
03年11月18日(火)

『ガルガンチュワ物語』などの翻訳や研究で知られるフランス文学者渡辺一夫氏の『狂気について
』という評論集を読書、「買書地獄」というエッセイに強く共感いたしました。
学生時代、本を買い漁っていた渡辺さんは、ご両親から「万巻の書を積んでも読まざれば持たざるに等しい」という福沢諭吉の言葉を元に警告をされます。それに対して渡辺さんは「本はあれば読むし、なければ読まぬものである。また、座右にあればいつか必ず読む機会があるはずだし、書物は辞典のようにして用うべきもである」などと弁解したそうです。学校を卒業して職につくと、量より質とばかりに買書も少し落ち着きますが、それでも外国の古本屋さんに注文した本が届いたときなどは相当に嬉しかったのでしょう、新婚の奥さんに、新著の本を愛撫するときが一番楽しそうだと言われたとか。
現在でも金があまりそうになると、いや、あまったことにして、本屋をうろつき廻り、財布が空になるまで買い込むことが時々ある。欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る。生理的に発展してきたのである。金がなくてどうしても買えぬ時には、世のなかが暗くなってくる。そして、一所懸命に、その本を買わなくてもよい理由を考え出そうと努めるのが常である。「去年の雪は今いずこ」である。子供のパンツと靴下の代が、図らずも黄表紙赤表紙に化けることがある。えいっ!と思うのである。妻—いや女房は黙然としている。向こうでもえいっ!と思うのであろう。僕も再びえいっ!と思う。別に喧嘩もしない。
「欲しい本を見附けると喉がぐうぐう鳴る」という感じ、すごくよくわかるなあ。
面倒臭いので、後半は丸ごと引用します。本当は全文を引用したいぐらいなのですが。
こうした買書態度は、金と暇(生命)とが十分にある限りは許されるかもしれないが、いかなる人間もあらゆる意味で有限であるから、この態度は極めて非現実的であり、僕の正義は所詮空論となり、僕は寂然とする。
現実性のない正義の空論は、現実の犯す罪過に対する反省の糧になり、人類の進歩には欠くべからざるものでもある。僕の正論もそうなので、できたら我々は、本屋に通って本をたくさん買い込むべきものなのである。だが実際は、「若い時にはよく本を買ったものじゃ」という老人の数のほうが、死ぬまで本を買い続ける人の数よりもはるかに多く、後者は大概の場合、狂人扱い神経衰弱扱いにされるものである。だが前者は、その「若い頃」にノスタルジヤを感じているはずであろうし、本が買えずに読めなくなったのが口惜しくてたまらぬのである。だから、僕の正義の空論は以前として正しいのである。
ならべられた本は黙々としている。しかし、一冊一冊に収められた作者の小宇宙は、その深浅濃淡はあろうが、驚くほど雑多である。心の耳を澄ますと、轟々たる歓喜憤怒怨恨悲哀・・・の声が聞こえてくる。脅威される。なぜ人々はあんなに本を書くのだろうか?二つの物体は、空間中の一つの位置を絶対に共有できぬこと、人間は同時に二つの物を鮮明に凝視できぬこと、人間は鏡の映像を藉りねば自分の背中の黒子を見得ぬこと、こうした人間の不自由さからくるあがきが、本を書かしめるのかもしれないし、このあがきが人間をして本を求めしめるのかもしれない。
本とは一体何だ?—そして、また本が買いたくなってきた。
学生の頃、フランス文学の先生に『ガルガンチュワ物語』や『パンタグリュエル物語』のあらすじを聞いて、そんな面白い話がフランスの古典にあったのか!と驚きました。それ以来、読もう読もうと思いつつ、いまだ頁を開かず。いい機会だからちょっくら買いに行ってきます。