02年07月29日(月)
本屋をぶらぶらして雑誌を物色していたところ、『40's!』という雑誌が創刊しているのを見つけました。

 「『普通』が見えてくる日記マガジン」という副題のついたこの雑誌は、40代前後の一般の人々(この雑誌では市井の人々という言い方をしていますが)の2002年3月の日記だけで構成されています。

 日記を書いている方々の職業は、大学教授からそば職人までさまざまです。それぞれの日記の頭には、年齢や家族構成、職業、年収、尊敬する人など、執筆した人のプロフィールが簡単に書かれています。書いてある内容は当然のことながら人それぞれ異なり、休日に「なぜ、フランスはルイジアナをアメリカに売ったのか?」という息子のレポートを手伝っている大学教授もいれば、連休を「地獄」と表現するギタリストもいるし、毎日何もしないで思索に勤しんでいる無職の人もいれば、テレビを観ても映画を観て文句ばかり書いている人もいます。

 単なる個人の日記の寄せ集めと言ってしまえばそれまでなのですが、これが読み始めるとなかなか面白い。「平凡な人生なんて存在しない」という言葉がありますが、まさにその通り。日記によっては読んでいるだけでむかついてくるものもありますが、逆に癒されてしまうものもあります。

 たとえば、地域の生活保護の担当をしているある女性は、90歳の男性の家に訪問したときのことを書いています。以前にも訪れたことのある家であるにもかかわらず、この90歳の男性は生活保護担当の女性が家に上がることを執拗に拒みます。女性は、部屋が汚いからいやなのか、あるいは知人が訪ねてきているのか、と考えますが、どうもそうではなさそうです。自分のことを忘れているのかと思い、「生活保護の担当です」と言うと、90歳の男性は困った顔をして言いました。
「友人は皆70代で死んでしまった。皆遊び過ぎたのだ。真面目にやって来た私は思いのほか長生きした。ここいらで好きなことをしてもいいと思う。だが・・・」彼は残念そうに言う。「もう女性を満足させてあげられない

 ぼくはもともと日記文学が大好きでして、古いものだと『紫式部日記』から、近代のものであれば永井荷風の『断腸亭日記』や夏目漱石の『漱石日記』、正岡子規の『仰臥漫録』、海外のものであれば『アナイス・ニンの日記』、ヴァージニア・ウルフの『ある作家の日記』、最近のものであれば坪内祐三の『三茶日記』や、昔ガロで連載していた松沢呉一の日記など、お気に入りの日記作品をあげるときりがありません。最近では、武田泰淳の妻である武田百合子の『富士日記』なんかを読み始めました。
 雑誌『太陽』の1978年1月号はそのような日記文学の特集でして、どうしても手に入れたいのですが、どこにも売っていません。もし発見した方がいたら、御一報いただければ幸いです。

 僕がこれらの日記文学に惹かれるのは、尊敬する人や、興味のある人、あるいは逆に大嫌いな人の生活を垣間見るという楽しみと、良い生活のお手本を読みたいという純粋な欲求によるものです。
 たとえば、夏目漱石がロンドン留学中の1901年3月14日に書いた
穢い町を通ったら、目暗がオルガンを弾て黒い伊太利人がバイオリンを鼓していると、その傍に四歳ばかりの女の子が真赤な着物を着て真赤な頭巾を蒙って音楽に合わせて踊っていた。
 などいう日記を読むと、まるで自分がロンドンの片隅でそのような情景に出会っているように感じてしまいます。
あるいは、アナイス・ニンが1932年6月に書いた
シュルレアリストの自由な即興は意識の作りだす人工的な秩序や均整を打破する。混沌(khaos)には豊饒さがあるのだ。一瞬ごとに五つか六つある魂のうち一つを選ばねばならないとき、「誠実」であることは何とむずかしいのだろう。どの魂にしたがい、どの魂に合わせて誠実になればいいのか?
 などという日記を読むと、まるで自分が1930年代のシュールリアリズム運動の真っただ中にいるような、自分がヤリマンのバイセクシャルになったような気がして嬉しくなってしまいます。

 このような日記文学を読むのは、そこに日記を書いた著者に対する(肯定的にしても否定的にしても)興味、手本とすべき生活への興味があるからです。興味もなにもない人が書いた日記を読みたいとは思いません。少なくとも今まではそうでした。しかし、『40's』を読んで感じたおもしろさは、そのような「著者への興味」によるものではありません。執筆者の名前は公表されていますが、それが誰なのかはわからないし、その人が実際に存在するのかどうかすらはっきりしないのですから。それでは、いったいどうしてこんなにおもしろく感じるのか?

