02年07月31日(水)
テレビをつけっぱなしにてぼーっとしていたら、NHKで『祖母・幸田文への旅』という番組がやっていました。

 幸田文さんは、その晩年に、全国各地の「崩れ」を巡って旅をし、そこで感じたことを『崩れ』というエッセーにまとめました。文さんがこの作品を書いたとき、すでに「年齢七十二歳、体重五十二キロ」であり、その旅路は簡単なものではありませんでした。そして四半世紀が過ぎた現在、孫である青木奈緒さんが再び文さんの旅した崩れの現場を旅しています。

 番組は、文さんの娘である青木玉さんと孫の青木奈緒さんへのインタービューを中心に進行するのですが、このお二人、地球外生命体みたいでとても良かったです。玉さんなんか、最初ロボットかと思ってしまいました。文さんの生前のフィルムも少し流れて、ぼくは文さんの話しているところを初めて聞いたのですが、想像していた通りちゃきちゃきの江戸っ子という話し方で、聞いていてとても気持ちが良くなりました。

 修復を終えた奈良の三重塔を訪れた文さんが関係者と話している映像には、完成した塔に感動したあまり落ち着きがないのか、声高になった文さんが「(重量感が)変わりましたね。そしてはっきり今度は勾配が見えるようになりましたね」と言っている場面が記録されているのですが、「変わりましたね。そしてはっきり今度は」の「そして」と言っているのがとても耳ごこち良いのです。普通、口語で「そして」とは言わないでしょう。言うかな。言うかもしれないけど、接続詞には「それに」とか、「あと」とか、言いませんか?この「それに」という接続詞の使い方が、とても素敵。江戸っ子っていいね、本当に。お孫さんである奈緒さんも、のほほんとした感じなのに、「そうさねえ」などと自然に言っていて、こんな嫁さんをもらったらぼくも江戸っ子になれるのかしら、などと思いました。

 文さんは、木々を巡る旅の途中で訪れた安倍峠で大谷崩れに出会い、「崩れ」に強く惹かれます。

 文さんが、雨が降ると崩れを起こす阿倍川と山のことを、「もてあましものなのですか?」と聞くと、関係者の方は「もてあましもの」という言葉を避けて、「人の力は自然の力の比じゃないし、その点がどうも仕様のないことです」と答えます。
私は無遠慮にもてあましもといったけれど、県の人は笑うばかりで、その言葉を避けて言わなかった。言わないだけにかえって、先祖代々からの長い努力が費やされたのだろうと、推測せずにいられなかった。人も辛かったろうが、人ばかりが切なかったわけでもあるまい。川だって可哀想だ。好んで暴れるわけではないのに、災害が残って、人に嫌われ疎じられ、もてあまされる。川は無心だから、人にどう嫌われても痛痒はあるまいが、同じ無心の木でも石でも、愛されるのと嫌われるのとでは、生きかたに段のついた違いがでる。安倍川は人を困らせる川といえようが、私には可哀想な川だと思えてならなかった。
 文さんが「崩れ」に惹かれたのは、その姿があまりにも寂寞として物悲しかったからでした。文さんは、「崩れ」に惹かれる気持ちを、こんな感じに書いています。
あの山崩からきた愁いと寂しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河原に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨て切れず・・・
山の崩れを川の荒れをいとおしくさえ思いはじめていた...
 人によっては、この『崩れ』という作品を、文さんの作品の中で異色なものとして考える方もいますが、ぼくはそうは思いません。文さんの書いた作品に一貫して共通する、弱いものに対する優しさが、『崩れ』には書かれています。「崩れ」という、猛々しいイメージのある言葉の中に、文さんの悲しみとやさしさが溢れているのです。

 『』という随筆集に収められた『ひのき』というエッセーには、「アテ」という、使用することのできない欠陥した木材のことが書かれています。文さんは、八月の「ごうごうと相当ショッキングに音をたてている」ひのきを見に訪れます。そしてそこで、木材業の人に樹齢三百年ほどの二本立のひのきを見せられます。その二本は、「一本はまっすぐ、一本はやや傾斜し、自然の絵というか、見惚れさせる風趣」を持っていました。しかし、木材業の方は言います。「まっすぐなほうは申分ない、傾斜したほうは、有難くは頂けない」と。

 木材業の方は続けて言います。この二本はある時期まではライバル同士だったのだろうが、何らかの理由で、いっぽんがもういっぽんに空間を譲る状態になり、傾斜したのだろう、二本立にはこういうのがよくある、そして、傾斜した方のひのきは、材に挽こうとしても抵抗が強く、使い物にならない。そのような木材を「アテ」と呼ぶ、と。

