
05年03月03日(木)

夕方から雪が降るかもしれないような気がしないでもないように思われるといっても過言ではないという中途半端な天気予報をきいて、電車で仕事に行きました。自転車に乗っていて困ることのひとつに、一日の読書の時間が減ってしまうということがあります。通勤のときの読書は、一日の読書時間のうちの結構な割合を占めるものですが、自転車で通勤をするとそれがまるまるなくなるわけで、夜に読書をしようと思っても、体が疲れているのですぐに眠ってしまいます。今週はずっと天気が悪いみたいなので、たまの通勤の読書を楽しみましょう。そういうわけで、今日は古本屋さんで購入したばかりの大佛次郎さんの『猫のいる日々』を持って家をでました。
ジャン・リシュバンだったろうか、自分の恋した数々の女の名前だけ並べて洒落た詩を書いた詩人がフランスにある。
たま、ふう、小とん、頓兵衛、アバレ、黒と並べたのでは詩にもなるまいが、僕は避け難い自分の臨終の数時間の静かな時を、自分の一生に飼った猫のことを順に思い出して明るいものにしたいと企てている。
自分の描いた駄作の数々を思って苦しむよりも、この方がどれだけ幸福だろう。
寝坊をしてお釈迦様の臨終にも間に会わなかったくらい冷たいエゴイスムに美しくこもっている猫どものことだから、無論、僕が来世へ向かっても出迎えに来るなんてこともあるまいが、集まったらこれは壮観なものだ。
考えて見たまえ、彼らの整列している間を僕はヒットラーのように勇ましく閲兵して歩く。
シャム猫、ペルシャ猫、とら猫、野良猫、いや、考えるだけでもちょっと楽しい。
猫が寝坊をしてお釈迦様の臨終に間に合わなかったという話は、いかにも猫然としていて大佛さんのお気に入りだったらしく、この随筆の中でも何度か出てきます。
ほかの動物の全部がお釈迦様の臨終を囲んで泣いたと云うのに猫だけはどこかで日向ぼっこをしていたのか虫を追って遊んでいて考えなかったのか出て来なかったと云って避難されている。
お釈迦様の臨終と云うような重大な瞬間に居合わせなかったことを勝手に人間が猫の落度としたのである。
としてもこの怠けっぷりは可憐で美しい。
またエゴイスティックな小動物が決して偽善家ではないと云う証拠にもなるように思われる。
知っていても猫はアンリ・ルッソウが好んで描いたような青い熱帯の森の涼しい草の中に柔らかく前肢をまるめて折って座り、ひとりで静かに大きな蝶の夢でも見ていた方が仏の御心にかなっていると信じていたのではないか?
一字一句まで同感です。臨終の際にそばでわんわん泣かれるよりも、ゆるやかに大きな蝶の夢を見ていてもらったほうが、お釈迦様としてはうれしかったはずだ!っていうか、蝶の夢を見ている猫がかわいくて仕方がありません。
まだ半分ぐらいしか読み終わっていませんが、この猫随筆の傑作には、紹介したいエピソードが満載です。