
02年07月13日(土)
■芥川・直木賞:日本文学振興会が候補作を発表 選考委は17日
ある尊敬する知人に勧められて、今回の芥川賞の候補にもなっている吉田修一の「パレード」を読みました。
この「パレード」という本は、何ヶ月か前に書店で川上弘美の「パレード」と並んで売っていたときに、ぱらぱらとめくって斜め読みはしていたのですが、良くあるタイプの小説かと思い購入はしませんでした。
今回もほとんど期待しないで読み始めたのですが、これが読み始めてみると、とてつもなく面白い。電車の中で最初の第一章を読みはじめたのですが、本を閉じることが出来なくなってしまい、電車を降りてすぐに喫茶店に入って続きを読み、読んでいる途中で喫茶店が閉店になってしまい、仕方なく続きは次の日に用事先に向かう電車の中で読み、最期の一章まで読んだところで目的地についてしまったので、やむを得ず本を閉じ、次の日に一日の用事をすべて済ませてから夕方にカフェに行って最期の一章を読みました。
物語の骨子は良くあるタイプのものでして、友人同士でルーム・シェアリングをしている五人の若者の青春小説です。各章ごとにその五人の誰かが語り手となって、それぞれに思っていることや体験した出来事を一人称で語っていきます(ブギーポップは笑わないとか、そんな構成じゃありませんでしたっけ?)。
ひとりひとりの登場人物がとても上手に描けているし、ユーモアのセンスもすごいあるので、最初は電車の中で読んでいて何度も笑ってしまいました。
けれども、第一章から最終章にかけて、登場人物の心情や状況が少しずつ深刻になっていき、最終章に入ると読んでいるこちら側に語り手の内面が浸透してくるような、そのような緊張感を感じました。
最終章をカフェで読み終えた瞬間、ネタバレになるので詳しくは書きませんが、頭がぼーっとしてしまい、しばらく動くことが出来ませんでした。吉田修一の語り口があまりにも上手で、今読んだものが現実なのか小説なのかわからなくなって、頭が混乱していたせいかもしれません。
この本を貸してくれた方も言っていたことなのですが、この小説の帯には「素顔のままでは生きにくい。」とか書かれていて、このコピーを読むかぎり、よくありがちな感傷的青春小説というふうに受け取られてしまう可能性があると思います。現にぼくもそう思っていたぐらいですから。っていうか、物語の中盤までは、そう思っていたし。
けれども、読んでみればわかります。そんなものは、ばっこーんと越えていますから。この本を貸してくれた人は、物語のラストに感動していて、中盤の進行にはあまり気をやっていなかったみたいだけど、ぼくは逆にラストに行くまでのすべての章に感動してしまいました。
まあ、個人個人の好みがありますからね。
それで、これはちょっと吉田君を見逃していました、急いで他のも読んでみましょう、ということで、早速本屋に行って吉田修一の本を捜したところ、「最期の息子」と「熱帯魚」を発見。「最期の息子」は文学界新人賞を受賞した作品を含む短編集で、「熱帯魚」は、平成十年ぐらいから「文学界」に掲載された短編を収めた短編集です。とりあえず、評判の良い「最期の息子」を購入。そのまま図書館に行って「文学界」のバックナンバーを捜して、「熱帯魚」にふくまれている短編「突風」「熱帯魚」や、「Flowers」コピー。さらに一番新しい短編で今回の芥川賞の候補にもなっている「パーク・ライフ」もコピー。ついでに、今月号の新潮に保坂和志の新作「カンバセーション・ピース」の連載第一回目が掲載されていたので、それもコピー。コピー、コピー、コピー。(ぼくはコピーが大好きで、なんでもかんでもコピーしてしまう癖があります。)
そんでもって今、「最期の息子」を読み終えたところなのですが、正直なところ「パレード」の方が面白かったですけれど、それでもこの「最期の息子」もとても面白い。面白いというか、とても良かった。
これは残りの短編も楽しみです。
