02年12月07日(土)

 ちょっくら角田光代さんをまとめて読んでみました。

 この方の書く小説って、読んだ方もいらっしゃるかもしれませんが、一度読み始めると止まらないのですよ。しかも読みやすいから、あっという間に読んでしまうのです。なので、『東京ゲスト・ハウス』を電車で読んで、『エコノミカル・パレス』をカフェで読んで、『愛がなんだ』を夕食を食べながら読んで、『空中庭園』をふとんに転がって読みました。

 面白くなかったらそんなに読めるはずもないので、当然のごとく小説自体はかなり面白いのですが、この面白さはいったいなんなのだろうと考えてみたところ、もしかしたら小説の主人公に自分を重ねて読むという、ぼく的には一番恥ずかしい読み方をしているのではないか、と思うに至りまして、少々焦っているのですが、角田光代さんは1967年生まれで、ぼくよりも全然年上ではありますが、世代的には同世代ともいえるし、登場人物はぼくと同じ年くらいの若者ばかりだし、小説の書き方もとても巧みなので、登場人物に共感するのは仕方がないのかもしれませんが、なんとなくシャクゼンとしません。だって、『東京ゲスト・ハウス』のコピーなんかをみると

アキオはアジアを旅して帰国した。成田に着いて恋人マリコに電話するも、彼女は他の男と同棲していた。行き場を失ったアキオは“ゲスト・ハウス”に転がり込む。“何か”を探している人に読んで欲しい。

 わお!はずかしー!今どき「“何か”を探している人」って。なんですか「何か」って。ダブルクォーテーションで括らないで欲しい。“何か”なんて探してないですよう、ぼく。

 さらに『エコノミカル・パレス』のコピーは

34歳フリーター、同居の恋人は失業中。どんづまりの私の前に、はたちの男があらわれた——。生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す。

 もうねえ、言葉も出ませんよ。「生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す」ってなに?なんなの?こんなことを書いたら怒られてしまうかもしれませんけど、今どき「何かを探している」とか「生き迷う世代」なんていう表現はいかがなものでしょう。『東京ゲスト・ハウス』も『エコノミカル・パレス』もとても面白い小説だったので余計に腹立たしいのですが、「生き迷う世代を描いて<今>のリアルを映す」って、なにも言いようがない駄目な小説に使うようなコピーじゃないですか。とりあえずそう言っておけばいいや、みたいな。ぼくにはコピーを考える才能はないので、単なる文句で終わってしまうのがとても悲しいのですが、少なくともそのようなコピー群を読んで、小説を手に取ってみようとは思わないでしょう。

 別に本のコピーの文句を言いたいわけではなくて、「物語に共感する」とはどういうことなのか、を考えたいわけでして、小説の中に自分を見つけて自分の不甲斐なさを再確認してもどうしようもないのに、それが妙に快感だったりするのはどういうわけなのでしょう。今回読んだ四冊の中でぼくが一番好きなのは『エコノミカル・パレス』で、主人公は、甲斐性のない恋人と一緒に暮らし、恋人が失業したためにその生活費の大半を出すはめになった三十四歳の女性なのですが、その女性の行動がいちいち解るのです。理解できてしまうのです。ああ、わかるわかるって感じなのです。やべー、これって少女漫画読んで自己投影してその気になっている中学生と一緒じゃん!などと焦りを感じたりもするのですが、やっぱり解ってしまうのです。たとえば、物語の中で主人公は二十歳の若者に魅かれます。年が十四才離れているこの若者に対して、主人公が戸惑うシーンが何ヶ所かあるのですが、ぼくたちの世代が初めて遭遇する世代間のギャップに対する戸惑いが、これでもかというぐらい上手に描かれていて、うおー、わかるぞ、そう言ってしまう気持ち、そう行動してしまう気持ち、だってこれ俺じゃん!などと柴門ふみの漫画を読んで大学生が思うようなことを感じたりしてしまう自分がちょっぴり恥ずかしいの。

