03年10月26日(日)

 昼過ぎ起床、本日は何も予定がないので読書を三昧いたしましょう。

 先にも書きましたが、ここのところずっと西田幾多郎の『善の研究』を一日に数ページという遅読しておりまして、併せて西田哲学に関連する書籍などにも目を通し、理解の助けにしようと思っているのですが、西田哲学を知ろうとすれば京都学派を無視するわけには行かず、調べるうちに田辺哲学というものにも興味がわき、田辺元という哲学者に関連する書籍などを探すも、本人の全集すらなかなか見つからない始末。それで思い出したのが、以前に読んだ保坂和志氏と中沢新一氏の対談で、中沢氏がちょうど田辺哲学を論じた書籍を上梓したばかりで、保坂氏の哲学と田辺哲学を比較していたように記憶していたので、調べてみるとやはり中沢新一著『フィロソフィア・ヤポニカ』という田辺哲学と西田哲学を扱った書籍がありました。即買い。

 フランソワ・オゾン監督の『まぼろし』を観ました。主人公は、シャーロット・ランプリング演じる大学教授のマリー。冒頭、とても印象的な海のシーン。夫婦で訪れた先の海岸で、夫は突然に彼の肉体と共にその存在を消してしまう。その後に描かれるのはマリーのあまりにも危うい精神の状態、存在を失ってしまった夫のまぼろしを相手に、彼女は現実を忘れようとします。

 人が愛する人を失う場合、例えばそれが不慮の事故や病気によって亡くなったのであれば、埋葬という儀式によってその現実を理解し、乗り越えることができるかもしれないし、あるいは別れによって相手が自分の前から姿を消したのであれば、時間が忘れさせてくれるかもしれない(もちろんそれはとてつもなく長く、とてつもなく辛い時間になるだろうけれど)し、あるいはまた別の恋人を作ることによって忘れることができるかもしれません。『まぼろし』の主人公であるマリーは、この両方の可能性を抱いたまま、突然愛する人が自分の前から消えてしまったという現実だけが残った状態で、ひとりで生活をすることを強いられます。昨日までは一緒にいて、明日からも一緒にいるはずだった夫の存在が、ある日を境に突然消えてしまう。彼女にとっての不幸は、夫がいなくなったことでも、夫を喪失したことでもなく、夫の死体が存在しないこと、あるいは夫が失踪したという証拠がないこと。それは同時に救いなのかもしれないけれど、彼女は夫の記憶を思い出にすることも、あるいは忘れることもできないまま、ただまぼろしと会話し、まぼろしと共に生きる。

 印象的なシーンはあまりにもたくさんありすぎて、そのすべてを挙げることはできませんが、特に好きなのは、マリーが大学の講義で朗読をするシーン。彼女が読むのは、ヴァージニア・ウルフの『波』。シャーロット・ランプリングの美しい朗読が、とても哀しい。(知られていることですが、ウルフは1941年に入水自殺をしています)

 この監督の作品はまだ二作(『8人の女たち』)しかみていないし、その二作とも作風が異なるのでなんともいえないけれど、『まぼろし』のDVDに特典として収録されていた短編(これがまた良かった)なども併せてを観て思ったのは、ぼくはこの人の作品の映像の質感(『まぼろし』は前半は35ミリ、後半がスーパー16で撮られているらしい)がとても好きで、風景の切り取り方も、登場人物のセリフも動きも、すべてが完ぺきに近いほどにぼくの好みにフィットしているということで、この監督の作品を他にも観てみたいです。


Sub Content

雑記書手紹介

大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

最近の日記

過去の日記

鉄割アルバトロスケットへの問い合わせはこちらのフォームからお願いします

Latest Update

  • 更新はありません

お知らせ

主催の戌井昭人がこれまで発表してきた作品が単行本で出版されました。

About The Site

このサイトは、Firefox3とIE7以上で確認しています。
このサイトと鉄割アルバトロスケットに関するお問い合わせは、お問い合わせフォームまでお願いします。
現在、リニューアル作業中のため、見苦しい点とか不具合等あると思います。大目にみてください。

User Login

Links