「パレード」の最期の章で、伊原直輝という登場人物が、ヘッドフォンで「アンドレア・シェニエ」の「なくなった母を」を聞きながらジョギングをするシーンがあるのですが、そのシーンがとても印象的で、やっぱり音楽はいいなあなどと思い、ついついMDウォークマンを買ってしまいました。
今までもMDウォークマンは持ってはいたのですが、相当昔に買ったもので、バックに入れて持ち運ぶだけでバックの重量が変わってしまうようなものですので、まあ、よい機会だからなどと自分に言い聞かせながら。
これからは夕方の石神井公園を、MDウォークマンで音楽を聴きながらジョギングするつもりです。
ところで、普通に考えた場合、「パレード」の最終章を読んでジョギングをしたいと思う人間はそうそういないと思うので、「パレード」を読まれる方はそこらへんは御了承ください。
ある尊敬する知人に勧められて、今回の芥川賞の候補にもなっている吉田修一の「パレード」を読みました。
この「パレード」という本は、何ヶ月か前に書店で川上弘美の「パレード」と並んで売っていたときに、ぱらぱらとめくって斜め読みはしていたのですが、良くあるタイプの小説かと思い購入はしませんでした。
今回もほとんど期待しないで読み始めたのですが、これが読み始めてみると、とてつもなく面白い。電車の中で最初の第一章を読みはじめたのですが、本を閉じることが出来なくなってしまい、電車を降りてすぐに喫茶店に入って続きを読み、読んでいる途中で喫茶店が閉店になってしまい、仕方なく続きは次の日に用事先に向かう電車の中で読み、最期の一章まで読んだところで目的地についてしまったので、やむを得ず本を閉じ、次の日に一日の用事をすべて済ませてから夕方にカフェに行って最期の一章を読みました。
物語の骨子は良くあるタイプのものでして、友人同士でルーム・シェアリングをしている五人の若者の青春小説です。各章ごとにその五人の誰かが語り手となって、それぞれに思っていることや体験した出来事を一人称で語っていきます(ブギーポップは笑わないとか、そんな構成じゃありませんでしたっけ?)。
ひとりひとりの登場人物がとても上手に描けているし、ユーモアのセンスもすごいあるので、最初は電車の中で読んでいて何度も笑ってしまいました。
けれども、第一章から最終章にかけて、登場人物の心情や状況が少しずつ深刻になっていき、最終章に入ると読んでいるこちら側に語り手の内面が浸透してくるような、そのような緊張感を感じました。
最終章をカフェで読み終えた瞬間、ネタバレになるので詳しくは書きませんが、頭がぼーっとしてしまい、しばらく動くことが出来ませんでした。吉田修一の語り口があまりにも上手で、今読んだものが現実なのか小説なのかわからなくなって、頭が混乱していたせいかもしれません。
この本を貸してくれた方も言っていたことなのですが、この小説の帯には「素顔のままでは生きにくい。」とか書かれていて、このコピーを読むかぎり、よくありがちな感傷的青春小説というふうに受け取られてしまう可能性があると思います。現にぼくもそう思っていたぐらいですから。っていうか、物語の中盤までは、そう思っていたし。
けれども、読んでみればわかります。そんなものは、ばっこーんと越えていますから。この本を貸してくれた人は、物語のラストに感動していて、中盤の進行にはあまり気をやっていなかったみたいだけど、ぼくは逆にラストに行くまでのすべての章に感動してしまいました。
まあ、個人個人の好みがありますからね。
それで、これはちょっと吉田君を見逃していました、急いで他のも読んでみましょう、ということで、早速本屋に行って吉田修一の本を捜したところ、「最期の息子」と「熱帯魚」を発見。「最期の息子」は文学界新人賞を受賞した作品を含む短編集で、「熱帯魚」は、平成十年ぐらいから「文学界」に掲載された短編を収めた短編集です。とりあえず、評判の良い「最期の息子」を購入。そのまま図書館に行って「文学界」のバックナンバーを捜して、「熱帯魚」にふくまれている短編「突風」「熱帯魚」や、「Flowers」コピー。さらに一番新しい短編で今回の芥川賞の候補にもなっている「パーク・ライフ」もコピー。ついでに、今月号の新潮に保坂和志の新作「カンバセーション・ピース」の連載第一回目が掲載されていたので、それもコピー。コピー、コピー、コピー。(ぼくはコピーが大好きで、なんでもかんでもコピーしてしまう癖があります。)
