03年10月30日(木)

 すっかり日が落ちるのが早くなりました。耳を澄ませばスイリリリンスイリリリンと鈴虫が鳴いております。

 古本屋さんの100円コーナーで蓮實重彦著『凡庸さについてお話させていただきます』を購入。『ボヴァリー夫人』のフローベール氏の友人であり、『悪の華』のボードレールから詩を捧げられているというだけで歴史に残っているマクシム・デュ・カンという、蓮實氏曰く、「冴えたところのまったくない、たぶん駄目な、また可愛いところはあったのかもしれないけれど、およそ、突出する部分というもののない凡庸な人」をとりあげて、蓮實先生が「凡庸さ」について語ります。ここで言う凡庸とは、才能の対極としての凡庸ではなく(蓮實氏によれば、そのような紋切型の構図そのものが凡庸ということ)、「愚鈍さ」に対立する関係としての「凡庸さ」のことであり、「愚鈍さ」とは「ものの感じられることのできないような何かまがまがしいもの、ただそこにあることでわれわれを脅えさせるようなもの」のこと。良く分からないでしょう。ぼくも良く分かっていませんけれど、ようするに、マクシム・デュ・カンさんは、なんの禍々しさもなく、そこにいてもじぇーんじぇん恐くもなければ気にもならない人物、ということでしょうか。

 このマクシム・デュ・カンさん、若い頃はフローベルの親友で、一緒にエジプト旅行へ行き、その旅行を元に当時としては画期的な写真付きの旅行記を出版しています。帰国後は『パリ評論』という雑誌の編集長になり、そこに自作の小説を発表しますが、『ボヴァリー夫人』を掲載したことが原因で雑誌は廃刊、フローベールとの仲も冷却化します。その後、サン・シモンの思想に触発された形で産業を賛歌する詩を発表したり、文芸批評や美術評論なども行い、その過程でフランスを駄目にした象徴としてアカデミー・フランセーズを徹底的に非難しますが、のちにその非難したはずのアカデミー・フランセーズの会員となり、さらに議長までつとめています。彼はその人生において、旅行記から小説、詩、文芸評論、美術評論、ルポタージュ、さらに写真まで発表しているのですが、現在、それらの彼の作品群は、歴史的資料としての価値以外には全く評価されず、図書館の資料室の奥の奥に眠っております(数年前、日本で「凡庸な人」としてのマクシム・デュ・カン展というものが行われたので、その時に持ち出されているかもしれませんが)。

 このマクシム・デュ・カンさんに関しては、蓮實重彦氏による『凡庸な芸術家の肖像』という別の著作でその生涯を詳しく読むことができます。蓮實氏が「凡庸さ」についてどのようなことを言いたいのか、ぼくにはいまいち良く分からないのですが、「才能がある」ということが、実際にどのようなことを差しているのか、そして「いったい何故、かくも多くの凡庸な人間たちが才能について語らなければいけないか」ということに関しては、少し深く考える必要があるかもしれません。ちなみに、「才能」とか「センス」とかいう言葉は馬鹿っぽくて大嫌いです。

 夜、京都の方と電話でお話、関西の人間は性欲が強いので三十過ぎても一日二回以上はオナニーをするのでありますということを、一時間以上にわたって伺いました。


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大根雄
栃木生まれ。
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