

午前十時起床、新大久保へ。約三年ぶりの新大久保。会場に着くとぼく以外の全員がスーツ。そうだ、世間というものはこういうものだった。こころの中で中指立ててつば吐いて、気持ち的に颯爽と途中退場。
帰りに新大久保のお店に立ちよって、数冊の雑誌を購入。文藝別冊の『内田百けん』も一緒に購入。百けんさんの娘さんの伊藤美野さんの文章が嬉しい。百けんさんにも家庭があって、子供もいたということが、当たり前なのに何となく不思議な感じ。
古本屋さんで森島恒雄著『魔女狩り』を購入。途中のお茶屋さんで読書。読みながら、涙が止まりません。カール・セーガンは、『人はなぜエセ科学に騙されるのか
』の中で、魔女狩りに触れて次のように書いている。「人間とは何をどこまでやるものなのか—それを知らなければ、われわれは自分自身から自分を守る手だてを正しく見抜くことはできない。(中略)魔女狩りは、人間が自らを知るための窓なのだ」。
『魔女狩り』の中で衝撃的なのは、人々が受けた肉体的な拷問などの残酷な記録よりもむしろ、人々の行動の記録、あるいは書簡や著作の内容、つまり人間の精神面に関する記録で、その中には裁く側の記録だけではなく、裁かれる側、魔女として逮捕され、拷問を受け処刑される人々の数少ない書簡などもあります。何の根拠もなく逮捕され、拷問を受け、宗教が世界の秩序を成立させていた時代に、自らが魔女であることと認めさせられ、無理やりに知人の中から無実の共犯者を自白させられ、最後には火に焼かれる人々の悲痛な叫び。思わず目を閉じてためいき。
ニコラ・レミーに関する以下の文章を読んだときには、思わず本を閉じてしまいました。
裁判官であるニコラ・レミーが晩年に痛切に後悔したことは、彼が幼い子供に「寛大でありすぎた」こと、そのために、その子供たちを「焼かずにすました」ことであった。魔女を撲滅するためには、悪魔の血を受けた子供を生かしておいてはならなかったからである。
でも読まなくちゃ。最後まで。生涯において、自分と、自分のまわりの人が、ニコラ・レミーにならないためにも。
本文中で何度か引用されているパスカルの言葉を、ここでも引用しておきます。ここでパスカルが述べる「宗教的信念」という言葉は、そのまま「科学的信念」という言葉にも、あるいは単なる「信念」という言葉にも置き換えることができると思います。ばかとはさみは使いようによっては切れますが、使い方を間違えれば大けがをします。宗教と科学も、同じようなものですから。
人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない(『パンセ』)
信念を持つことはとても良いことですが、柔軟に、柔軟に。ちょっとぶつかったらすぐに割れてしまう程度の信念が、ちょうど良いのかもしれません。