そんでもって今、「最期の息子」を読み終えたところなのですが、正直なところ「パレード」の方が面白かったですけれど、それでもこの「最期の息子」もとても面白い。面白いというか、とても良かった。
これは残りの短編も楽しみです。
「パレード」の最期の章で、伊原直輝という登場人物が、ヘッドフォンで「アンドレア・シェニエ」の「なくなった母を」を聞きながらジョギングをするシーンがあるのですが、そのシーンがとても印象的で、やっぱり音楽はいいなあなどと思い、ついついMDウォークマンを買ってしまいました。
今までもMDウォークマンは持ってはいたのですが、相当昔に買ったもので、バックに入れて持ち運ぶだけでバックの重量が変わってしまうようなものですので、まあ、よい機会だからなどと自分に言い聞かせながら。
これからは夕方の石神井公園を、MDウォークマンで音楽を聴きながらジョギングするつもりです。
ところで、普通に考えた場合、「パレード」の最終章を読んでジョギングをしたいと思う人間はそうそういないと思うので、「パレード」を読まれる方はそこらへんは御了承ください。
02年07月12日(金)
■Things Other People Accomplished When They Were Your Age
「あんたと同じ年齢で、他の人が成し遂げてたこと知ってる?」みたいな感じで、自分の年齢を入れると、その年齢の時に歴史上の人物が行なったことが表示されます。
僕の年齢だと、ブッダが出家して家族と財産を遺棄することを決心したり、グラハム・ベルがはじめて電話で文章全体を送信することに成功したり、アガサ・クリスティが処女作を完成させたり、マイケル・ファラデーが電磁循環説を主張したり、カートパトラック・マクミランが自転車を発明したり、エミリー・ジェーン・ブロンテが「嵐が丘」を書いたり、キャロル・キングがベストセラーアルバム「Tapestry」をリリースしたり、ジョージ・ダゴベルトが比較解剖学という科学分野を設立しております。
皆さん、一生懸命に生きていたみたいです。
ちなみに、0才で検索をすると
イエス・キリストが聖母マリアの子として生まれる。
から始まり、
フリードリッヒ・ハインケンが八ヶ月で通じるドイツ語を話し始める。
ウィリアム・J・サイディスが六ヶ月でアルファベットを覚える。
モード・アダムスが六ヶ月で初舞台を踏む。
レオナルド・バーンスタインが一歳になる前に、彼の初めてのピアノ・ノート(?)を演奏する。
100歳以上で検索をすると
アリス・ポルロックが102歳で処女作「Portrait of My Victorian Youth」を出版する。
ジェン・カルメントが119歳で世界最高齢と認定される(1997年に122歳で御臨終)。
聖書にしるされた族長メトセラが969歳で死亡。
などなど。
だからどうしたと言われると、それまでですが。
「あんたと同じ年齢で、他の人が成し遂げてたこと知ってる?」みたいな感じで、自分の年齢を入れると、その年齢の時に歴史上の人物が行なったことが表示されます。
僕の年齢だと、ブッダが出家して家族と財産を遺棄することを決心したり、グラハム・ベルがはじめて電話で文章全体を送信することに成功したり、アガサ・クリスティが処女作を完成させたり、マイケル・ファラデーが電磁循環説を主張したり、カートパトラック・マクミランが自転車を発明したり、エミリー・ジェーン・ブロンテが「嵐が丘」を書いたり、キャロル・キングがベストセラーアルバム「Tapestry」をリリースしたり、ジョージ・ダゴベルトが比較解剖学という科学分野を設立しております。
皆さん、一生懸命に生きていたみたいです。
