
02年06月23日(日)
Palmにも飽きてきたので、CLIEに買い替えようかと思いながら、そのPalmで幸田露伴の「些細なやうで重大な事」を読んでいたところ、いたく感動しそうろう。
露伴さんは、人間には「事に処する」「物に接する」の二つの仕草があって、「物に接する」ということがきちんとできないことには、巧く「事に処する」ことなど出来ないとおっしゃります。
物をその有りように従って扱うことは当然のこととして、その心がけは「何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さを尽くさせるのが正当である。」
すなわちその心は孔子が言うところの「仁」である、と申しております。
「仁」とは一体どういうことなのか、それを説明できるほどぼくは徳を積んではいませんが、保坂和志は「愛」というエッセイで以下のように書いています。
「愛」
友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身がよく口にしていた「愛」を忘れてしまったんじゃないのか?
ゴッホが弟テオへあてた手紙に「君は何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死の中に取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの「奉仕」のことで、ゴダールが「ヌーヴェル・バーグの力というものが生まれたのは、あるいはまた、ヌーヴェル・バーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者がお互いに映画について語り合っていたからです」と言ったときの「語り合い」を支えていたもののことだよ。
心がそういう状態にあるときに感受する情報の量はたいしたものだ。美術館でクレーの絵の実物を見たときに、あなたが「動く!」と感じたものがカタログでは決してそうならないのも、実物と印刷物とで得られる情報の量に膨大な違いがあって、クレーがキャンバスに敷いた綿密な下地や筆のタッチによる凹凸まで印刷では再現できていないからだけれど、あなたがよく口にしていた「愛」があるかないかは、世界から感受しうる情報の量や密度や強度において、クレーの実物の絵と印刷物ほどの違いが生まれるものなんだよ。
それからやっぱり、大変でもラカンを読むことを忘れないように。苦労して読むということは、読みながら自分の知識や経験を総動員することだから、ラカンの理論が理解できないにしても、きっと「愛」の状態と同じだけの情報の量を生み出すことにはなると思うよ。
(保坂和志「アウトブリード」『愛』より。)
ここでいう「愛」とは、まさしく露伴さんがいうところの「仁」なのではないでしょうか。
(これ、完全に無断引用でして、著作権的に相当やばいと思うのですけど、僕はこの文章が本当に好きで、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので引用しちゃいました。愛ゆえの行為ということで。)
露伴さんは言います。
こんなおじいちゃんになりたい。
露伴さんは、人間には「事に処する」「物に接する」の二つの仕草があって、「物に接する」ということがきちんとできないことには、巧く「事に処する」ことなど出来ないとおっしゃります。
物をその有りように従って扱うことは当然のこととして、その心がけは「何処までもその物を愛し、重んじ、その物だけの理や、強さや、必要さを尽くさせるのが正当である。」
すなわちその心は孔子が言うところの「仁」である、と申しております。
「仁」とは一体どういうことなのか、それを説明できるほどぼくは徳を積んではいませんが、保坂和志は「愛」というエッセイで以下のように書いています。
「愛」
友人Kは言った。あなたはいま、さしあたり形になる目的を持ってしまったために、あなた自身がよく口にしていた「愛」を忘れてしまったんじゃないのか?
ゴッホが弟テオへあてた手紙に「君は何がこの牢獄を消滅させるか知っているか。それはすべての、深い、真面目な愛情なのだ。友人があること、兄弟があること、愛していること、これらのものこそその至上の力と、非常に強力な魔力で牢獄を開くのだ。だが、それらがない者は死の中に取り残されるのだ。しかし、共感が再生するところ、必ず生命もよみがえる」と書いてあったじゃないか。
カール・ベームが「いままで大勢の観客や演奏家が私のモーツァルトを支持してくれました。それは私の演奏がモーツァルトへの愛に満ちているからだと思います。モーツァルトはロマンチックでも感傷的でもありません。彼の音楽は人間の情熱のすべてですが、決して感傷的ではない」と言ったときの「愛」や「情熱」のことだし、メルロ=ポンティが「音楽的ないし感覚的な緒理念は、まさにそれらが否定性ないし限定された不在であるが故に、われわれがそれを所有するのではなく、その緒理念がわれわれを所有するのである。ソナタを作ったり再生したりするのは、もはや演奏者ではない。彼は、自分がソナタに奉仕しているのを感じ、他の人たちは彼がソナタに奉仕しているのを感じるのであり、まさにソナタが彼を通して歌うのだ」と言ったときの「奉仕」のことで、ゴダールが「ヌーヴェル・バーグの力というものが生まれたのは、あるいはまた、ヌーヴェル・バーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者がお互いに映画について語り合っていたからです」と言ったときの「語り合い」を支えていたもののことだよ。
心がそういう状態にあるときに感受する情報の量はたいしたものだ。美術館でクレーの絵の実物を見たときに、あなたが「動く!」と感じたものがカタログでは決してそうならないのも、実物と印刷物とで得られる情報の量に膨大な違いがあって、クレーがキャンバスに敷いた綿密な下地や筆のタッチによる凹凸まで印刷では再現できていないからだけれど、あなたがよく口にしていた「愛」があるかないかは、世界から感受しうる情報の量や密度や強度において、クレーの実物の絵と印刷物ほどの違いが生まれるものなんだよ。
それからやっぱり、大変でもラカンを読むことを忘れないように。苦労して読むということは、読みながら自分の知識や経験を総動員することだから、ラカンの理論が理解できないにしても、きっと「愛」の状態と同じだけの情報の量を生み出すことにはなると思うよ。
(保坂和志「アウトブリード」『愛』より。)
ここでいう「愛」とは、まさしく露伴さんがいうところの「仁」なのではないでしょうか。
(これ、完全に無断引用でして、著作権的に相当やばいと思うのですけど、僕はこの文章が本当に好きで、出来るだけ多くの人に読んで欲しいので引用しちゃいました。愛ゆえの行為ということで。)
露伴さんは言います。
さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。露伴さん、素敵です。
こんなおじいちゃんになりたい。