 文さんは、傾斜したひのきを見て思います。
そのひのきは、生涯の傾斜を背負って、はるかな高い梢にいただいた細葉の黒い茂みを、ゆるく風にゆらせていた。そのゆるい揺れでも、傾斜の躯幹のどこかには忍耐が要求され、バランスを崩すまいとつとめているのだろう。木はものを言わずに生きている。かしいで生きていても、なにもいわない。立派だと思った。が、せつなかった。
 文さんには、懸命に生きようとするばかりに、日照に当たろうと躯幹を傾けて成長したひのきが、「よくないもの、悪いものとして、なにか最低の等級にも入れられない、それ以下のものとされているように」聞こえたのです。『崩れ』は、ここで書かれている「アテ」に対するものと同じ感情の上に書かれているのです。

 ところで、幸田文さんといえば、言わずと知れた幸田露伴さんの実の娘さんです。露伴さんの回想記である『ちぎれ雲』は、大好きな随筆のひとつなのですが、先に触れた『木』に収められている『藤』という作品にも、とても素敵なエピソードが書かれています。

 ある日、文さんは、露伴さんに「町に育つおさないものには、縁日の植木をみせておくのも、草木へ関心をもたせる、かぼそいながらの一手段だ」と言われて、娘の玉さんを縁日に連れていきます。出かけに露伴さんは、「娘の好む木でも花でも買ってやれ」と言って、文さんにがま口を渡します。縁日に行くと、幼い玉さんは無邪気に、文さんの身長ほどもある、高価な藤の鉢植えをねだります。とてもじゃないががま口のお金で買える代物ではなかったので、文さんはそれを諦めさせて、結局玉さんは山椒の木を買います。

 家に帰ると、書斎から出てきて話を聞いた露伴さんは、みるみる不機嫌になります。玉さんの藤の選択は間違っていないというのです。「市で一番の花を選んだとは、花を見るたしかな目を持っていたからのこと、なぜその確かな目に応じてやらなかったのか、藤は当然買ってやるべきものだったのに」とマジギレです。文さんが反論すると、露伴さんは理路整然とさらに百倍ぐらい言い返します。ちょっと面白いので引用すると
好む草なり木なりを買ってやれ、といいつけたのは自分だ、だからわざと自分用のガマ口を渡してやった、子は藤を選んだ、だのになぜ買ってやらないのか、金が足りないのなら、がま口ごと手金にうてばそれで済むものを、おまえは親のいいつけも、子のせっかくの選択も無にして、平気でいる。なんと浅はかな心か、しかも、藤がたかいのバカ値のというが、いったい何を物差しにして、価値を決めているのか、多少値の張る買物であったにせよ、その藤を子の心の養いにしてやろうと、なぜ思わないのか、その藤をきっかけに、どの花をもいとおしむことを教えれば、それはこの子一生の心のうるおい、女一代の目の楽しみにもなろう、もしまたもっと深い機縁があれば、子供は藤から蔦へ、蔦からもみじへ、松へ杉へと関心の目をのばさないとはかぎらない、そうなればそれはもう、その子が財産をもったも同じこと、これ以上の価値はない、子育ての最中にいる親が誰しも思うことは、どうしたら子のからだに、心に、いい養いをつけることができるのか、とそればかり思うものだ、金銭を先に云々して、子の心の栄養を考えない処置には、あきれてものもいえない
 露伴さん、とても良いことを言っているのですが、こんなぐちぐちと言われたら、とりあえず蹴るでしょう。

 谷崎潤一郎は、幸田露伴が理解されるには100年はかかるだろうと言っていたと言います。ぼくは、ぜんぜん理解できていないことを承知の上で、少しでも心に良い養いをつけるために、露伴さんを一生読み続けたいと思っています。

 それから、ぼくはとても長い間アヤさんのことを「こうだふみ」と読んでいました。気の遠くなるくらい長い間。

紫藤

これの秋咲くものならぬこそ幸なれ。風冷えて鐘の音も清み渡る江村の秋の夕など、雲漏る薄き日ざしに此花の咲くものならんには、我必ずや其蔭に倒れ伏して死もすべし。虻の声は天地の活気を語り、風の温く軟きが袂軽き衣を吹き皺めて、人々の魂魄を快き睡りの郷に誘はんとする時にだも、此花を見れば我が心は天にもつかず地にもつかぬ空に漂ひて、物を思ふにも無く思はぬにも無き境に遊ぶなり。

幸田露伴『花のいろいろ』の中『紫藤』の項より


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大根雄
栃木生まれ。
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