 ひとつには、同時代に生きる他人の生活に対する興味ということがあると思います。歴史的人物のような雲の上の人に対する興味とは別の、あくまでも自分と同じ時代に同じような生活をしている人に対する興味。

 ぼくがこの『40's』を読みながら考えたのは、『記録を残さなかった男の歴史ーある靴職人の世界1798-1876』という本のことです。

 この本は著者であるアラン・コルバンが、彼自身まったく興味を示さない歴史的に無名な人物をアトランダムに選んで、その彼の人生を調べるという、前代未聞の歴史書です。
 全く無名の人物の人生を調べるわけですから、その調査は難航を極め、最終的には空白の部分がかなり残ります(高橋源一郎はこの空白について、「この真の空白以上に豊かな主人公を我々は想像できないのである」と言っています)。この本に関しては、書きたいことが山ほどあるのでまた改めて取り上げたいと思いますが、とりあえずここで書いておきたいのは、この本が前代未聞だった理由が、「歴史的に無名な人物を語る」というテーマによるものということです。この本が出る以前、また出た当時は、学問にしても芸術にしても、歴史的に無名な人物を語るということはあり得ませんでした。アラン・コルバンは、そのような歴史的に目に見える形で意味のある人物や出来事だけを取り上げてきた歴史学に対して、警鐘を鳴らそうとしたのです。

 歴史的に無名な人物が記録を残さなかったのは、記録を残すだけの行動を行わなかったからです。もし彼が、歴史的に意味のある行動を行っていれば、歴史は彼の記録を残したでしょう。そして、僕たちも彼の記録を目にし、あるいは彼の書いた日記を読んだかもしれません。

 しかし、ここ数年のインターネットの普及により、ぼくたちは「歴史的に意味のある」人々の日記から、「自分たちの生活に共通する」人々の書いた日記を読み始めています。世界中では、日記を公開している人が数えきれないほど存在します。それは最初から公開することを目的として書かれた日記であり、自分と同時代に生きる人々に向けられた日記です。そしてそれらの日記は、日を追うごとにその数を増やし続けています。

 「人は本来的に語ることを欲する」と言いますが、今からほんの十年前ですら、一般の人々には世界に向けて語る術を持っていませんでした。現代では、歴史に名を残すような人物でもなくても、少しのパソコンの技術さえあれば、誰でも自分を語ることができるようになりました。そして、ぼくも含めて現代に生きる人々は、そのようにして公開された日記を楽しく読んでいます。みなさんも、友達がWebで公開している日記を読んでいるのではないでしょうか?っていうか、ぼくが今書いているこれも、その種の日記のひとつですし。

 もちろん、Webで日記を書いたからといって、それが歴史に記録を残すことにはつながりません。しかし、(普通という言葉はあまり好きではありませんが、他に言い様がないので)普通の人々が自分と同じような普通の人々の日記を読む、または公開するという行為は、これまでの歴史上ではなかった出来事です。人々は、英雄でなくても、偉人でなくても、自分を語り、他人を読むという術を手に入れたのです。

 『40's』を読みながら、普通の人の書いた普通の日々の日記が、今後文学や歴史にどのような意味を与えるのか、あるいは与えないのか、そんなことを考えてしまいました。アラン・コルバンが取り上げた靴職人も、現代に生きていたら、もしかしたら日記を公開していたかもしれませんね。

にっき


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大根雄
栃木生まれ。
鉄割パソコン担当。
いたりいなかったりする。

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