
03年09月12日(金)
鈴木大拙師の『一禅者の思索』を読んでいたら、次のような文章がありました。
達磨さんの弟子に慧可といって、あの臂を断ったという有名な人がある。これを禅宗の第二祖とする。この人が達磨さんを尋ねた事柄は何であったかというと、安心をしたいというのだ。別に神や仏のご利益を受けたいとか、生活上に安楽を貪りたいとかいうのではなくて、その心の安らかならんことを願うた。安らかなことというのは、その心に畏れのないことだ。
ああ、いいなあ。すごくいい。たしか大宰だと思いますが、一日のうちに十五分でも何の不安もない安心のできる時間があれば、それは幸せ日だ、というようなことを言っていたと思いますが(うろ覚えなので確信はありません)、慧可さんが臂を断ってまでも得たいと思ったのが、悟りではなくては安心であったということろが、すごくいい。
ついでにもひとつ。
仏教は必ずしも神にすがらぬ。天地創造の神は、あったも、なくても、必ずしもその心を煩わさぬ、ひたすらに安心せんことを求める。ここに東洋の宗教的修養の目標が西洋のと違っていることを示している。東洋は内を見る、西洋は外に動く。動く者は、秩序と論理とに優る。見るものは、透徹と直観と円融とに秀ずる。
すごい極論に読めなくもありませんが、兎も角も、ぼくには透徹も直観も円融もなく、ただこのように本を読んで無窮に幸せを感じることが、なによりも安心です。