
本屋さんを徘徊していたら、野矢茂樹氏訳のウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』が出ているのを発見。とうとう待ちに待った野矢版『論考』の登場です。この『論考』は、別の訳(中公クラシックスと、法政大学出版のもの)でも読んでいるのですが、野矢茂樹訳となれば読まないわけにはいかないでしょう。
この野矢茂樹という方、今ぼくの中で一番に気になる学者さんで、著作の中ではおそらく『論理トレーニング 』が一番有名だと思いますが、その他にも多くの優れた著作を発表しています。たとえば自身の哲学書であれば『同一性・変化・時間
』とか『心と他者
』、またあるいは講談社新書から『哲学の謎
』や『無限論の教室
』などの哲学入門書とか、論理学の入門書である『論理学
』とか。そのいずれもが、読むと目からうろこが落ちまくりですのよ。
その中でも、誰にでも自信を思ってお勧めできるのが『哲学の謎』で、「哲学を学ぶということは、哲学史を学ぶということ」と、たしか竹田青嗣氏だか誰だかが言っていたと思うのですが、それはある意味においては確かにその通りで、だから哲学入門書の大抵は、哲学の歴史やいにしえびとの思想をやさしく解説しようとします。けれども、この野矢氏の『哲学の謎』は、そのような哲学史的なことにはほとんど言及せず、(言及したとしても軽く「だれだれはこのように言っていた」程度)登場するふたりの人物がお互いに疑問をぶつけあって、その疑問に対して思索を重ねていくという形式で書かれています。
例えば第一章は『意識・実在・他者』。夕焼けは赤い。夕焼けが赤いのは、人間(やその他の動物)の網膜が光に反応した結果であり、それを赤いと受け取る側が存在するからである。それでは、地球上からすべての生物が絶滅した後、すなわち夕焼けを赤として見るすべての存在が消滅した後も、夕焼けは赤いのだろうか。第二章は『記憶と過去』。世界が五分前に創られたという可能性について。実は世界は、五分前にあなたの過去の記憶と共に誕生した。過去の記憶も同時に創られたわけだから、あなたは過去を経験していると思っている。この可能性を反駁できるだろうか?ふたりの会話は、答えらしい答えがでないまま、疑問が疑問を呼び、どんどんと続いていきます。
要するにこの本は、哲学を学ぶのではなく、「哲学をする」ことを学ぶための本です。哲学をするというのは、日常に生じたふとした疑問について考えることです。重要なのは、その疑問に対する答えを見つけ出すことではなく、疑問について考えるというプロセスです。『哲学の謎』は、そのような思考のプロセスを、ふたりの語り手によって再現し、ぼくたちに「哲学をする」ということを教えてくれるのです。このふたりの関係は、『ソフィーの世界』のような教師と先生の関係ではなく、あくまでも対等な友人同士であり、共に疑問に対する答えを知っているわけでもなく、会話の中で答えを見つけ出そうとしますが、結局ほとんどの問題に答えは見つかりません。けれども、答えの出ないふたりの会話を読み終えた後も、読者の側での思考のプロセスは継続します。
哲学史的なアプローチから、古人がどのような哲学を行ってきたのかを知ることも重要だと思いますが、それに先立って自身が哲学をすることを忘れていては意味がありません。他人の思想を理解しようとすることも重要だと思いますが、それに先立って自身が哲学をすることを忘れていては意味がありません。自分自身に言い聞かせて、精進精進。