
スパイク・リーの『ゲット・オン・ザ・バス』を観ました。めちゃおもしろかった。鉄割の誰だかが、スパイク・リーの映画でつまらない作品を観たことがないとおっしゃっていましたが、まったくもって同感です。そんな彼の作品の中でも、個人的に1,2を争うぐらいおもしろかった。
物語は単純で、「百万人の大行進」に参加する黒人たちが乗り込んだバスが舞台のロード・ムービー。バスに乗り込んだ乗客たちは、見事なぐらいに多種多様、手錠でつながれた親子や、別れ話真っ最中のゲイカップル、やたらと政府の陰謀説を主張するもの、他人に対して非常に差別的なものなどなど。皆それぞれに参加した背景が異なり、ほとんど絶え間なく口論を繰り返すのですが、時には一緒に歌を歌ったり踊ったりと、黒人としてのアイデンティティを共有していることがわかる場面も多く登場します。
映画を観ていて思ったのですが、アフリカ系アメリカ人の世代の間に、断絶というものはあるのでしょうか。白人にとっての世代の断絶、いわゆるジェネレーション・ギャップというものは、例えば二十年代の「失われた世代」や、八十年代の「ジェネレーションX」などという造語からも理解することができるのですが、アフリカ系アメリカ人におけるそのような世代の断絶を表現する言葉をぼくは知りません。同じスパイク・リーの『ラストゲーム』は、父親と息子の親子の葛藤を描いた作品ですが、そこでも描かれているのは、父親を許すことのできない息子と、その息子に自分の釈放のチャンスを握られている父親という、あくまでも「親子の葛藤」であり、父親と息子の間の、お互いの理解を越えた断絶ではありません。
うーん、具体的な例が思いつかないので話が曖昧になってしまいますが、彼らの間に世代の断絶を感じることがないのは、彼らの背負っている過去によるものなのかな、と思いました。例えば、マニング・マラブルは次のように述べています。
アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている。それはアフリカ系アメリカ人の伝統、儀式、価値、信仰体系でもある。われわれの文化、歴史、文学、われわれの人種意識と、人種差別にたいする抵抗の遺産にたいする誇りなのである。
「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは人種をはるかに越えている」は、「アフリカ系アメリカ人のアイデンティティは世代をはるかに越えている」と読み変えても、不都合はないように思います。とはいえ、彼らの間に(いわゆるジェネレーションX的な)世代の断絶がないのではないか、というのはあくまでもぼくの印象なので、実際のところどうなのかはわかりませんが。
兎に角も、『ゲット・オン・ザ・バス』は最高に面白い映画でした。個人的には『マルコムX』よりも面白かった。
公民権運動がにたらしたものはふたつ
黒人のわずかな権利と
白人が恩着せがましく語る権利だ