
「都会にはカップルが多すぎる」。友にそう言い残して、ぼくは旅に出ました。
飛行機に自転車を積んで、リュックひとつでいざ熊本へ。今回の旅行では、熊本から大分へ九州を横断します。初日の今日は、夏目漱石が『草枕』で描いた熊本の地、小天へ向かって走ります。
熊本空港からバスで熊本駅へ。そこからは自転車で岳林寺へ向かいます。岳林寺からはいきなりの急坂。天気が良くて気持ちがいい。
しばらく進むと、鎌研坂に到着。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。『草枕』
『草枕』のあまりにも有名なこの書きだしの山路は、この鎌研坂だと言われています。さすがに自転車で走ることはできないので、押して歩きます。今まで、何度となく想像した山路を歩いていると思うと、なんとも言えない心持ち。
せっかくですから、なにか考えましょう。山路を自転車を押して登りながら、こう考えた。こう考えた。こう考えた。おっぱい。ちがうちがう。もっと崇高なことを考えましょう。こう考えた。こう考えた。坂道終了。
大きな国道を進むと、峠の茶屋公園に到着。『草枕』に登場する茶屋は、この鳥越の茶屋と、先にある野出の茶屋を合わせてモデルにしたのではないかと言われているそうです。現在は資料館になっている茶屋を管理しているおばさんがとてもよい感じでした。はい、チーズ。
路寂寞と古今の春を貫いて、花を厭えば足を着くるに地なき小村に、婆さんは幾年の昔からはい、チーズ、はい、チーズを数え尽くして、今日の灰頭に至ったのだろう。と、漱石を気取ってみたり。
休日ということもあって、茶屋公園はなかなかのにぎわい。けれども、ほんの少し離れてたところにある鳥越の茶屋跡には、誰もいません。しばし一休み。汗だくです。
竹林を抜けて、さらに先に進みます。竹林に吹くの風の音が、とても気持ち良い。
ここから、草枕をそれて少し寄り道をします。宮本武蔵が五輪書を書いたと言われる、霊厳洞へ。目的は、洞ではなくて境内に鎮座する五百羅漢です。
霊厳寺の境内に、野ざらしになっている羅漢の集団の前で、しばし休息。これらの羅漢群は、今から二百年ほど前に奉納されたということなので、それほど古いものではないと思うのですが、それでもやはりかなり崩れています。川越の羅漢なんかと比べると、一体一体に個性がないかわりに迫力がある。
さあ、先へ進みましょう。野出の茶屋跡へと続く石畳を登ります。ここも自転車は押して歩きましょう。なかなかの勾配です。
石畳を過ぎて、さらに走ると、ようやく野出峠に到着。岳林寺から始まって、登りっぱなしでしたが、ようやくここまで辿り着きました。天気が良いので、眺めも抜群です。
ここからは、なかなかの山道です。タイヤがパンクしては困るので、押したり乗ったりしながら、ゆっくり山道を進みます。その先は、下って下って下りまくりです。下りって、登りよりも腕の筋肉を使うので、とてもつかれます。
本日の目的地、那古井の里、旧前田邸に到着です。夢にまでみた草枕の地。
その後は、鏡池を観に行って(人家のようなので、中には入らないで、のぞき見たのですが)、草枕温泉てんすいでひとっ風呂あびました。丸一日坂道を登り続けた身体をゆっくりと休めました。有明海をのぞむ展望は、ビニールシートのようなものばかりでいまいちでした。
それにしても、この草枕の旅の道程は、あまりにも観光地になりすぎていました。まあ、しかたがありませんね。人が場所を小説に書けば、そこは以前の場所ではなくなります。それを書く人が著名であればあるほど、書かれた場所から以前の風景は消えていきます。行く先々に方向を示す標識が設置してあるのは、便利ではありますが興醒めでもあります。本当に非人情の旅をしたいのであれば、人に依らずに、自分で書くことのできる場所を探すしかありません。残念ながら、本日の旅は非人情の旅とは行きませんでしたが、明日以降に期待します。
夜は玉名温泉のちょっと良い旅館に宿泊しました。温泉に入って、夕食を食べて、近所の足湯場へ行って足湯に浸かりながら、読書を一時間ばかり、旅館に戻った後に横になってもう一時間ほどゆっくりと読書をしようと思ったのですが、ふとんに入るなり、ぐっすりと眠ってしまいました。
こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬくらいの事だろう。
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。
(中略)
ただこの景色が——腹の足しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。『草枕』