対するオマージュとして付されたのであった。
(「女の犯罪、女の活劇ー<フィルム・ノワール>断章」)
ジョン・リドリーのその他の作品はというと、借金地獄の元脚本家志望ジェフティ・キトリッジが、どん底から這い出て真実の愛を見つけようとペテン計画を企てる『Love is Rocket(邦題:愛はいかがわしく)』、ジャッキー・マンという黒人のコメディアンが、人種差別の吹き荒れる公民権運動の揺籃期に、ハリウッドでスターダムへとのし上がる過程を描いた『A Conversation with the Mann: A Novel』、何をやっても長続きしないパリス・スコットという青年が、自殺したロックスターのテープと、盗んだドラッグから得たお金をもとに夢をかなえようとする『Everybody Smokes In Hell』などなど。さらに、来月には新作『The Drift』なんかも出るみたいです。
とりあえず、あと何冊か読んでみることにしましょう。
正直、ぼくはこの辺のジャンルにとても弱いので、もし詳しい人がいたらお勧めとかを教えて下さい。宗形君とかが詳しいのでしょうね。多分。

「計画?人間の計画はあてにならん。みんな計画外だ。俺の目も、お前がここに来たのも、こうしているのもな。」(盲目のインディアンが、ボブ・クーパに)