03年07月07日(月)

 池袋をぶらぶら。

 パルコに寄ったところ、バーゲンをやっていたのでサンダルやら財布やら帽子やらを大量購入。登山用のバックパックを買おうと思っていたのに、お金がなくなった。

 その後、リブロへ。阿呆みたいに本を購入。登山用のバックパックを買おうと思っていたのに、お金がなくなった。

 帰りにお茶を飲める場所に寄って買ったばかりの本を読む。

 養老孟司著『バカの壁』。養老氏が口述したものを、別の編集者が文章にしたもの。売れている割に評判があまり良くないし、養老氏の別の著作と比較すると確かに物足りなさは感じるけれど、いろいろな意味で面白く読むことができた。

 人と接するとき、確かに会話は成立していたはずなのに、こちらの伝えようと思った意図がまったく異なる意味として伝わっていることがよくある。もちろん、ぼくの伝達能力に問題があることは否定しないが、情報の伝達の難しさは、誰もが少なからず経験したことがあるのではないだろうか。

 養老氏は冒頭で、ある夫婦の妊娠から出産に至るドキュメンタリー番組を、薬学部の学生たちに見せたときのことを話す。番組を見終えて感想を聞くと、女子生徒のほとんどが「大変勉強になった」と答えたのに対し、男子学生のほとんどは「全部知っていることばかりだった」と答えたという。もちろん、女子学生の妊娠と出産に関する知識が、男子学生よりも乏しいはずはない。養老氏はその違いを、「与えられた情報に対する姿勢の問題」であるとする。妊娠と出産という、近い将来に自分が関係するであろう情報に対峙した女子学生は、ほんの些細な発見であってもそれを積極的に取り込もうとする。それに対して妊娠と出産を身体的に経験することのない男子生徒は、保険体育で学んだ知識以上のことを発見しようとはしない。その結果、多くの情報を含むドキュメンタリー映画を観ても、「全部知っていることばかりだった」という結論しか導き出せないのである。養老氏はこのことを、脳内の一次方程式 y = ax という式で表現する。x は五感から脳への入力、y は運動系からの出力、a は「現実の重み」。情報としての x を入力しても、その情報に対する現実の重み、情報としての価値 a がゼロであれば、出力はゼロになるし、a の値が大きければ大きいほど、出力も大きくなる。a の値がマイナスであれば、y の値もマイナスとして出力される。同じ情報を与えても、その情報に対する各個人の「現実の重み」によって、出力はマイナスにもプラスにも、あるいはゼロにもなり得るという。このような、情報を自主的に遮断してしまう壁、これが『バカの壁』であり、この壁を持つ人間は、わかっていないことを「わかっている」と勘違いしてしまう、と養老氏は言う。

 正直なところ、読んでいて首をかしげてしまう個所もいくつかあったけれど(個性に関して物理的な側面ばかりを強調しているところや、犯罪者の脳構造のCTをとることを奨励している点、一元論と二元論に関する記述など、「コモンセンス」という言葉の捉え方など)、全体的に興味深い内容で、一気に読み通してしまった。その全てに言及したいところだけど、とりあえず一番気になった点について少し書きたいと思う。養老氏は、第四章『万物流転、情報不変』の中で、次のように書いている。

 他の動物よりも脳の容量の大きい人間は、「考える」ことによって「概念」を作り出し、その概念を現実化(養老氏の言葉を使用して言えば「脳化」)してきた。現代を生きるぼくたちにとって、身の回りにあるほとんどすべてのものは想像から生まれたものであると言ってもよいだろう。そして、そのように人間が考え出した抽象概念を代表するのは、「神」である。

 人間の脳の容量は、チンパンジーの約三倍である。人間が他の動物よりも知能が高いのは、単に脳みその容量の問題である。そして、人間の脳が他の動物よりも大きくなったのは、単に遺伝子の問題である。つまり、人間の脳を大きくした遺伝子さえ抽出できれば、人為的に脳を大きくすることができる。これに近い実験は、すでにマウスを実験対象として行われている。マウスで成功すれば、次は猿だろう。猿の脳を人間と同じ大きさにすれば、『猿の惑星』に登場した猿が、現実に誕生するかもしれない。その次は人間に応用されるだろう。人間の脳を、現在の三倍の大きさにしたらどうなるだろうか?

 ぼくたち人間の常識で考えれば、人間以外の動物は人間の世界を理解することはできない。昆虫は動物の世界を理解できないし、動物は人間の世界を理解できない(その逆もまた然りだけど、そのことには今は触れないでおく)。それと同様に、現在の人間の脳の三倍の大きさの脳を持つ人類(プラスαの人間)が誕生した場合、ぼくたちは彼らの世界を理解することはできないだろう。人間が考え出した最大の概念である「神」を、つまりぼくたちの知覚できない世界を知覚し、ぼくたちの感覚の及ばない世界を感覚する「プラスαの人間」を、人類は今まさに作りだそうとしているのである。

 これは、とても恐ろしい話だと思う。ここ数年、クローン技術に代表される科学の無謀な進歩は倫理的な立場から強く糾弾されているが、クローン技術どころの話ではない。人類は、自分たちが踏み込むことの出来ない世界を理解する「神」を生み出そうとしている。知能のレベルが人類の延長線上にあるならば、まだ救いはある。しかし、プラスαの人間と現在の人間の知能の差は、そのようなレベルをはるかに超えているかもしれない。それが人類の脅威にならないという保証は、どこにもない。人間が理解できるのは人間が理解できることだけであるということを、忘れてはいけない。このことは、倫理のレベルで話し合うべき問題だと思う。

 長々と書いてしまったけれど、こうやって書きながらぼくが一番興味あるのは、「プラスαの人間」の世界よりも、今ぼくたちのまわりにいる動物たちの世界に関することで、言語というシステムを使用しない動物が世界をどうやって認識しているのか、彼らは人間という存在をどのような消化しているのか、そちらのほうに興味がある。しかし、これは脳の話ではないのでまた後ほど。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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