ちなみに、0才で検索をすると
イエス・キリストが聖母マリアの子として生まれる。
から始まり、
フリードリッヒ・ハインケンが八ヶ月で通じるドイツ語を話し始める。
ウィリアム・J・サイディスが六ヶ月でアルファベットを覚える。
モード・アダムスが六ヶ月で初舞台を踏む。
レオナルド・バーンスタインが一歳になる前に、彼の初めてのピアノ・ノート(?)を演奏する。
100歳以上で検索をすると
アリス・ポルロックが102歳で処女作「Portrait of My Victorian Youth」を出版する。
ジェン・カルメントが119歳で世界最高齢と認定される(1997年に122歳で御臨終)。
聖書にしるされた族長メトセラが969歳で死亡。
などなど。
だからどうしたと言われると、それまでですが。
02年07月11日(木)
HotWired Japanで、暗号ソフトウェアPGPの開発者であるフィル・ジマーマンのインタビューが公開されています。
■フィル・ジマーマン <暗号ソフトウェアPGP開発者> インタビュー──われわれはプライバシーを捨てるべきではない
僕も含めて、一般にインターネットを使っている人で暗号化を意識している人は少ないのではないでしょうか。
いきなり暗号とか、プライバシーとか言われてもいまいちピンとこないでしょう。
ゴルゴ13に『最終暗号』という章があります。誰にも解読することのできない最終暗号を開発したために、アメリカのNSA(国家安全保障局)に命を狙われることになった数学者である佐久シゲルを、ゴルゴ13が援護して最終暗号を開発させる、というお話なのですが、このお話しが結構おそろしい話でして。
物語の中で、NSAはアメリカ国家の安全を保つために、世界中のあらゆる情報を盗聴、調査します。事件は未然に防がれるものの、そこには個人のプライバシーという考え方は微塵もありません。その情況に不安を抱いた佐久は、最終暗号を開発、公開しようとしますが、そのことを知ったアメリカ政府は、アメリカ大統領を通して日本政府に警告を与えます。慌てた日本政府は佐久を呼び出しますが、佐久は彼らに対して以下のように説明します。
■これが佐久暗号だ!
これは漫画の中の話ではありますが、あながち作り話というわけでもなくて、上記のジマーマンのインタビューや、(ぼくはまだ読んでいませんが)サイモン・シンの『暗号解読—ロゼッタストーンから量子暗号まで」なんかを読むと、このあたりの事がとてもよくわかるのではないでしょうか。
『暗号解読』に関しては、浅田彰さんが「暗号の世界を解読する』という書評を書いています(ジマーマンに関してもちょこっとだけ触れています)。
訳は亀井よし子さん。この方は、最近は「ブリジット・ジョーンズの日記」で有名ですけれど、ぼくの中ではアン・ビーティーの翻訳家というイメージがいまだに強い。
暗号に対する規制の是非に関しては、とてもデリケートな問題ですし、知識の無いぼくにはなにも言及することはできません。しかし、今後インターネットやパソコンはどんどん家電化するだろうし、それを使う人たちはパソコンに関しての知識がなくても使えようになるでしょう。そうなったときに、それを使う各個人のプライバシーが全部盗聴されているかもしれないという危険性に関しては、心に留めておく必要があるかもしれません。
ある意味、みんなサトラレみたいになっちゃうかもね。それはそれで楽しいのかな。
■フィル・ジマーマン <暗号ソフトウェアPGP開発者> インタビュー──われわれはプライバシーを捨てるべきではない
僕も含めて、一般にインターネットを使っている人で暗号化を意識している人は少ないのではないでしょうか。
いきなり暗号とか、プライバシーとか言われてもいまいちピンとこないでしょう。
ゴルゴ13に『最終暗号』という章があります。誰にも解読することのできない最終暗号を開発したために、アメリカのNSA(国家安全保障局)に命を狙われることになった数学者である佐久シゲルを、ゴルゴ13が援護して最終暗号を開発させる、というお話なのですが、このお話しが結構おそろしい話でして。
