04年07月08日(木)

 先週、J-waveで放送していた幸田文の『流れる』が面白かったので、本を購入して読んでみました。今まで、彼女の作品は随筆のものしか読んだことがなかったのですが、小説がこんなにも面白いとは!読み逃していたことが悔やまれてなりません。主人公の梨花は、柳橋の芸者置屋に務める四十過ぎの女中。物語は、その梨花の眼を通してみた花柳界を中心に、三人称の語りで進行します。もともとは身分のある人の夫人であった梨花は、自然と置屋の女性たちをその眼で観察し、ほんの些細なしぐさや言葉の中に、その人の「格」や「品」というものを見てとります。その梨花の視点が美しい日本語で描写されており、読んでいるこちら側にも、その情景がありありと浮かび上がってくるのです。

 たとえば、次のような文章。置屋の女将が、姪の不二子にしがみつかれて倒れこむ瞬間の描写。

主人は子どもに纏わられながら、膝を割って崩れた。子どものからだのどこにも女臭い色彩はなく、剥げちょろゆかただが、ばあばと呼ばれる人の膝の崩れからはふんだんに鴇色がはみ出た。崩れの美しい型がさすがにきまっていた。子どもといっしょに倒れるのはなんでもない誰にでもあることだが、なんでもないそのなかに争えないそのひとが出ていた。梨花は眼を奪われた。人のからだを抱いて、と云っても子どもだが、ずるっ、ずるっとしなやかな抵抗を段につけながら、軽く笑い笑い横さまに倒されて行くかたちのよさ。しがみつかれているから胸もとはわからないけれども、縮緬の袖口の重さが二の腕を剥きだしにして、腰から下肢が慎ましくくの字の二ツ重ねに折れ、足袋のさきが小さく白く裾を引き担いでいる。腰に平均をもたせてなんとなくあらがいつつ徐々に崩れて行く女のからだというものを、梨花は初めて見る思いである。なんという誘われかたをするものだろう、徐々に倒れ、美しく崩れ、こころよく乱れて行くことは。横たわるまでの女、たわんで畳へとどくまでのすがたとは、人が見ればこんなに妖しいものなのだろうか。知らなかったこんなものだとは、−きまりわるく、それでも眼を伏せることができず、鮮やかな横さまの人をあまさず梨花は捉えていた。

 しかし次の瞬間、梨花はこの女将の中に、また別の面を見ます。

けれどもそれは僅かな間の影絵みたいなものだった。不二子が引放されるといっしょに、主人は片肘を力にすっと起きなおり、同時に左手でこぼれた裾を重ね、くの字の足は正座に畳まれた。習慣的に襟もとを整え、鬢に手が行った。みごとである。だが、はぐらかされたような不本意な気がしてくる。たしかにみごとと云う以外にないけれど、不本意な部分は起きかえってからである。繕う姿には長い習慣がうかがわれるだけで、しかもその習慣には不潔な影がくっついているのを、この人ほどの女が知らないのだろうか。起きた女、繕うおんなは興ざめな、つまらない女だった。

 この文章は、ほんの数秒の間に起きた出来事を描写したものです。ひとりの女性の中に、倒れて行く時には鮮やかな横さまの人の部分を、起き上がる時には興ざめなつまらない女の部分を、ほんの数秒のうちに感じ取り、それを巧みな言葉で見事に描写します。このような鋭い観察と美しい日本語が、物語の全体を通して展開します。それから、登場する女性たちの話す言葉、これがとても美しくて気持ち良い。いわゆる花魁言葉というものではないのですが、あまりにも流暢な東京言葉で、読んでいるだけでくらりくらりとしてしまいます。惚れちゃいそう。

 車谷長吉氏は、『文士の魂』という書評集のなかで、氏が選ぶ近代日本小説のベスト・スリーのひとつにこの『流れる』を挙げて、「目を瞠るばかり美しい豊饒な日本語」「近代日本の小説中で、これほどまでに女の自我の哀しさをくっきりと、奥深く描いた作品はほかにはないのではないか」と書いています(ちなみに、他の二作品は夏目漱石の『明暗』と深澤七郎の『楢山節考』です)。

 この作品は、1956年に成瀬巳喜男によって映画化されています。この梨花の視点や、登場する人々の立居振舞が、映画の中でどのように再現されているのか、とてもとても観たいのですが、どうやらDVDにはなっていないらしく、さらにビデオも入手困難で、レンタルでもまず入手不可能とのこと。今年の四月には阿佐々谷で上映していたらしいのですが、残念ながら見逃がしたので、またどこかで上映するのを待つしかありません。本当に、心の底から観たい。観たい。観たい。


Sub Content

雑記書手紹介

大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

最近の日記

過去の日記

鉄割アルバトロスケットへの問い合わせはこちらのフォームからお願いします

Latest Update

  • 更新はありません

お知らせ

主催の戌井昭人がこれまで発表してきた作品が単行本で出版されました。

About The Site

このサイトは、Firefox3とIE7以上で確認しています。
このサイトと鉄割アルバトロスケットに関するお問い合わせは、お問い合わせフォームまでお願いします。
現在、リニューアル作業中のため、見苦しい点とか不具合等あると思います。大目にみてください。

User Login

Links