

最近、幸田文さんの小説や随筆を読み返していて、東京の言葉の素晴らしさと面白さを再認識し、ここはひとつ東京言葉をきちんと身につけようかと、手始めに林えり子
著『東京っ子ことば
』を読んでみました。この林えり子さん、江戸に十四代続く御府内住いの生粋の江戸っ子でありますから、とにかく言葉にはうるさい。本書も、初っ端からお会計のことを「おあいそして」などという人に対して苦言を呈しています(正しくは「ツケ、頼みます」というそうです)。この『東京っ子ことば』は、そんな江戸っ子林さんの言葉に対するこだわり全開のエッセイで、次から次へと登場する東京言葉に、圧到されまくりです。
東京の人間でないぼくには、東京弁=江戸弁と短絡的に考えてしまいますが、この本で扱っているのは、江戸弁ではなくてあくまでも東京言葉、つまり、明治維新の後に形成された言葉で、林さんは中村通夫氏の『東京語の形成』から、以下を引用しています。
いま(昭和初期)につかわれている東京語は、明治初期にはまだ芽ばえの時期にあった。服装、生活様式から思考様式にまで新旧動揺のるつぼにあったのだから言語もその例にもれなかった。そのことばの混乱に直面して東京人が採った態度に沿って、東京語は形成されてきた。言文一致の試みがそれに拍車をかけ、骨格ができあがった
とはいえ、もちろん東京言葉の根底に江戸の言葉があることに間違いありません。『東京っ子ことば』の大半は江戸の文化に関する言及で占められています。江戸へ思いを寄せつつ、東京の言葉の粋を味わいます。
以前に川上弘美さんのエッセイで読んだのですが、彼女のお母さんは、驚いたときには「びっくり下谷の広徳寺、おそれ入谷の鬼子母神、そうは有馬の水天宮」などと自然に出てしまうような、二十五代にわたる生粋の江戸っ子だそうです。ぼくのまわりの東京人からは、驚いてもそのような言葉はでませんから、やつらはまだまだ本物の江戸っ子じゃあありゃあせんな。
正銘の江戸言というは、江戸でうまれたお歴々のつかうのが本江戸さ。−ちゃんとして立派で、はでやかで実も吾嬬男ははずかしくねえの式亭三馬『狂言田舎操』
東京の言葉に限らず、言葉というものは、地方地方によってそれぞれに味があって面白い。面白くないのは、その言葉が身についていないものが無理やりに使う言葉で、映画や舞台などで役者が使う方言や言葉ほど惨いものはありません。最近観た映画の中では、『たそがれ清兵衛』の真田広之・宮沢りえ両氏の方言はひどかった。東北の言葉は特に難しいということも原因だとは思いますが、美しい東北の言葉の響きが、かくも無惨というほどにつまらない言葉になってしまっていて、映画がそれなりに面白いだけに、その点だけが残念でなりませんでした。