物語の中で、NSAはアメリカ国家の安全を保つために、世界中のあらゆる情報を盗聴、調査します。事件は未然に防がれるものの、そこには個人のプライバシーという考え方は微塵もありません。その情況に不安を抱いた佐久は、最終暗号を開発、公開しようとしますが、そのことを知ったアメリカ政府は、アメリカ大統領を通して日本政府に警告を与えます。慌てた日本政府は佐久を呼び出しますが、佐久は彼らに対して以下のように説明します。
「今はインターネットの時代だが、通信回路を伝送される情報を裸でやりとりしているために、簡単に彼らに盗聴されている・・・もともと、インターネットは、一九六九年、米国防省が核戦争の被害で、破壊が予想される通常の通信システムに代わって、緊急の通信網として作ったものだ。軍事的なものを世界中の人に開放すると彼らが言った時、おかしいと、思うべきだったのだ。」『最終暗号』の中で、佐久シゲルが生みだした暗号の根本となる定理の数式に関しては、以下のようなサイトまであります。
「一見、自由主義が確立したように思える現代だが、内情はもはや個人にプライバシーは無い。検閲社会が秘密裏に達成されているのだ・・」
■これが佐久暗号だ!
これは漫画の中の話ではありますが、あながち作り話というわけでもなくて、上記のジマーマンのインタビューや、(ぼくはまだ読んでいませんが)サイモン・シンの『暗号解読—ロゼッタストーンから量子暗号まで」なんかを読むと、このあたりの事がとてもよくわかるのではないでしょうか。
『暗号解読』に関しては、浅田彰さんが「暗号の世界を解読する』という書評を書いています(ジマーマンに関してもちょこっとだけ触れています)。
もとより、暗号というのはプロの外交官や軍人の領域に属し、一般人とはほとんど縁のないものだった。その閉ざされた領域で、暗号作成者と暗号解読者の密かで熾烈な戦いが歴史を通じて続いてきたことを、シンは雄弁に物語る。カエサルに遡る換字式暗号(アルファベットを何文字かずらせて置き換える)。頻度分析でそれを打ち破ったアラビアやヨーロッパの解読者たち。複数のアルファベットを組み合わせるというアルベルティ以来のアイディアを発展させ、26個のアルファベットを組み合わせることによって強力な暗号をつくりだしたヴィジュネル。さらにそれを打ち破ったバベッジ(コンピュータの先祖のひとつに数えられる階差機関の発明者でもある彼は、しかし、おそらく機密保持のためにヴィジュネル暗号の解読を公表できなかった)とカシスキー。さまざまな分野で名の知られた人々が暗号という閉ざされた領域で展開するドラマは、実に興味深い。ちなみに、シンは、ヤングやシャンポリオンらの古代文字の解読や、ドイルやポーらの文学における「暗号的想像力」*[1]にも説き及んでおり、この本に文化史的な厚みを加えている。ついでにもうひとつ。セアラ・フラナリーの「16歳のセアラが挑んだ世界最強の暗号」は、セアラという16歳の少女が、家族や友人の協力の中でCP法という暗号システムを発見するまでの経緯を描いた本です。暗号システムの入門書としても、少女の青春物語としても、どちらの読み方でも楽しめる本です。
訳は亀井よし子さん。この方は、最近は「ブリジット・ジョーンズの日記」で有名ですけれど、ぼくの中ではアン・ビーティーの翻訳家というイメージがいまだに強い。
暗号に対する規制の是非に関しては、とてもデリケートな問題ですし、知識の無いぼくにはなにも言及することはできません。しかし、今後インターネットやパソコンはどんどん家電化するだろうし、それを使う人たちはパソコンに関しての知識がなくても使えようになるでしょう。そうなったときに、それを使う各個人のプライバシーが全部盗聴されているかもしれないという危険性に関しては、心に留めておく必要があるかもしれません。
ある意味、みんなサトラレみたいになっちゃうかもね。それはそれで楽しいのかな。