 もし、物語に自己を重ねてそこにリアルなものを見いだすことができるとしたら、ぼくたちは自分の物語を相対的に読むことが出来るわけで、そのように物語を通じて自分たちを俯瞰することによって、普段の生活では発見することができないような世代の在り方を見いだすことが出来るかも知れません。けれども、それは二次的な結果であって、角田さんの小説を読んだときにぼくが面白いと思った感覚の説明にはなっていません。

 もし物語に共感、あるいは「リアル」ということだけを求めるのであれば、おそらくインターネットで公開されている日記サイトに勝るものはないのではないでしょうか。インターネットの黎明期にはうんこだのごみだの言われていた個人の日記サイトですが、ここ数年でとんでもない広がりを見せ、今では個人で開いている日記サイトの他にも、誰でも簡単に日記を公開できるサービスもあったりして、そーとーすごい事になっています。しかも、その日記が妙に面白い。ぼくは「リアル」という言葉にはちょっと思い入れがあり、否定的にも肯定的にも使いたくないのですが、あえて使わせていただくと、日記サイトは下手な小説よりもずっとリアルです。だって、基本的には本当の現実を書いているわけですから。特に、個人が特定できていない、見知らぬ他人の日記なんかはとんでもなく面白かったりします。

 小説があって、それを読んで共感を得たり、あるいはそのリアルな描写に自己を投影させたりすることが小説を読むときの楽しみのひとつだとしたら、書き手の存在が明確でないWeb上の日記サイトは、もしかしたら小説以上に読み手のこころを奪うものになるのではないか、などと思うことがあります。たとえば二十代、三十代の女性による日記サイト「シングルトンズ・ダイアリー」。

■シングルトンズ・ダイアリー

 このサイトは、サイト内で公開された日記を集めて一冊の本にして出版しており、角田さんはまえがきとあとがきを書いています。残念ながら12月の16日でサイト内の日記の更新は終了し、12月25日で公開自体も終了してしまいますが、このサイトなんかを読んでいると、下手な小説よりもよほど共感や自己投影をすることができるでしょう。もちろん、書いている本人はそのまま現実を書いているだけなのだと思いますが。

 同じようなことは以前にも書きましたが、そのときは日記の面白さに「自己投影」という要素は挙げていなかったと思います。今回も、角田さんの小説をぼくが面白く感じる要因を知りたいという過程で、日記という活字形態を例に出しただけで、ぼく自信が他人の日記に自己投影をして楽しんでいるということはまったくありませんが、物語に「共感」を求めるととき、はたして現実の記録としての日記に打ち勝つだけの力を 文学は持っているのでしょうか。それはもちろん持っているでしょう。それでは、その力とは一体なんなのか?角田さんの小説を読みながら、ぼくが本当に物語の主人公に自己投影して感情移入して、それを楽しんでいるのだとしたら、個人の日記にはなくて小説の中にある面白さとは、一体なんなのでしょうか。それは物語の中の「イベント」を越えたものであることは間違いないと思うのですが。

 本当はね、角田さんの物語の中で深く考えさせられた部分について書きたかったのです。60年代後半から70年代前半に生まれた世代が、今どのようにして生きているのか。っていうか、あの世代って一体なんなのだろうということを。角田さんはそこら辺のことを書かせたら、おそらく今一番上手い作家さんですから。けれども、書き始めたら「どうしてぼくはこの小説がおもしろいのだろう」という事に意識が集中してしまいました。

えこのみかる

 角田光代さんの『愛がなんだ』は、Webで全編を読むことが出来ます。思いっきり恋愛小説でして、読みながら、わーお、これ俺じゃん!これ私じゃん!これあいつじゃん!なんて思う方もいらっしゃるかもしれません。お時間のあるときにでも、仕事をさぼりつつ読んでみて下さい。


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
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